景正先生が「随身」した牧野家の行方、その3 越後 三根山
藩の名前 三根山領、三根山藩、越後三根山藩、牧野伊勢守など。 丹後峰山藩とまぎらわしいとの理由で、明治3年(1870年)、峰岡藩と改称。 かつては嶺岡と書いたらしいが、現代の本ではだいたい峰岡藩と表記されている。
親疎、伺候席、城陣、石高 譜代、菊間広縁詰?、無城定府。 1万1千石というのは、ビリに近い小規模クラスの藩。 にもかかわらず、明治3年、長岡藩の惨状を見るに見かねて、三根山藩は米100俵を贈った。 本家だと言って、いばりちらすばかりで、てめえのとこの領民を飢えさせる長岡藩よりも、三根山藩のほうが偉いくらいではないか。
位置と、土地の性格 越後国蒲原郡三根山。 現在の新潟県新潟市西蒲区峰岡。新潟市の西部。 『和納村文書によると、元禄八年から和納組、馬掘組、舟越組、竹野町組、舟戸組の五ヶ組一ヶ村(五ヶ浜村)の組制が布かれたようである。分知当初の領地は、十八世紀初頭(宝永年間)に一部長岡領と交換された。三根山領は替地も少なく、文久高直り後も和納組(六ヶ村)、船越組(一九ヶ村)、馬掘組(六ヶ村)、竹野町組(五ヶ村)、舟戸組(八ヶ村)、五ヶ浜村のごとく、四十一ヶ村で、これらはすべて西蒲原郡の中部地域に集中していた。』(『藩史大事典』)
藩主と、藩の性格 (旗本領、牛久保牧野家(定成系)) 寛永11年(1634年)、長岡藩牧野家の初代、忠成侯が、四男の定成君に、蒲原郡17ヶ村、新田6000石(正確には6300石?)を与え、分家を作った。 以来、ずーっと旗本。交代寄合6000石。 牛久保牧野家(定成系) 幕藩体制崩壊ギリギリに作った藩なので、藩主は1名のみ。牧野忠泰侯。 文久3年(1862年)2月18日、込高分5000石を新規に打ち出し、合わせて1万1千石、ただし藩主は江戸に常駐、と幕府から命じられ、ついに大名になった。 ところが、この人は、肥前福江藩五島家9代目盛繁侯の、次男の長男。 しかも、『幕末の激動期にあったため、次から次へと仕事を命ぜられ、領国に入れなかった。』(『藩史大事典』)というようなことで、忠泰侯が初めて領地の三根山を訪れたのは、慶應4年(1868年)3月8日。 戊辰戦争では、三根山藩は途中で官軍に恭順した。敗戦後に500石削られる。 『最初は消極的ながらも長岡藩と行動をともにしたが、のちに『不本意の出兵』であったことを訴え、庄内藩攻撃に参加した。信濃伊那に移封されかかったが、中止になった。』(『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』) 『慶応四年二月戊辰戦争に際し領内指揮をとるため三根山へ帰任。しかし小藩の立場は微妙であり、奥羽越列藩同盟と政府軍に挟まれ苦しい立場に終始したが、忠泰の指揮の下に大きな戦火にまきこまれることなく結着した。明治元年、新政府より転封の命令を受けとるが、領内の反対陳情もあり、明治二年領内より五百石上知ということに落着いた。』(『三百藩藩主人名事典』) 三根山藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月23日。
江戸屋敷 麻布市兵衛町(文化年間、旗本時)。大名になっても、そのまま? 『東京時代MAP』では、市兵衛町というより、もっと南の、飯倉町、現在の麻布台三丁目に、『牧野筑後守』とある。
藩校 なかったと思われる。
唯心一刀流継承者 いたという話は全く聞かない。 『家臣数は、十九世紀中頃(安政〜万延)で三十数家が数えられるが、』(『藩史大事典』)
他の剣術の主なところ 不明。
現在の状況 不明。
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