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 景正先生が「随身」した牧野家の行方、その3

 越後 三根山

 

 藩の名前

三根山領、三根山藩、越後三根山藩、牧野伊勢守など。

丹後峰山藩とまぎらわしいとの理由で、明治3年(1870年)、峰岡藩と改称。
自分から願い出て9月に改名したとか、新政府により10月に改名させられたとか。

『明治三年九月、三根山藩は丹後峰山藩と同名で紛らわしいところから願出て峰岡藩と改めた。』(『三百藩藩主人名事典』)
『なお、この三根山藩は、丹後の峰山藩とまぎらわしいため、明治政府により明治三年(一八七〇)十月、峰岡藩と改められた。』(『藩史大事典』)

かつては嶺岡と書いたらしいが、現代の本ではだいたい峰岡藩と表記されている。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

譜代、菊間広縁詰?、無城定府。
1万1千石、明治2年(1869年)1万500石(後述)。

1万1千石というのは、ビリに近い小規模クラスの藩。
しかも三根山藩は、莫大な負債を抱えていた。
建国以来、日本が根本的に変わっていく激動の時代であり、先が見えないから、将来に備えて少しでも貯蓄しておきたい時。
しかも明治2年、三根山藩は新政府に500石カツアゲされたばかりなのである。

にもかかわらず、明治3年、長岡藩の惨状を見るに見かねて、三根山藩は米100俵を贈った。
それを食わずに教育費に回した長岡藩ばかりが美談になっているが、
三根山藩も評価されるべき。

本家だと言って、いばりちらすばかりで、てめえのとこの領民を飢えさせる長岡藩よりも、三根山藩のほうが偉いくらいではないか。

 

 位置と、土地の性格

越後国蒲原郡三根山。

現在の新潟県新潟市西蒲区峰岡。新潟市の西部。
かつては西蒲原郡巻町大字嶺岡といった。
長岡市から見て北に位置する。

『和納村文書によると、元禄八年から和納組、馬掘組、舟越組、竹野町組、舟戸組の五ヶ組一ヶ村(五ヶ浜村)の組制が布かれたようである。分知当初の領地は、十八世紀初頭(宝永年間)に一部長岡領と交換された。三根山領は替地も少なく、文久高直り後も和納組(六ヶ村)、船越組(一九ヶ村)、馬掘組(六ヶ村)、竹野町組(五ヶ村)、舟戸組(八ヶ村)、五ヶ浜村のごとく、四十一ヶ村で、これらはすべて西蒲原郡の中部地域に集中していた。』(『藩史大事典』)

 

 藩主と、藩の性格

  (旗本領、牛久保牧野家(定成系))

寛永11年(1634年)、長岡藩牧野家の初代、忠成侯が、四男の定成君に、蒲原郡17ヶ村、新田6000石(正確には6300石?)を与え、分家を作った。
といっても、最初は名目だけにすぎず、なにもかも長岡藩に命令され、独自性はなかった。

『三根山が実質的に分立するのは、承応二年(一六五三)以降のようである。』(『藩史大事典』)

以来、ずーっと旗本。交代寄合6000石。
大名になりたいなりたいと、何度も申請したが(特に5代目の忠知殿の時は熱心だったという)、認可されなかった。
11代目、最後の人だけ、大名になれた。

『幕末騒擾の時であり、一藩を作り越後の警備を強化したものと考えられる。』(『三百藩藩主人名事典』)

  牛久保牧野家(定成系)

幕藩体制崩壊ギリギリに作った藩なので、藩主は1名のみ。牧野忠泰侯。

文久3年(1862年)2月18日、込高分5000石を新規に打ち出し、合わせて1万1千石、ただし藩主は江戸に常駐、と幕府から命じられ、ついに大名になった。

ところが、この人は、肥前福江藩五島家9代目盛繁侯の、次男の長男。
ここも長岡と同様、牧野氏の血筋ではなくなっていた。

しかも、『幕末の激動期にあったため、次から次へと仕事を命ぜられ、領国に入れなかった。』(『藩史大事典』)というようなことで、忠泰侯が初めて領地の三根山を訪れたのは、慶應4年(1868年)3月8日。
とっくに大政奉還して、江戸幕府が滅亡していた。

戊辰戦争では、三根山藩は途中で官軍に恭順した。敗戦後に500石削られる。

『最初は消極的ながらも長岡藩と行動をともにしたが、のちに『不本意の出兵』であったことを訴え、庄内藩攻撃に参加した。信濃伊那に移封されかかったが、中止になった。』(『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』)

『慶応四年二月戊辰戦争に際し領内指揮をとるため三根山へ帰任。しかし小藩の立場は微妙であり、奥羽越列藩同盟と政府軍に挟まれ苦しい立場に終始したが、忠泰の指揮の下に大きな戦火にまきこまれることなく結着した。明治元年、新政府より転封の命令を受けとるが、領内の反対陳情もあり、明治二年領内より五百石上知ということに落着いた。』(『三百藩藩主人名事典』)

三根山藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月23日。

 

 江戸屋敷

麻布市兵衛町(文化年間、旗本時)。大名になっても、そのまま?

『東京時代MAP』では、市兵衛町というより、もっと南の、飯倉町、現在の麻布台三丁目に、『牧野筑後守』とある。
北は町屋。東と南はこまかい武家地で、宮崎、太田、渡辺、石井とある。西は太田原伊豆守(ママ。下野大田原藩上屋敷)。北西は戸田某邸。

 

 藩校

なかったと思われる。

 

 唯心一刀流継承者

いたという話は全く聞かない。

『家臣数は、十九世紀中頃(安政〜万延)で三十数家が数えられるが、』(『藩史大事典』)
大名になってから家臣を急募増員したのかどうか、それで戊辰戦争に間に合ったのかどうか。
この時代に採用があったとすれば、当時主流の道場剣術とか竹刀剣術のメジャー流派の人が入った可能性のほうが高いと思われる。

 

 他の剣術の主なところ

不明。
一説には、家臣たちは江戸では
直心影流をやっていたというが、詳細不明。

 

 現在の状況

不明。

 

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