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 景正先生が「随身」した牧野家の行方、その2.1

 越後 與板

 

 藩の名前

與板藩、与板藩、越後与板藩、井伊兵部少輔など。

という誤字がとても多い。『土芥寇■記』でさえ、坂と誤記している。
岐阜県中津川市に、与坂という地名が本当にあるので注意。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

牧野家は、譜代、菊間広縁詰、無城(陣屋の名前は「御屋敷」)。1万石。

井伊家は、譜代、帝鑑間詰、無城定府、
文化元年(1804年)から城主格(與板城、参勤交代)。
2万石。

井伊家の城主格というのは、名目だけのなんちゃってではなく、城主に昇格であり、実際に「城」を築いている。

文化8年(1811年)10月、蒲原郡石瀬村に城地を拝領。
文化14年(1817年)7月29日、築城予定地を三島郡本與板村に変更。
文政5年(1822年)8月11日、上棟。
文政6年(1823年)完成。『館程度の小規模なものであった。』『小禄の大名であったので、城地与板は城下町の形態も整わず、』(『藩史大事典』)

 

 位置と、土地の性格

牧野家の時は、越後国三島郡13ヶ村・蒲原郡17ヶ村。
遅くとも寛永18年(1641年)までには、蒲原郡を管理するための陣屋を石瀬村に置いていた。

井伊家の時は、当初は越後国三島郡・刈羽郡・頸城郡。
宝永7年(1710年)11月22日から、頸城郡を手放し、刈羽郡・魚沼郡の土地に交換。
魚沼郡17ヶ村を管理するため、正徳3年(1713年)から寛政10年(1798年)まで、小千谷の千谷川に陣屋を置いていた。
明治2年(1869年)時点で、三島郡33ヶ村、刈羽郡12ヶ村、南蒲原郡6ヶ村、西蒲原郡20ヶ村だったという。

與板は、現在の新潟県長岡市与板町付近。長岡市の北部に位置する。
かつては与板町だったが、長岡市に吸収合併された。

 

 藩主と、藩の性格

  牛久保牧野家(康成系)

寛永11年(1634年)5月21日、長岡藩の次男が分家して作った支藩。
藩主が初めて與板陣屋に入ったのは明暦3年(1657年)だというから、最初は、血筋を絶やさないためだけの、形だけの支藩だったと思われる。

長岡藩牧野家初代の忠成侯には、息子が5人いた。

 長男、老之助(のち光成)君
この人が家を継ぐはずだったが、24歳で変死。寛永14年(1637年)6月22日。
叔父の秀成君が抹殺された16日後に、謎の死をとげたということ。
怨念の祟りだとか、仕返しで暗殺されたとかいう。

 次男、武成(のち康成)君
これが初代の與板藩主。
牧野康成は同姓同名で数人いる。この人の祖父も同名。
封建社会において、祖父の名を継ぐというのは世界的にあることで、珍しくはない。

 三男、朝成君
これまた変死している。
椿沢寺に幽閉され、寛永8年(1631年)、13歳で切腹または暗殺だとか。
つまり、叔父の秀成君とそっくりな死に方であり、話がごっちゃになっているのではあるまいか。
一説には寛永8年(1631年)12月13日、信濃上田で死んだともいうが、なんで上田にいたのやら、移動中か。

 四男、直成(のち定成)君
旗本。幕末に三根山藩になる家。

 五男、忠清君
長岡藩の家老(2400石)の稲垣則茂殿に子がなかったため、養子になったが、稲垣家には実子が生まれたので用済み。
徳川家綱公の小姓を勤めた。
兄の定成殿が子宝に恵まれなかったので養子になる。

長男の光成君が死んだので、長岡藩牧野家を誰が継ぐか。
光成君には忠盛(のちに祖父の名を継いで忠成)君という息子がすでにいたので、祖父から孫へという相続になる。
ところが、2人の叔父、康成侯と定成殿が、物言い。幕府に訴える。
子どもの飴玉を奪うおじちゃんである。
叔父と甥で取り合いになるのは、どこの家にもよくある騒動なのだが。

長岡藩の安泰のために分家を作ったのに、分家が長岡藩を乗っ取ろうとするのである。
跡継ぎがないとか、御家騒動を起こしたとなれば、改易されかねない。
幕府で裁判がおこなわれ、長岡藩の家老2名が必死に釈明、綱吉公の「よいやよいや」(直訳すると、オッケーオッケー)の一声で、相続は忠盛君、誰もおとがめなし、と裁決された。

これ以降、もう二度と謀反を起こせないように與板藩を監視下に置きたい長岡藩と、バツが悪いもんだからますます離れて独立性を高めようとする與板藩が、ぎこちない関係になったらしい。

長岡藩の乗っ取りに失敗した叔父、與板藩の康成侯は、明暦3年(1657年)12月30日、41歳で早めに亡くなる。
2月27日、長男の
康道君が、9歳で與板藩2代目藩主になった。

康道侯の息子の康澄君は15歳で亡くなってしまい、康道侯には跡継ぎがない。
ここで長岡藩から養子を迎えてしまうと、長岡藩からの支配が強くなって、長岡藩の思うツボ。
それに、人様の相続を邪魔した者が、今度は自分の相続に困っているので助けてくださいとお願いするのは、ちょっと気まずい。
貞亨5年(1688年)7月29日、
笠間藩の本庄家から養子を迎え、翌年7月3日、康道侯は隠居した。

この養子が與板藩3代目藩主、康重侯。
つまり、綱吉公の生母の弟の宗資侯から、五男をもらってきたのである。
当時としては、それが時流に乗ることだったのだろうけれども。
與板藩牧野家は、牧野氏ではなく、どこの馬の骨ともわからぬ高麗人の血筋になったということ。

将軍の従兄弟様が1万石ぽっちというわけにもいかないので、なんの功績もなくても加増になり、康重侯は與板を去ってしまう。
元禄15年(1702年)9月12日、
信濃小諸へ栄転。

  (幕府領)

與板藩は、いったん消滅。
『代官
鈴木八左衛門(出雲崎代官)・長谷川庄兵衛管轄 元禄16年・宝永1の記録』(『藩史大事典』)

  兵部少輔井伊家、10代

宝永2年(1705年)12月3日、遠江掛川から井伊直矩侯が2万石で與板に入って、與板藩が復活。
以後、明治まで井伊家が統治。
この井伊家は、彦根藩井伊家の、分家だが長男家。

彦根井伊家は、徳川四天王のひとり井伊直政侯の家で、徳川軍の先鋒を勤める家であり、大将みずから最前線に立つような武勇の家風だった。
先陣を任されるというのは、最も危険で損な役目に耐えられる勇敢な強剛であるというだけでなく、開戦のタイミングと、合戦の展開を方向づけてリードする重要な判断を担当することであり、先鋒隊の指揮権は総大将からもほとんど独立しており、大変に名誉なことだった。
しばしば、この役目を奪い合いになって、味方同士で殺し合いに発展するほど。
先鋒の権利を侵す者は、手柄を欲ばって秩序を乱して全軍を危険にさらす「抜け駆け」という大罪なのである。

しかも井伊家は、武田家の旧臣たちを部下にしており、鎧から馬具から旗や足軽まで全身が朱一色の「赤備え軍団」を継承していた。
味方の後ろに隠れてでも怪我をしたくない戦場で、「喧嘩を売りたければ、まず俺にかかってこい、束になってかかってこい」という目立ち方、いわゆるレッドバロン、シャア専用である。
戦う男たちから見て、これは、ものすご〜くカッコイイのである。

武田軍の強さは定評があり(徳川軍をボッコボコに破ったこともある)、しかも徳川家は家康公以下一同が「信玄ファン」みたいなところがあった。
武田家の滅亡後、武田軍の生き残りは井伊家の部隊に編入されたのだが、この時も喧嘩があり、半分よこせ、さもなければ直政と刺し違える、と榊原康政侯がゴネた。
そのくらい、あこがれの精鋭部隊だったのである。

ところが、直政侯の死後、あとを継いだ長男の直継(のち直勝君は病弱で、大坂の陣に出られず、次男(異母弟)の直孝君が代わりに出陣した。
家臣たちも、こんな軟弱な主君では納得しないので、家康公の命令で、彦根藩井伊家の当主は直孝君に交代させられた、というか、直孝君が2代目を継ぎなおし、直継侯は2代目ではなかったことにした。

どかされた直継侯は、直勝と改名し、井伊家の領地のうち上野安中3万石と、古参の家臣をもらって、井伊家の分家になった。
これが三河西尾3万5千石、遠江掛川3万5千石と移転していって、3世代目の直武侯がスケベでバカ、4世代目の直朝侯が発狂して参勤交代をサボるなどしたため、お取り潰し。

彦根藩から四男の直矩君(直朝侯の正室のきょうだいでもある)を養子に入れて再興したが、石高は2万石に削減、陣屋大名に降格となる移封。
軟弱とキチガ◯が原因で落ちぶれた家をどこに置くか、どこでもいいや、ということで選ばれたどうでもいい空地が、長岡の支藩の残骸だったという失礼な話で。

といっても、この御家再興からしばらくは、江戸に住みっぱなしで参勤交代しない大名。
與板は単なる収入源の田んぼ。
6代目の直朗侯のとき、若年寄を勤めた功績(というより、正室が田沼意次侯の次女というコネ)で、城主格に昇格、築城を始め、参勤交代するようになる。
7代目の直暉侯のとき、與板城が完成した。

この藩も、すんなり長男が継がないことが多かった。
 3代目の
直員侯は、彦根藩の家臣の木俣家から。先代の従兄弟。生母は井伊家の娘。
 4代目の
直存侯は、伊勢桑名藩の松平忠雅侯の四男または五男。
 6代目の
直朗侯は、5代目の直郡侯(藩主になって3か月で死亡)の弟。
 7代目の
直暉侯は、彦根藩の直幸侯の孫。
 8代目の
直経侯は、6代目の直朗侯の七男。
 10代目の
直安侯は、彦根藩の直弼侯の三男。

幕末には、早めに官軍側についた。
北越6藩は列藩同盟側についたから、與板藩は官軍の足がかりの拠点として重宝された。

井伊家はもともと熱心な勤王で、彦根というのも京都を守る位置付けとされ、それでいて井伊直弼侯が失脚したり暗殺されたりで、幕末には徳川家からあんまり頼りにされていなかった。
桜田門外の変でも、彦根藩士たちのほとんどは、駕篭を守らず逃げ出したという。
それでも先鋒の家なので、鳥羽伏見では確かに彦根藩が先鋒を勤めたが、装備も戦術も古臭くて惨敗し、赤備えを脱ぎ捨てながら逃げ出し、官軍に寝返った。
與板藩の井伊家も、彦根藩と同じ勤王の道を選んだ。

本来、與板は長岡藩の領地だった。
長岡藩にしてみれば、長岡藩をサポートしてもらいたくて、
せっかく1万石わけて與板藩をわざわざ作ってやったのに、長岡人をブッ殺す拠点に使われ、骨折り損のくたびれ儲け。
長岡出身者が與板藩のことを書いた文章にはたいてい、「精神疾患の井伊家が…」などと、チクチク悪口が書いてある。
誠心誠意すべてを投げ打って徳川家に殉じた人々から見れば、井伊家のくせに裏切るのかよ、気は確かか!?というお気持ちだっただろうと思う。
小諸藩も、長岡藩と一緒に戦ってくれなかった。

明治元年(1868年)5月28日、奥羽越同盟軍の攻撃により、與板城は炎上した。
門は移築されて現存している。

與板藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月22日。

 

 江戸屋敷(井伊家)

  上屋敷
西之御丸下(宝暦年間)、数寄屋橋内(安永年間)、木挽町三丁目(文政年間)。下谷七曲り(明治期)
  
中屋敷
向柳原。現在の浅草橋四丁目。
一説によれば、これは文久年間における上屋敷だという。
北は道を挟んで松平源十郎邸、松浦壹岐守邸(肥前平戸藩上屋敷)。東は道を挟んで酒井左エ門尉邸。南は籾御蔵。南は多記安良邸。

  下屋敷
芝高輪。

 

 藩校

牧野家の時は、おそらく無い。
あったとしても藩校ではなく、藩主が聴講する程度だろうと思われる。

井伊家の時は、まず「学問所」というのがあったようだが、成立年月不詳。

万延元年(1860年)、城内演武場に「正徳館」を設立。
校名の由来はよくわからないが、元号の正徳は『尚書』からとった言葉。

文武兼修、といっても、武術は町道場に委託されていたらしい。
『四書五経を正科とし、歴史・詩文を余科とした。洋学・医学はない。算法・筆道・習礼・武術は、それぞれ指定の稽古場で修学させた。』(『藩史大事典』)

戊辰戦争のせいで、いったん閉校。

明治2年(1869年)、再興。武士に限らず領民に広く解放して学問を奨励した。

現地では、与板高校と寺泊高校が合併したことにより、平成17年(2005年)に、新潟県立正徳館高等学校という学校が誕生している。今どき珍しい、しつけのきちんとした学校だという。

 

 唯心一刀流継承者

井伊家も含めて、唯心一刀流があったという話は聞かない。

 

 他の剣術の主なところ

井伊家も含めて、剣術は一切不明。
『藩史大事典』も、與板藩の剣術に関しては記載がない。

牧野家の時は、長岡藩とほぼ同じか。
井伊家の時は、江戸の町道場の剣術が入っているかと思われるが、それも不明。

 

 現在の状況

不明。

 

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