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 景正先生が「随身」した牧野家の行方、その2.2

 信濃 小諸

 

 藩の名前

小諸藩、信濃小諸藩、牧野内膳正、牧野遠江守など。
こもろ、と読む。
『諸国城主記』では古諸と表記している。
もともとは、こむろ(小室)だったらしい。
『上田軍記』では、石田三成侯の書簡の文面も含め、小室と表記されている。

近江と武蔵に小室藩、三河に挙母(ころも)藩というのもあったので注意。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

仙石家は、譜代、帝鑑間詰、城主。
外様、柳間詰のはずだが(4代目の政俊侯からは、そうなる)、この頃は秀忠公付きという肩書を与えられ、優遇されていたという。江戸に行く時は、板橋まで幕府の役人が出迎えたなんて話もある。
5万石。

秀吉公から小諸を与えられた時点で5万石。
そのあと伏見城(初代。指月城)の築城工事の功績で、7千石を加増されているが、これは秀吉公からもらった計5万7千石であり、江戸幕府の幕藩制度ではない。
『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』では、第二次上田戦の時点で『仙石秀久(小諸五万七〇〇〇石)』とある。
『日本歴史人名辭典』は、秀吉公から7千石もらった話は書いてない。
徳川家から小諸を安堵というか公認された時に、7千石減ったか、減ってなくても表高5万石で設定したか。
『藩史大事典』では、『天正18・7(一五九〇)』の『石高(表高)』を『五〇〇〇〇』とし、忠政侯も『〃』であり、ずーっと5万石だったように書いてある。

久松松平家は、譜代、城主。5万石(佐久郡に35105石、小県郡に14894石)。
庶兄に5千石わけて4万5千石になる。

青山家は、譜代、雁間詰、城主。4万2千石。
一説には最初3万のちに4万2千だという。
『諸国城主記』では3万石。

酒井家は、譜代、城主。3万石。
西尾家は、譜代、帝鑑間詰、城主。2万5千石。
石川(大給松平)家
は、譜代、延宝2年(1674年)は菊間広縁詰、元禄元年(1688年)は雁間詰、城主。2万石。

牧野家は、譜代、雁間詰、城主。1万5千石。
『是とき五千石の地をくはへられ、與板をあらためて信濃國小諸城をたまひ、十月十三日、これより先菊間の廣縁に候すといへども、爾来は雁間に候すべきむね仰を蒙る。のち代々例となる。』(『寛政重修諸家譜』)
『藩史大辞典』では、康哉侯が万延元年(1860年)より「雁間」ではなく「鷹間」となっている。

 

 位置と、土地の性格

信濃国佐久郡(のちの北佐久郡)の一部、小諸宿付近。
寛永元年(1624年)9月からは、信濃国小県郡も。

現在の長野県小諸市周辺。長野県の東部分に位置する。

中山道と北陸道を連絡する「北国脇往還(北国街道)」というのがあり、善光寺参拝や、佐渡の金の輸送ルートだったが、その宿場町のひとつ。
江戸を攻める場合、尾張や駿河には徳川家ががんばっていて、もちろん碓氷峠も固めてあるだろうから、北陸から行く軍勢と、近畿から行く軍勢が、合流するとすればこの付近であり、戦略的に重要地点ではある。異様に坂道だらけ。

上田城で秀忠公が恥をかいた時には、徳川軍は小諸城を拠点にしたので、外様にやらせたくない歴史的な土地でもあった。

この付近では大きな都市であり、商業が発達していた。
いわば信濃国の表玄関であり、関東からの物資を信濃各地へ卸したり、信濃の物資を集めて関東へ送るという、扇の要のような位置だったという。
塩川友衛著『シリーズ藩物語 小諸藩』現代書館2007も、商人の話に紙面の多くをさいてらっしゃる。

のちに島崎藤村先生が千曲川や小諸城を題材にした作品を書き、小海線の起終点であると同時に信越本線と連絡していたこともあり、東京上野から特急列車で直行できる観光地として栄えた。

ところが現在は荒廃がいちじるしく、駅前はシャッター商店街になっていて、デパートも家電量販店も撤退している。
新幹線は、なあーんにもない上野安中に停まることはあっても、小諸は避けて通る。

小諸駅は、すぐ南に小諸城があり、新幹線用に拡張工事すると小諸城を壊すことになるため、未来に向けて歴史遺産を守るほうを選んだのだというが、その結果、信越本線も第3セクター化し、観光客が激減した。

それでも都内から行くなら長野新幹線。
軽井沢で降りて「しなの鉄道」か、佐久平で降りてJR小海線に乗り換え、いずれも終点が小諸で、料金もほぼ同じだが、しなの鉄道のほうがいい(接続の待ちが少ないようだし、始発だから座れる。軽井沢でスキーもできる)。
軽井沢では、しなの鉄道の改札前で美少女がジャムを売っているが、ここでピロシキを買うことをおすすめする。すぐにかぶりつくと後悔する(食べ終わってから、袋の底に、マスタードとケチャップを発見することになる。ロゴスキーと違って卵が多いので、マスタードは絶対必要)。
※追記 「使いますか?」と問われて、ほしい人だけがマスタードとケチャップを持っていく方法に変わったそうです。

小諸城址は「懐古園」という有料公園になっている。
駅を出て左の連絡橋を渡ると三の門があり、これが懐古園の入口。

フジテレビさんはシャレがわかってらっしゃるので、懐古趣味の権化のあの一家がたびたびここを訪れており、しかも、そのたびに、初めて来たような話をやっており、カツオ君が三の門の扁額を「園古懐?」と左から読んで波平さんに突っ込まれたりしている。

園内には美術館や資料館のたぐいがたくさんあり、桜の名所でもあり、長野県最古の小さな動物園もある。

ただし、冬に行くならブーツ必須! 積雪量はたいしたことないが、融けた雪が氷って融け、融けた霜柱が氷って融け、と繰り返された火山灰の土が、ぐちゃぐちゃである。
今どき、城に本気でトラップをかけているのは俺だけだろうと思って、おごりたかぶって入園したところ、替えズボンなし一張羅のスーツで裾まで埋没し、引き抜いたら靴が脱げた。ここは戦争のために作られた施設「城」なのである。さすがだ…。

 

 藩主と、藩の性格

  滋野小室家

征夷大将軍の源頼朝公が鎌倉幕府をやる前に、征東大将軍の源義仲侯が三日天下をやったことがあった。
義仲侯は頼朝公の従兄弟で、木曽義仲ともいうくらい信濃に潜伏していたが、依田城(現在の上田市)で挙兵し、京都を押さえる。

義仲侯に仕えた武将の一人に、小室光兼侯というのがいて、小諸に宇当坂城を築いていたという。
この時代は小室という地名だったので小室と名乗ったらしい。

  小笠原大井家

信濃は南北に長いうえに高山も多くて気候がまちまち、県歌では10国と境界が接しているということが真っ先に歌われており(県でも8県。日本で最も多くの県と接している県)、住宅が集中するわずかな平地が山河に遮断されており、相互の連帯が薄く、県を南北分割しようという話が出たほどで、指向する文化圏や生活圏が地域ごとにバラバラ。

全体をまとめうる強力な戦国大名も生まれなかった。
信濃の守護の小笠原家は、親戚同士で殺し合いばかりやっていたため、ただの地方豪族にまで落ちぶれ、完全になめられていた。
東信濃だけでも、滋野(海野、望月、禰津、真田)、小笠原(大井、伴野)、室賀、平賀、依田(芦田)など、小粒の領主が同盟と対立を繰り返して、ひしめきあっていた。佐久郡だけで100の城があったという。
大井氏だけでもいくつかあり、同族のほか、甲斐源氏ではない大井氏というのもあった。

こういう状況では、忍術が発達する。
伊賀甲賀がそうであったように、盆地ごとに小領主だから、兵力規模も地形的にも大軍勢で野戦ということができず、無理に隣りを攻めれば留守を奪われたり、両者疲れた所を第三者が漁夫の利を取るので、レンジャー部隊による山岳ゲリラ戦か、諜報活動による情報戦になるのである。

小室氏は衰退し、となりの岩村田の大井持光侯が小諸を勢力下におさめる。

大井氏は小笠原氏の支流。鎌倉公方からの信頼が厚かった。
永亨の乱で足利持氏侯が自殺して、遺児たちも殺され、鎌倉府はいったん滅亡するが、永寿王丸君(のちの成氏侯)だけは生き延びて、乳母の兄が僧侶をやっている寺に入った。
それが信濃佐久郡安原の安養寺だったことから、大井持光侯は永寿王丸君を厚く庇護して養育し、鎌倉公方(のちの古河公方)が復活することになった。

このころは甲斐武田家があんまりたいしたことなくて、大井氏は甲斐へ侵攻するほど力を持っていたが、戦国大名として大成できなかった。
大井家は、芦田家や平賀家は倒したが、伴野家との戦いに破れて疲弊、そこへ村上家が攻め込んできて、岩村田は焼き尽された。

  信濃村上家

北信濃の源氏、村上氏は、武田&上杉の間では見劣りするが、信濃では強力なほうだった。
南北朝時代には信濃惣大将。
中央集権したい室町幕府と、私領や既得権を没収されたくない信濃国人との戦い、大塔合戦では、国人側のリーダー的存在だったから、小粒とはいえ戦国大名らしい戦国大名と言える。
上田原と戸石城で、信玄公を惨敗させたこともある。

東信濃の小豪族たちは、多かれ少なかれ村上義清侯の影響下に組み込まれていく。

大井氏の本家は村上家に滅ぼされたが、支流のひとつ大井光忠侯が小諸にいて、長亨元年(1487年)ごろ、小諸城の前身「鍋蓋城(手塚城ともいう)」を築いた。
光忠侯の息子の光安侯は、鍋蓋城の強化のため、連係して戦う支城として、鍋蓋城のすぐ近くに「乙女城(別名、白鶴城)」を築いた。のちの小諸城の二ノ丸付近にあった。

鍋蓋城とか白鶴城というのは、のちに小諸城の別名にもなったとか、小諸城の別名というわけではないがそう俗称されることもあったとかいう。

なお、大井氏の御子孫は御健在で、美人が多いことで有名だという。
※追記 写真見せていただきました、深津絵里さんみたいな感じ。

  甲斐武田家

武田家は守護大名から戦国大名に脱皮できた成功例だが、最初は甲斐をまとめることも満足にできなかった。
信虎侯の時、甲斐統一には成功したが、信濃へ攻め込んで負けて追い返されたりしていた。

その息子の晴信公(いわゆる信玄)の代になって、信濃ほぼ全域を取るが、通説で言われているほど地縁やカリスマの独裁でもなかったようで、主張の強い家臣団に突き上げられてタジタジだったらしい。

信玄公は老獪で落ち着いた戦略家であり、戦わずして勝つタイプだが、信濃侵略ではかなりアコギな力押しもやっている。
特に東信濃攻略は、信玄公もまだ若かったし、これから信濃国を取るにあたって強さを示す見せしめのつもりもあったらしく、情け容赦ない攻め方をしている。

甲斐の戦国大名が他国を狙うならば、これといって大物がいない空白地帯の信濃から取りに行くのが当然であり、甲斐から信濃への道は八ヶ岳の西通りと東通りすなわち諏訪口と佐久口があるが、(どちらかといえば手強い)諏訪のほうは娘を嫁がせて懐柔してあるので、さしあたり佐久地方を攻めることになる。
佐久は信濃国が東に出っぱった所であり、ここを突っきれば甲斐から西上野へ最短コースだから、挟み討ちにできて上野国もいずれ手に入るわけで、武田家にとって佐久の制圧は家運のかかった重要案件だった。

駆逐された村上義清侯は、越後の長尾家に泣きついたため、長尾景虎侯(のちの上杉謙信公)が、義によって助太刀(というのはタテマエ。謙信公が寺社に奉納した文書には、信玄は悪い奴で信濃の人々が迷惑してるから守らねばとかなんとか書いてあるが、属将にあてた手紙には、信濃を取られちゃったら越後も危なくなるとか、稼ぐのは今だ!とか、正直に書いている。笑)。

信濃は戦争の天才同士の、芸術的とも言うべき名勝負の舞台になる。って、現地の御百姓さんは大迷惑。
俺も迷惑している。
長野県は修験道や古代兵法や軍事風水や忍術の、珍しい情報が拾い放題の地域なのだが、重要な文書が「信玄公の焼き討ちで寺ごと焼失したので現存してませんっ」という行き止まりで、お手上げになることがとても多い。侵掠すること火の如しである。

のちに猿の人が川中島を訪れた際、「はかのいかぬ戦をしたものよ」(天下取りに結びつかないムダをやっていたのだなあ)と酷評している。
農民たちは戦乱のたびに地下壕に避難したり、武田家が要求する年貢や諸役は本国甲斐よりも信濃のほうが過酷であり、このあと江戸時代まで、農村の疲弊がひどく、逃散や盗賊被害が続発する。

小諸城を設計したのは、馬場信房侯と山本勘助先生(ということになっている。根拠は不明だが)。天文23年(1554年)頃。
浅間山の火山灰の土地を千曲川が削った、もろい断崖を利用して、まったく天然の要害。
城が城下町よりも低い土地にあるという「穴城」の、数少ない実例(市の商工観光課では『日本唯一』としている。一説には大津城を穴城に分類するむきもあるようだが、あれは水城だから)。
天皇が庶民より低い所に住む藤原京、参道をくだった所に社殿がある一之宮貫前神社と並んで、「日本3大腰の低い名所旧跡」と呼ばれているとかなんとか。
ただし、『諸国城主記』では、小諸城を『山城』に分類している。裏側から見れば高いのである。
『 ただ、城を城下の反対側、すなわち千曲川から眺めると、その謎は氷解する。城は、千曲川流域に突き出た台地の上に立地している。そして、その台地は、とても素手では登れないほど厳しい断崖に囲まれているのである。
 つまり、小諸城は、千曲川にそって北や西からやって来る侵入者から、関八州や甲州を守るために造られた城なのだ。』(『城郭みどころ事典 東国編』)

諸説あり、城主なのか城代なのか、時期によっていろいろだったのかもしれないが、武田家中で小諸城を管理していたとされるのは、赤備えで有名な飯富虎昌侯、武田家の信濃侵略に協力した佐久の豪族上原氏の小山田昌辰侯(この人は内山城主であって、小諸を管理したことがあったとしても専任ではなかったらしいが)、甲州流軍学の高坂昌信先生こと春日虎綱侯、信玄公の実弟の典厩こと武田信繁侯(俗説では、その次男で嫡男の武田信豊侯も)、武田氏の支流のひとつで裏切者の下曽根昌利侯(覚雲斎)、その同一人物なのか下曽根信恒侯(岳雲軒浄喜)という人物も。

信玄公は病死。長男は処刑済、次男は盲目、三男は早死にで、四男の勝頼侯が継いだ。
長篠で大敗、家臣たちの離反が止まらず、天目山で滅亡する。

  尾張織田家

天正10年(1582年)3月11日、武田勝頼侯は自害。
武田家ファンの書いた本には、「あと3か月持ちこたえれば、本能寺の変だったのに」などと、よく書いてある。

小諸は織田家の勢力下に入る。小諸城の受け取りは、森長可侯。
森家は親の代から織田家の忠臣。長可侯は、成利侯(いわゆる蘭丸)の兄。槍の達人。
長可侯の正室は、池田恒興侯(
大垣城主をやったことがある)の娘。

  道家家

信長公は、跡取り息子の信忠公に武田家を滅ぼさせたのだが、実際には副将の滝川一益侯が中心になって活躍した。
戦後その褒美として、一益侯は「珠光小茄子」という茶入をねだったが却下、そのかわりに与えられたのが、上野国ほぼ全部と信濃国小諸・佐久だったという失礼な話で、しかも一益侯は「地獄に落ちた〜〜!」と言って悲しんだという。

しかしこれは、茶道具という物体そのものが欲しかったのではなく、「茶会を開催する権利」、要するに「信長公の重臣という地位」が欲しかったのだという。
『信長秘蔵の名物茶器をもらうということは、信長から「茶会を催してもよい」といわれることを意味していた。その時点で、茶会を開けることが、信長の重臣としての証明でもあったからである。
 事実、重臣筆頭ともいうべき柴田勝家は「姥口の釜」をもらっていたし、丹羽長秀も「白雲の葉茶壺」をもらっていた。明智光秀は「八重桜の葉茶壺」、羽柴秀吉ですら「八色の名物」をもらっていた。少なくとも明智光秀・羽柴秀吉らとは同格と思っていた滝川一益が、早く信長から秘蔵の茶器をもらいたいと思ったのも、その意味では無理のない要求であった』(小和田哲男『日本史おもしろこぼれ話』三笠書房1991)
一益侯は、もともと鉄砲の実技で採用された家臣であり、戦術指揮官としては勇猛だったが、戦略レベルの高級幹部の器ではなかったらしい。

にもかかわらず、現在の群馬県前橋市にあった厩橋城を本拠として、一益侯は織田家の関東方面軍を担当することになる。

一益侯の甥の道家正栄侯が、小諸2万石をまかされた。
『諸国城主記』では小諸城主として扱っている。戦国時代の感覚だと、城代ではなく城主?

滝川家は、秀吉公同様、信長公がどこかで拾ってきた、どこの誰ともわからない家。
伊勢志摩方面、または近江甲賀の出身だとか諸説あり、甲賀なら忍者だったんじゃないの?(笑)という根拠のない俗説が出回るほど素性が怪しい人だが、忍者にしちゃあ状況を読むのがものすごくヘタクソなので、甲賀忍者の評価を落とす一因にもなっている。

本能寺の変のとき、秀吉公は何をさておいても大至急ひき返してカタキを取ったのに対して、一益侯は圧倒的多数の北条家を相手に戦争を始め、深追いして大敗北、信長公にまかされた領地を捨てて伊勢長島へ逃げ帰り、清洲会議にも間に合わず出席しそびれ、信長公の法要も秀吉公に門前払いされた。
賎ヶ岳では、柴田側で戦って、負けて降伏し、領地没収され、出家した。
蟹江城では、秀吉公に3千石で採用されたが、負けて降伏、保身のために敵の言いなりになって笑われた。
唯一の売りだった勇猛さも無くなっており、じつは晩年には失明していたという説もある。
前田慶次郎ほどは恥をさらさなかったが、滝川家はこのまま歴史の舞台から降りていった。
子孫たちは、大名の家臣や、旗本になって、細々と続いた。

  御由緒家大道寺家

天正10年(1582年)6月2日、信長公が亡くなる。

甲斐では武田旧臣らが蜂起。
信長公から甲斐国ほぼ全部と信濃国諏訪郡をまかされていた河尻秀隆侯は、殺された。

北条家は織田家とはナアナアをやっていたが、信長公が死んだとなれば、自称関東管領の一益侯を関東から叩き出し、信濃中部まで攻め込んだ。
一益侯は逃げる途中で小諸に寄って、正栄侯も仲良く一緒に逃げ出したという。

甲斐・信濃・上野は空白になり、徳川家が甲斐を、上杉家が北信濃を、北条家が上野と東信濃を取った。

当時の北条家の当主は氏直侯だが、形ばかり隠居していた父の氏政侯が、まだ実権を握っていた。
北条家の名門重臣のひとり
大道寺政繁侯が、小諸城をまかされた。

しかし無敵の小田原北条氏も、猿にだけはかなわなかった。

  芦田依田家、3代

依田氏は鎌倉時代以来の信濃の名門。かつては大井氏に仕えていた。

このころの当主は依田信蕃侯。武田家に仕えた。
かつて遠江二股城に籠城したところを、家康公が攻撃したが、落城せずに耐えること耐えること、なんと半年間。結局は武力で落とせず、講和で開城した。
駿河田中城に籠城した時も、家康公には落とすことができず、武田勝頼侯が亡くなったことにより開城した。

家康公の城攻めは下手だが、それにしても信蕃侯の籠城はうまいので、家康公が気に入って召し抱えようとしたところ、武田家滅亡を確認するまでは別の主君に仕えることは筋が通らないと拒否。
家康公としては、こういう義理がたい人こそ、ぜひ家臣にしたいのである。
信蕃侯は田中城を明け渡した後、佐久に帰って信長公に恭順するつもりだったらしいが、信長公は信蕃侯を殺そうと思っていたので、そうと知った家康公が気をきかせて遠江二股にかくまってやったらしい。

信長公の死後、信蕃侯はまず北条家についたが、徳川家に寝返り、武田残党のとりまとめと対北条戦に活躍、小諸城をまかされ、佐久郡に6万石(一説には諏訪郡の一部も含む)、のちに駿河と甲斐に各2万石を加増されて、計10万石を領有したらしい。

しかし、大井一族のひとつ大井行吉侯を中心とする勢力が、北条側について、佐久の岩尾城にこもり、これがまたちっとも落ちない城で、信蕃侯は強引のゴリ押しみたいな攻め方をして、弟ともども死んでしまった。塀を乗り越えようとして撃たれたのだという。
籠城の達人を攻城で失うというのも皮肉なもので、家康公はものすごく残念がって、残された息子たちに松平姓と康の文字を大盤振る舞いした。
長男の
康国侯が継いだ。
有名な大久保彦左衛門殿の兄、
大久保忠世侯が、信州惣奉行として小諸城にいて、康国侯を補佐した。

今度は家康公と秀吉公の戦いになり、徳川家は背後の安全をはかるため北条家とは和睦。
講和条件として、信濃佐久と甲斐都留を徳川領に、上野沼田を北条領にという、領地交換をすることになった。
北条家は佐久を手放して信濃から手を引くということだが、上野沼田は徳川家のものというより徳川軍に属している真田家のもの。
沼田は真田家が自力で得た領地であり、徳川家にもらったものではないから、それを没収するというんだったら真田家は上杉家に寝返ってしまい、第一次上田戦になり、依田康国侯の初陣だったが 徳川軍は負けた。

ひとまず秀吉公の天下になり、武田家旧領はおおむね家康公のものになる。

小田原征伐にともなう上野石倉城の受け渡しの時、金井秀景侯の家臣で石倉城主の寺尾左馬助侯(石倉とも小林ともいう)が、おとなしく降伏していたが、たまたま城外で起きた突然の騒ぎを聞いて、てっきり殺されるものと誤解して斬りつけたため、康国侯は亡くなる。

弟の康勝侯が継ぐ。
徳川家は北条家旧領へ領地替えになったので、依田家も一緒に関東へ引っ越し、上野藤岡3万石が与えられる。

このあと康勝侯は、旗本と囲碁をして、言われた一言にムカついて、対戦相手を斬って、改易。
その後、結城秀康公に拾われて、子孫は越前松平家に仕えた。
みっともない滅び方なので、小諸のみなさんは依田氏の話題に触れたくないらしく、10万石もの大身でありながら、観光客むけの説明文などではほとんど触れられていない。
しかし現地には依田さんというのが現在でも多いという。

  美濃仙石家、2代

仙石秀久侯は、もともと美濃斎藤家の家臣。
秀吉公に最も早くから仕えていた主力武将の一人で、石川五右衛門を捕まえたという俗説があるほど怪力で、メキメキ出世して讃岐高松10万石を持っていた。
島津家征伐を任され、功を焦って援軍を待たずに無謀な作戦を強行し、一説には命令違反の独断だったというが、結果は大損害の大惨敗、しかも自分だけスタコラ逃げ帰ったので「三国一の憶病者」の異名を得て、世間からは笑い者になったが秀吉公は激怒、領地没収、改易、高野山へ追放になる。

その後、家康公の口利きもあり、小田原征伐に自主的に参加し、もともと実力はある人なので活躍して、秀吉公の機嫌が直り、天正18年(1590年)5月、小諸5万石を与えられて、近世城郭としての小諸城とその城下町を整備した。
7千石加増の話は前述。

そして江戸幕府が始まり、最初の小諸藩主となる。
昔から戦利品の略奪など欲深い人で、藩内の整備ははかどったが、年貢や諸役が重くて領民からは嫌われた。
秀忠公の関ヶ原遅刻を、家康公に弁解して秀忠公を擁護したらしく、秀忠公には好かれており、特別待遇されていて、秀忠公の将軍宣下の上洛にも随行を許されたという。

長男は盲目。
次男は西軍に参加したので勘当するしかなくなる。結果的にかもしれないが、関ヶ原でどちらが勝っても家が残るという保険をかけたのかも。
三男の
忠政侯が継いだ。

大坂の陣での功績により、元和8年(1622年)9月、信濃上田に栄転。
ひとまず小諸藩は
消滅

  (甲府藩領、駿河徳川家)

元和8年(1622年)9月28日、甲斐甲府藩の飛び地になる。6万石。
小諸城の城代は、
矢代某、三枝某。

甲府を領有していた義直公が、尾張徳川家になったので、跡地は徳川忠長公がもらっていた。
忠長公は、秀忠公の三男。家光公の弟。
3代将軍になりそびれたうえに、失脚して28歳で自害になった。
「二刀の納刀、世界一」と恐れられている松平長七郎君の、父である(大ウソ)。

小諸を領有したのは寛永元年(1624年)3月まで。
この年、駿河と遠江を加増されるが、小諸は手放した。

つまり、小諸城を藩庁にしていたわけではないのだが、現在の小諸の観光案内では、依田氏のことには一言も触れなくても、駿河大納言のことは強調され、歴代「城主」の一人として扱われている。

  (幕府領?、預かり?)

半年、間があく。

  久松松平家(本家)

9月、美濃大垣から、松平憲良侯(のち忠憲)が入封。
『諸国城主記』では延良とし、『或憲良』と書き添えてある。どっちみち、この時は元服前。
4歳で大垣藩主になったため、「大垣のような重要地点を子どもには任せられない」という理由で、小諸へ飛ばされてきた。小諸なら任せられるらしい。

時期は不明だが、庶兄の忠利(忠節)君に小県郡祢津村など5千石を分知、この家は旗本として明治維新までこの場所を保有し続ける。

仙石家の頃に比べて、小諸藩の領地はかなり減ったが、小諸藩じゃなくなった部分は幕府領になり、その一部はのちに甲斐甲府藩(綱重公)や上野館林藩(綱吉公)などの飛び地領になったり、田野口藩などになる。

忠憲侯は跡継ぎがないまま正保4年(1647年)8月13日に亡くなり、お取り潰し。
『諸国城主記』では、『正保五戊子二月十一日卒』とする。
弟の康尚君が再興して、伊勢長島藩として存続することになる(そのあと刃傷事件をやって、もう一度、御取り潰しになるが)。
小諸藩はふたたび
廃藩。

  (松本藩預かり、刈谷水野家(忠清系))

小諸はしばらく、松本藩の管理下になる。
水野忠職侯、この年の8月に藩主になったばかり。秀忠公の又従兄弟。

この時かどうかはわからないが、松本から小諸へ、武術の影響がかなりあったのではないかと思えるフシもある。証拠が見つかったら加筆する予定。

松本藩は、寛保3年(1743年)11月26日から天明5年(1785年)2月2日?まで、佐久の幕府領の一部15410石を預かっていたこともある。

松本も調査に行ったことありますが、松本城天守2階に、コレクターが寄贈したという銃の展示が充実しており、どちらかといえば砲術を研究なさってる人が楽しめると思う。

松本城の共通観覧券で入れる市立博物館に、藩士が使った太刀など展示されているが、金具などに一刀流らしきものはなかったと記憶している。
入口の受付兼売店で、古文書を収録した資料集3冊を見かけたが、民政などの公文書ばかり。

旧開智学校は、オルガンやピアノをやってる人には面白いが、武術関連の展示は見当たらず。
松本や諏訪には、小さい博物館や美術館が大量にあるので、武術関連がまとまっている所もあるのかもしれない。

松本に「笹の誉」という酒があって、パンダの人にはおすすめ。道の駅などにある。松本付近の道の駅は、とてもいい。バイクで行くのがおすすめ。というか、あんな危ない空港に降りる人の気が知れない。

水野家は家康公の母の実家。
もちろん政略結婚だから、戦国時代初期には松平家とほとんど対等な勢力だったということ。
必ずしも徳川家直属でなく、一部は織田家や豊臣家や蒲生家に仕えていた時期もあった。
譜代の中でもプライドが高く、幕府要職を勤めることも多かったが、つまらない改易も多かった。

松本の水野家は、分家の分家。
この家も、4代あとに刃傷事件をやらかして、40年間ほど旗本に降格されていた時期があるが、
その時の領地7千石は佐久郡だった。畑ヶ村藩のページと、岩村田藩のページ。

  三河青山家

慶安元年(1648年)閏1月19日、新知で青山宗俊侯が入封。

青山家は最古参の旗本のひとつ。東京の地名の青山の由来。
この人の父、忠俊侯は、家光公のおもり役をやっていて、わんぱく家光公をガミガミ叱ったので、けむたがられて失脚し、領地を削られたり没収されたりで、蟄居になった。
その後、家光公に呼び戻されたが拒否、長男の宗俊君が3千石の旗本として仕え、加増され大名に昇格して与えられたのが小諸だった。

この出世には父の功績の分も入ってるんだろうけれども、ただの七光りではなく、宗俊侯は『人となり直情徑行にして權威に屈せず』、『徳川家光その剛直を愛し』と、『日本歴史人名辭典』にある。
小諸では農地拡大を押し進め、佐久の四大新田と呼ばれる各新田が開発された。

松平家の頃に比べて、小諸の領地はまたまたかなり減ったが、小諸藩じゃなくなった部分はこのあと甲斐甲府藩(綱重公)の飛び地領や幕府領などになり、のちに岩村田藩などになる。

大坂城代に出世したため、寛文2年(1662年)3月29日、摂津などへ替地(のち遠江浜松へ転封)。

  三河酒井家(雅楽頭系分家)

6月4日、上野那波(伊勢崎藩になる前の伊勢崎)から、暴君酒井忠能侯が入封。

酒井氏は徳川譜代の最古参。本家は四天王のリーダー格。
小諸藩主になったこの家は、本家から出た次男家。

このころ将軍は家綱公、つまり、幼君であるばかりでなく、「左様せい様」の異名をとるくらい、良きにはからえ型の人だったので、大老の酒井忠清侯が政治を一手に仕切っていた。
忠能侯は、忠清侯の弟。
自身も家綱公の側近だったため、家綱公の将軍就任と共に自動的に出世、一気に7500石を加増されることになり、小諸に移封になった。

小諸の最終検地をおこない、年貢をしぼれるだけしぼった上、家の窓とか鍵とか、奥さんとか、ペットの犬猫とか、いろ〜んな物に税をかけ、取り立ても厳しく、払えない者は鰯の購入を禁止だとか、石臼など家財差し押さえなんてことをやった。

一揆が発生。庄屋たちが話し合い、代表者が陳情したところ、牢にぶち込まれた。
今度は幕府へ訴えようと18名が江戸へ向かったが、追いかけられ碓氷峠で取り押さえられた。
小諸藩は、救済籾3千俵の給付、雑税免除、延宝6年分の年貢を半減と譲歩したが、その18名は入牢ののち死罪4名追放8名。
しかし、横川の関所役人が気を利かせて幕府にチクってくれたらしい。

延宝7年(1679年)9月6日、駿河田中へ移封。
これは左遷なのかどうか、なぜか1万石加増されて田中藩に栄転している。幕府としては、あからさまには処罰できなかったものと思われる。

家綱公が亡くなると、「下馬将軍」こと忠清侯は更迭され翌年急死、なにもコネがなくなった忠能侯は容赦なく不行跡をつっつかれて改易された。

  吉良西尾家

駿河田中にいた西尾忠成侯が、同日付で、入れ代わりで小諸藩主になる。

この人は、酒井忠能侯と曾祖父が同じ。
血筋は酒井氏だが、祖父のとき西尾家に婿養子に入って、西尾氏になっていた。

西尾家は吉良家から分かれた家であり、吉次侯から始まる家。
吉次侯は織田家の家臣だったが、家康公の接待を担当していたら信長公が死んだので、堺にいた家康公のもとへ駆け付けて知らせて、脱出を護衛し、そのまま徳川家の家臣に組み込まれたとかなんとか。

京都の豪商の茶屋四郎次郎清延が、本能寺のすぐそばに住んでいたため、家康公に知らせて、金をばらまいて脱出の便宜をはかったという話もあり、よくわからない。

本能寺の変の時、家康公は、わずかな供を連れて物見遊山の途中だったので、簡単に討ち取られても不思議はない状況で、命からがら逃げ帰ることになった。
家康公の3大ピンチとされているのは、この伊賀越え逃避行と、浄土真宗のテロのせいで家臣たちにいっせいに裏切られた時と、武田軍に惨敗してウンコもらして「これは焼き味噌だ」とごまかしながら逃げ帰った時、さらに、大坂で真田軍に突進された時を加えて4大危機と解釈する人もいるようだが。
伊賀越えに貢献したのであれば、西尾家は徳川家の大恩人ということになる。

忠成侯は、吉次侯の曾孫の世代にあたる。
天和2年(1682年)3月9日、遠江横須賀に移封。

  石川家(大給松平家、乗政系)、2代

3月22日、常陸小張から石川乗政侯が入封。
この人は小張藩をやっていた
約4年間、真壁に領地を持っていた。

大給松平は家康公以前に分かれた松平家のひとつで、大名になった家が5つあった。
この家は3番目の分家。この人から始まった家。
祖父の代に、石川康通侯の娘が正室に入ったことから、石川を名乗っていた(『藩史大事典』でも『石川(松平)』という表記になっている)。
石川康通侯は最初の大垣藩主。

大給松平家の本家が、美濃岩村藩をやっていた時、次男として生まれたのが乗政侯で、その後、家光公や家綱公に仕え、親の遺産のうち5千石を相続して旗本をやっていた。
延宝7年(1679年)7月、若年寄に出世することになり、常陸国河内郡・
真壁郡に5千石を加増されて、新しい大名家になった(その後、さらに下総国結城郡に5千石を加増されている)。
さらに奏者番に出世したことにともない、小諸へ栄転になった。

長男の乗紀君が継いで、元禄15年(1702年)9月7日、美濃岩村へ移封。
翌年から石川をやめて松平を名乗るようになる。

  牛久保牧野家(康成系)、10代

小諸藩は、最初は5万石あった。
しかも、碓氷峠の外側で敵をくいとめる、重要な軍事拠点でもあった。

ところが、佐久米で儲かるもんだから、土地を削り取って幕府領にしていった結果、どんどん小さくなり、ついに1万5千石、実高でも3万石台の小藩になってしまった。
また、戦略的に重要な軽井沢なども、小諸藩から切り離した。

『 さらに江戸時代、幕府がこの城を東国への入り口の一つとして重視。周辺を天領(直轄領)としてその整備を急いだこともあった。』(『城郭みどころ事典 東国編』)

越後與板の牧野家は、血筋が絶えて、得体の知れない高麗人が産んだ康重侯が養子に入り、牧野の血筋ではなくなったが、得体が知れなくても将軍綱吉公の従兄弟様なので、粗末にもできない。
「歴史的に格式が高いが、実際はたいしたことない小藩」ということで選ばれたのが、小諸の残りカスだったという失礼な話で。

将軍家のコネで出世したことを妬まれないように、諸役や交際費を少なくするように、わざと表高を低く設定したのであろう、さすが牧野家は偉いんですっ、というようなデタラメを言う人もいるが(長岡の人が言う)、牧野家が入る以前から小諸藩の表高はどんどんどんどん小さくなり続けていたのである、とっくに。

元禄15年(1702年)11月11日から小諸藩主は牧野家。『諸国城主記』では、9月12日。
以後、明治まで統治。

小諸では兵農分離が大変に遅く、江戸時代になっても小諸の武士たちは自家菜園や農業経営にかかわっていたが、牧野家が藩主になった頃から、ちょうど世の中も元禄のカネ!カネ!カネ!の商業経済が進み、小諸は商人の街として栄え、小諸藩牧野家は生活が大変に贅沢だったという。

しかし歴代、名君が多い。
8代目の
康命侯は、長岡藩の牧野忠精侯の六男、これは膳所藩本多氏の子孫。
9代目の
康哉侯は、笠間藩の牧野貞幹侯の次男、ふたたび牧野氏の血筋に戻る。

小諸藩は官軍に恭順したが、長岡討伐には参加しなかった。

幕末、小諸の牧野家は、本物の牧野氏の血筋に戻っていた。
長岡藩は松平氏の血筋にすり替わっていて、牧野とは名ばかり、赤の他人だった。
にもかかわらず小諸藩は、分家が本家を攻撃することは人の道に外れる、と官軍に嘆願して、長岡への派兵を拒否した(ということになっている)。
本当にそんな理由で拒否したのだとすれば、かつて本家を乗っ取ろうとした分家が、本家を敬う形で時代の終焉を迎えたということであり、ちょっと感動的ではないか。

現地でお聞きしたところ、現在の小諸の人々には、長岡藩の支藩という意識は全くない。
東信地方というのは、どちらかというと北よりも南へ、善光寺よりも高崎へ、越後よりも江戸へ意識が向いている土地柄で、新潟に用があるのは年に一度の海水浴だけ(直江津か能生)、あくまでも信濃川は信濃川、千曲川は千曲川だとのこと。

官軍と旧幕軍、両方にいい顔をして、でも手伝うのはイヤという、「中途半端な姿勢になってしまった」などと郷土史の本に書かれているのを見かけるが、これはこれで良い選択だったと思う。
長岡藩のように、藩主が領国を捨てて逃げ出して、藩士を死なせ、官軍を殺し、領民を飢えさせたほうが、話がドラマチックで派手だが、静かにおさめたほうがよっぽど名君ではある。

追分宿における、ニセ官軍こと使い捨て官軍「赤報隊」の逮捕など、周辺の治安維持は、小諸藩もきちんとやっている。

小諸藩の版籍奉還は、明治2年(すでに1870年)12月7日。

 

 江戸屋敷(牧野家、寛政年間)

  上屋敷
水道橋外(安永年間)。芝切通(文久年間)。

幕末には浜町にあったらしい。
『東京時代MAP』では、現在の日本橋浜町二丁目、浜町駅付近に、『牧野遠江守』とあり、これが上屋敷のようだ。
北は道を挟んで一橋殿(一橋家下屋敷)。東と西は稲葉備後守邸(安房館山藩上屋敷)。西は小笠原弥八郎邸。

ほかに、浜松町一丁目交差点の北西に『枚野内膳正』(ママ)と表示されているが、なにか関係あるかどうか。

  下屋敷
本所。現在の錦糸一丁目と江東橋一丁目をまたぐ、アルカウエスト。
北は大島雲四郎邸(旗本。4700石?)。東は御賄組、夏目近江守邸。南は織田某、大河内某、いずれも旗本か。西は道を挟んで大横川。

 

 藩校

牧野家の6代目、康長侯が、勉強熱心だったので、藩校の設置がものすごく早かった。
文化2年(1805年)、城内耳取町に藩校「
明倫堂」を設立。

校名の由来は、おそらく尾張藩と同じで『孟子』。学風は朱子学のみ。

校長に相当するのが「司成(総長)」で、高栗弾之丞永臣という藩儒。これは常設の職ではなく、このあともう一人しか任命されなかったという。
ほかに、「司業」という管理運営職の教授が3名。
講師陣は、五経・十八史略などを担当する「誦師」8名と、四書・史記・前後漢書などを担当する「助誦師」8名。

『図説・佐久の歴史上巻』によると、『武芸は剣術・槍術・弓術・馬術・砲術・遊泳・角力などが必修課目になっていた。就学年齢は七、八歳から十五、六歳まで、生徒数は一◯◯名ほどで、ほとんど義務制に近かった。』
徴古館の展示を見た限りでは、棒火矢が盛んだったような印象を受ける。

よく勘違いされるが、島崎藤村先生は明治維新後のお生まれで、勤務先は私立の「小諸義塾」。

ほかに、国文学・武道・茶道・修身その他を教える私塾が、城のすぐ西にあったらしいが、剣術があったかどうか不明。
塩川友衛氏の御研究からも、私塾・家塾が多かったことはあきらかで、特に書道塾が多く、領内に筆塚が多い。

『その他性理学をひらいた大原幽学(一七九七〜一八五八)が、天保二年(一八三一)投宿先の上田原町「ひしや」から小諸与良町の翁屋(小山嘉吉)を訪れ、その教理を伝え、やがて結社組織もつくられ、修業のために下総(千葉県)香取郡長部村の性理教会へ赴くものもあった。』(『図説・佐久の歴史上巻』)

 

 唯心一刀流継承者

いたという話は全く聞かない。

景正先生が御長寿でいらっしゃれば、「牧野家に随身」という話が、小諸までかかる可能性も全くないわけではないと思うから、念のため、このページを付け足した次第。

万が一、小諸で唯心一刀流がおこなわれたことがあったとしても、笠間藩ではなく岩村田藩から流入した可能性のほうが、まだ高いと思われる。
大野先生の例などを見ても、昔の武術家は、この程度の距離はしょっちゅう出かけてらっしゃる。

『図説・佐久の歴史上巻』によると、小諸藩にもお抱えの鉄砲鍛冶はいたが、『幕末の信州-近代への序章』によると、小諸藩の大砲鋳造は岩村田の鋳物師に発注している。

小諸警察署は、大正時代が終わるまでは独立した警察署ではなく、岩村田警察署の分署だったという。
もし廃藩時点の岩村田に唯心一刀流の先生が御健在だったならば、岩村田で警官をおやりになったか、警察で剣道を指導なさった可能性もあるだろうから、明治になってから唯心一刀流が小諸に伝播した可能性まで考えなければならない。
明治時代の剣道選手名鑑から、小諸や岩村田で警官の人を拾い出すことは簡単なのだが、どの人が古流経験者で何流かということまでは難しい。
それに、警官というのは異動が多いので、長くやっていれば県内あちこちへ転勤させられているだろうから、追いかけるのは困難。

岐阜県警が、なぜか長野県警を名指しして武道の試合をもちかけてきたので、長野県警の選手(剣道、柔道、各10名)が大正14年3月、岐阜県に出かけていって惨敗、そのあと猛練習して、翌年4月の再試合では勝っている。
大正時代なら、大垣藩の古流とは関係ないとは思うが。

 

 他の剣術の主なところ

  藩に正式採用されていた剣術

   北辰一刀流
藩に公式採用されていた剣術は、これだけだったという。
つまり、それ以前の時代に小諸藩が採用していた流派がわからない。
高橋鋼次郎先生(天保7年生まれ元治元年没)は、小諸藩士で、千葉道場塾頭。

  藩には採用されていないようだが現地でおこなわれた剣術

   小野派一刀流
昭和になっても、小諸市相生町に佐藤健一先生(大正11年生まれ)がおられた。
長岡でもそうだったが、小諸でも、一刀流系は(おそらく最も)盛んだったらしい。

   菅原本流(小太刀)
伊藤流貫流槍術の大野家の家伝。

  (流派不明)(小太刀)
菅原本流ではない小太刀術もあったという。これは明治以降かもしれない。

   念流
どの念流か不明。

   藤川流
直心影流長沼派藤川系。
中山貞邦先生は明治まで御存命。

  一応は藩に採用されていたが、たとえ短寸でも剣術らしい剣術を含むのかどうか

   禰津流
詳細は1Gにて。

  藩には採用されていないようだが、接触があったらしい剣術

   荒木流
後述。

   鏡新明智流
有名な牧野正国先生は北辰一刀流だが、士学館においても修行なさっている。

  現地にあったことは間違いないが、剣術併用や二刀があったのか、古流なのか

   ?
成瀬先生によれば、昭和10〜11年頃の小諸警察署には手裏剣道場があり(現在は無い)、精神修養を兼ねて有志の警官がおこなってらっしゃった。
小諸藩ゆかりの剣術につながる話かどうか。

  ただのフィクションか

   四天流
『剣客商売』に、小諸出身の四天流の剣士の回がある。
東信地方ゆかりの池波先生がそうなさったからには、なにか根拠がおありなのかもしれないので一応、記しておく。

 

 現在の状況

現地調査してきましたが、唯心一刀流の痕跡は全くありませんでした。
新陰流(転会さん)なら、活動があるのですが。なぜか天風会さんもあるが。

現代剣道の町道場がない。
都内在住の者から見れば違和感あるけれども、地方では人口が少なくクルマ社会なので、市立や町立の武道館がすべてということが珍しくない。
いわゆる本部だけであり、その傘下の地域団体がない。あとは各学校の部活くらい。

偶然、市内に牧野さんという御宅を見つけましたが、藩主の家に血は繋がらないとのこと。

 

 余談

順を追って御説明すると、蕎麦の流派に内藤流というのがある。

(武術の)棒術で蕎麦を打って将軍家に献上した武士がいたとか、そのことと内藤流は関係ないとか、関係はないがそれにちなんだ蕎麦が内藤流だとか(どうちなんだのかは不明)、内藤峯吉という蕎麦打ちの名人が実際の創始者だとか、その後さらに工夫を加えた吉村慶二郎という人の時に内藤流を創立なさったとか、吉村さんの継承者が3人いらっしゃって1人は朝霞市で営業なさってるとか、練馬区で営業なさってる店こそが日本唯一の正統な流儀保持者だとか、小諸で営業なさってるのは「宗家」だとか…。

しかも、小諸に宗家が2つある。宗家内藤流の『ふじや』さんと、宗家内藤流そば本陣の『水車』さん。

小諸駅の中の観光案内所(俺が訪れた当時。現在では移転しているらしい。とても御親切)に、売り物ではないが見本として特産品を飾っているガラスケースがあって、ふじやさんの乾麺があった。
その説明文によると、起源は詳らかではないと前置きした上で、
元禄年間に荒木流棒術の内藤道観という人が、江戸で食べた蕎麦がうまかったので修得して蕎麦屋に転職なさった、それが内藤流の始まりで、このことは内藤峯吉さんの口伝なのだという。
内藤道観さんは「祖」だというが、内藤流の祖なのか、内藤峯吉さんの家系の祖なのか、両方なのか不明。

元禄期といえば、麺の形状の蕎麦が発明されて100年くらいたっており、信州こそ蕎麦の本場だろうに、話があべこべのように感じるが、都会の味も物珍しかったのだろうか。
棒術使いで、趣味は蕎麦打ちという、俺の伯父に意見を求めたところ、「蕎麦ののし棒は、かなり長いものでも4尺前後、素材はいろいろだが樫は使わない。棒術も蕎麦打ちも、達人ほど、細く軽い棒と弱い力で繊細にやる。樫ののし棒やバカ力は、うどん」とのこと。

このふじやさんも、『工夫に工夫を重ね苦心の末に現在の近代そばの打法をつくり』とおっしゃっているので、昔のままの内藤流ではなく、さらにおいしく独自の改良がおありの様子。

荒木流というのが、どの荒木流なのか不明だが、前述の乾麺説明文では『荒木流棒術(剣術)を捨て、その棒術をもって音打の打法をあみ出し』と表記なさっており、剣術の伝承も含む流派だったような感じ。
だとしても小諸の人なのか、藩士なのか、藩内で荒木流がおこなわれたことがあったのかどうか、結局なにもわからない。

安中や松本にだったら、荒木流剣術があった。
平上先生によれば、
『現在伝承は途絶えているのであるが、荒木流の剣術は上州安中藩に存在していた事が資料に現れており、荒木流剣術は江戸中期には確かに存在した様である。しかしながらその内容は傳書研究の立場から言えば荒木流と言うよりも上州の秘劔、馬庭念流の内容にかなり相似しており、念流の劔が荒木流に流入した感が強い様である。』(『古流武術双書 極意相傳 第一巻』)
ということだそうですから、荒木流剣術の人が小諸にいても距離的には不自然ではない。

 ※追記
となりの東御市の弓道の方から、詳細な御教示を頂戴しました。
荒木流との関連については結局わからないのですが。ただの観光情報としても貴重なので、要約して掲載させていただきます。

   『ふじや』
 脇道の地下にあって、わかりにくい。店内は小ぢんまり。接客は礼儀正しい。灰皿とテレビあり。内藤流の沿革の話が、筆書きの額で壁に飾ってあり、内容は乾麺の説明文と同じ。
 蕎麦は、コシが強くて風味が濃いが、1本1本がとても短く、太さがバラバラで(4本分くらい太いものも混ざる)、棒術や剣術のイメージとは程遠い。つゆ、蕎麦湯は、いい味。
 平日は、ランチと夕食の間に2時間ほど、準備中になる。
 上の階でレストランも運営なさっており、笑顔の素敵な店員さんがいる。

   『水車』
 サウナと同じ建物の中にある。玄関前の水車小屋で、蕎麦打ちをガラスごしに見せることもある。
 店内は広く、団体の観光客むき。ドライブインの食堂のような雰囲気。入店してもすぐには気付いてもらえないことがよくある。おヒヤ・お茶・おしぼりはセルフサーヴィス。メニューは豊富。注文してから出てくるのが遅い。芸能人のサインを飾ってある。値段は良心的。
 蕎麦は錦糸玉子のような食感で、好き嫌いが分かれるかもしれないが、お腹に重くなくて食べやすい。天麩羅は揚げたてで、海老が大きい。付属の御新香は信州名物の野沢菜。薬味の葱が極端に少ない。

 いずれも、胡桃蕎麦がおすすめ。胡桃ペーストとつゆを混ぜながら食べるもので、グリコのキャラメルの「ひと粒で二度おいしい」に相当する。胡桃は小諸の特産物。

ほかに、小諸流という蕎麦もあり、こちらは仙石秀久侯を祖としているという。
朝廷に献上する馬の飼育を担当していたモンゴル帰化人が東信濃に蕎麦を持ち込んだとか、秀久侯が小諸の庶民に蕎麦を普及させたとか。
三の門の横の『草笛』という店で食べることができる。これも情報いただきました。

 外から見ると定休日か準備中のように見えるが、営業している。
 店員さんが多くて、ぶっきらぼうだがよく気をきかせてテキパキしている。
 但馬の出石蕎麦とは全然違う。麺は白っぽく、食感は蒟蒻で作った麺に似ている。暖かい蕎麦を注文しても蕎麦湯を出してくださる。
 店内に太った猫がいて、置物のように動かない。

なお、俺と寅吉先生が訪れた時は、北国街道に出たところの角の店に入りました。そこの蕎麦もうまかったんですが店名は忘れた。
里見黄門も、加賀の御家騒動を処理しに行く途中、蕎麦を食べるというだけの目的で、小諸でチンタラ道草し、よせばいいのに蕎麦職人にちょっかい出していたりする。

 

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