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 磐城平の政長侯の娘婿、真壁も領有、謎の天命一刀唯心流の伝承地

 伊予 今治

 

 藩の名前

今治藩、伊予今治藩。松平美作守、松平壱岐守など。
いまばりと読むが、昔は、
いまはるのほうが一般的だったらしい。
ほかに、
いまはり、いまばるなどとも呼ばれ、表記も、今針、今張、今墾などと、まちまちだった。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

藤堂高虎侯は、外様、城主、20万石。
藤堂高吉侯の時点では、2万石。

久松松平家は、譜代、帝鑑間詰、城主。3万石。
 寛文5年(1665年)6月18日、役料を追加され4万石。
 延宝4年(1676年)10月25日、弟に分けたので3万5千石。

 

 位置と、土地の性格

伊予国今治。越智郡、島嶼部、その他。
現在の愛媛県
今治市付近。愛媛県の中部の瀬戸内海側と、島々。

久松松平家の時は、越智郡の本土2万6100石余、島嶼部3800石余。

四国が、広島のほうへ突き出した、高縄半島の北東部分。
瀬戸内海の最も難所のひとつ、狭い所。
むかいの来島は村上海賊が拠点にしたくらい、海運の重要地点。
島々で感覚的に陸続きと言ってもいいくらい、中国地方が目と鼻の先(現在は国道317号線で本当に陸続き)。
瀬戸内海は九州の外様大名が水軍を立てて大坂や京都へ攻め上る最短ルートだが、ここさえ押さえておけば、通れない。
徳川家としては、忠臣にまかせたい藩。

越智郡は伊予国の中心地であり、国府が置かれた所。
じゃあ愛媛の県庁は今治に置けばよさそうなものだが、西どなりの松山は四国で最も人口の多い所。
しかし今治もかなりの大都市であり、
四国で5番目に(県庁所在地以外では最も)栄えている。
さらに、「自称・骨太の構造改革」(弱者切り捨て&丸投げとも言う)のせいで、小さな自治体はもうやっていけなくなり、急激な市町村合併があったので、今治も11町村が合流して、ますます巨大な自治体になった。

今治は、どういうわけかタオルの生産日本一として有名。
鶏皮(タレ)を鉄板で焼いた、鉄板焼鳥というのが名物らしい。

ほかに、久松松平家の飛び地領として、武蔵国東葛飾郡、下総国芳賀郡(臼井栗原)、常陸国真壁郡(一説には下館だともいうが、『藩史大事典』では真壁)に、役料で追加された計1万石があった。
このうち5千石を分家(弟の定道殿)に分知。
残り5千石は、元禄11年(1698年)5月26日に幕府が召し上げて、伊予国宇摩郡18ヶ村5千石と交換、同じ5千石でも、このほうが今治藩にとっては儲けものだったという。
以後、宇摩郡三島村に代官陣屋を置き、幕末には19ヶ村を支配していた。

宇摩は、伊予国の東端で、幕府領や西条藩領に細かく切り売りされていた土地。
現在は市町村合併して、宇摩郡は消滅している。
5つあった侯補名のうち、公募で最下位だった大穴の「四国中央市」という派手な名前が、市民の反対をふりきって逃げきり、ゴールインした。
弘法大師や長宗我部家の影響や、地理的にも、四国は4県で1セットという意識が強く、道州制の採用に前向きで、このまま地方分権政策が進んでいくと「四国州」というのが設置され、四国の州都は四国中央市に置かれることになる、なぜなら四国中央市だもーん、…という説が、ごく一部にある。

 

 藩主と、藩の性格

  越智河野家、代々

大昔から、伊予の支配者はだいたい河野氏。伊予水軍をやっていた。
伝説が本当なら7世紀末から伊予にいたことになる。風早郡河野郷が本拠地。

平安時代には平家に、鎌倉時代には源氏についたが、承久の乱では上皇側についてしまい、ひとまず没落。
河野通有侯は、北条側に味方して、元冦の時にも大活躍して、ふたたび盛り返す。

その息子の通盛侯も足利家によく仕え、道後温泉に移って湯築城を居城にした。
つまり、今治ではなく伊予松山が本拠地になる。

しかし、伊予を完全に支配していたわけではなく、一部地域には従わない者もいたり、一時的に権力を奪われたりした。
河野氏自体が、本家と分家、兄と弟で、しばしば対立になったりした。

  新田脇屋家

南北朝の時、義貞公や正成公がバタバタ戦死した後、新田義貞公の弟の脇屋義助公が、戦い続けていた。
南朝が一時的に優勢になり、康永元年/興国3年(1342年)、義助公は中国・四国方面の指揮を任されたため、今治の国府に入ったが、すぐ病死。
この時すでに、国分山城の前身にあたる城があったらしいが、もちろん中世の城。

  京兆細川家

伊予国の守護は、だいたい河野氏が世襲していたが、交代させられることもあった。

特に室町幕府の管領、細川家は強剛で、細川頼之侯などは安房・伊予・備後・讃岐・土佐の守護を兼ねた。
頼之侯は正平9年/文和3年(1354年)から、伊予の守護。

  能島村上家、代々

村上水軍のリーダー格、能島村上氏が、今治に勢力を伸ばし、唐子山の山頂に国分山城を築いて居城にしていた。
このころの当主は、
村上武吉侯。
天正13年(1585年)の秀吉公の四国征伐により、開城して伊予を明け渡し、安芸の竹原に移住して小早川家の家臣になる。

村上海賊は3派あり、因島水軍は毛利家に、能島水軍は小早川家に、来島水軍は河野家のちに豊臣家に仕えた。

  越智河野家、代々

河野氏は、来島村上氏や毛利氏と親戚関係を結んで、それなりに勢力を保っていたが、戦国大名へと脱却できなかった。

瀬戸内海の中央にいるから、四国からも中国からも北九州からも上方からもちょっかいを出される。
新居郡・宇摩郡の
石川家・金子家、宇和郡の西園寺家、喜多郡の宇都宮家、土佐の一条家、豊後の大友家、安芸の毛利家、讃岐の三好家、そして長宗我部家、さらに信長公秀吉公まで、いろーんな連中がごちゃごちゃ居た。

河野家はどんどん疲弊・没落し、あいかわらず家督争いの内紛なんかもやっていて、毛利家や小早川家の傘下のような感じになる。

天正13年(1585年)の秀吉公の四国征伐により、小早川隆景公が攻め込んできて、最後の当主、河野通直侯が湯築城を開いて降伏し、領地は没収、安芸の竹原に移り住む。
跡継ぎがないまま病死して、天正15年(1587年)河野氏は滅ぶ。

このあと、養子がついで、関ヶ原の時に御家再興を狙って挙兵したが失敗、再興できなかった。

河野家の武術は、傍流の御子孫によって一部現存している。詳細は1Gにて。

  (長宗我部家)

四国全土を統一した戦国大名、ということになっているのが、土佐の長宗我部元親侯。
天正3年(1575年)に土佐を統一し、天正13年(1585年)に四国を統一したということになっている。
ちっとも統一できてなかったじゃん、ほかにもいろんな勢力いたじゃん、というのが最近バレまくっているが、当時の四国で最も勢力が大きかったことは確か。

長宗我部は、長岡の宗我部という意味。
宗我部という氏族が長岡郡と香美郡にいて、それぞれ、長宗我部、香宗我部と名乗って区別した。
一説には、蘇我氏の子孫だとか、秦の始皇帝の子孫だとかいうことになっている。

土佐は経歴詐称の宝庫であり、はなだだ注意を要する。
坂本竜馬は明智光秀侯の子孫だぁとか、いろんな話があり、卑弥呼、南朝天皇、正成公、クレオパトラ、ノア、ソロモン王、モーセ、イエス様、長威斎先生、卜伝先生、一刀斎先生など、ありとあらゆる有名人の子孫がウジャウジャいて、どこまで本気なのやら収拾がつかない。
特に、信玄公の子孫だけでも膨大な数である。
長宗我部家に従属させられていたカッコワルイ過去を抹消して貴種流離譚をでっちあげるため、明治維新の時に急に出世したので歴史の基礎を知らないまま粉飾したため、基本的に漁師なので住民の気質が素朴でだましやすかったため、僭称が平気な土地柄で、また、病弱な子どもの運勢を変えたくて別名で呼ぶという風習が現在でも盛んで、悪気も全くない。

しかも、もしかしたら本当なのではないか?という雰囲気が強い、というのは、古い貴重な文化が保存されやすい土地なのだ。
『 同じ四国にあっても、土佐は四国山脈で、他の三国と遮られ、中央の情勢にはなはだ疎い。
 なにしろ、父元親が土佐一国の安堵の御礼言上に、初めて上洛したときの、異様ないでたちに京童は大いに騒いだ。帯に相当するものは太縄であったという。それほどに、土佐は中央の文化圏と隔絶された地であった。』
(小林真一『逆転「関ヶ原」』きらめく星座社2009)

四国征伐は信長公の時から話が始まっており、本能寺の変で中断していたが、秀吉公が引き継いで、長宗我部家の領地は土佐一国のみに押し戻される。天正13年(1585年)7月5日。
このあと、長宗我部家は不運ばかり重なる。
豊臣家臣になった長宗我部家は、九州平定に参加したところ、仙石久秀侯がやらかした惨敗のせいで、自慢の長男が戦死してしまう。
さらに、次三男をさしおいて四男を跡継ぎにし、反対する忠臣たちを殺し、次男を幽閉するなど、御世継ぎ騒動になる。
東軍に参加しようとしたのに、関所で封鎖されて東軍に連絡できず、やむをえず西軍につくことになり、関ヶ原では戦わずにぼーっとしてただけなのだが、それでも西軍だから浪人になる。
起死回生を狙って、大坂の陣で豊臣側についたが、なおさら滅びた。

  土肥小早川家

秀吉公の四国平定のあと、小早川隆景公が、伊予国まるまる35万石をもらった(豊臣家から、いったん毛利家がもらったことにして、それを毛利家から小早川家に与えたという形にして、毛利家の顔を立てた)。
陪臣たちに分けたり、秀吉公の直轄地もあるだろうから、隆景侯の直接の領地は半国くらい?
この時は、湯築城を本拠としたらしい。

小早川家は鎌倉以来の名門で、本家の沼田(ぬた)と、分家の竹原があったが、なぜか都合よく、当主が急死する。
毛利元就公にとって邪魔な人間は、だいたい変死するのである。
毛利元就公の三男が、竹原小早川家に養子としてもぐり込み、沼田小早川家から嫁をとって、反発する忠臣たちを皆殺しにして、見事に小早川家を乗っ取ったという、毛利家の得意パターン。

兄の元春侯も、同じような手口で吉川家の当主におさまり、共に毛利家を支えて「両川」と言われた。
勇猛果敢の元春侯に比べると、隆景公は慎重派の智将であり、2人とも優秀というだけでなくキャラが違っていたことがまたバランス的に良かった。
隆景公は、毛利輝元公の幼稚な暴走をうまく制御して、特に外交を得意とした。

小早川というと、関ヶ原で裏切った人が有名だが、あれは養子。
秀吉公には遅い実子(秀頼公)が産まれたので、すでに養子にしていた甥の処分に困り、当時は跡継ぎのなかった毛利家に押し付けて毛利家の跡取りにしちゃうのではないかという噂が出たため、猿の血筋に入れ替えられてはかなわないから、隆景侯は本家の身代わりになることを決意、自発的に養子に引き取って小早川家を譲り、小早川秀秋公にした。

秀吉公の九州平定が終わると、また領地の再編があり、小早川家は天正15年(1587年)筑前名島に移封。

  尾張福島家

次は、福島正則公が今治11万3200石をもらう。
このうち約4万石は代官地だったとか、これとは別に秀吉公の蔵入地9万石の代官という役割も兼ねていたとかいう。
最初は湯築城に入ったが廃城にして、9月には国分山城に移り、だいぶ補修や拡張の工事をしたらしい。

正則公は、清正公と並ぶ、秀吉公の子飼いの武闘派。
おそらく戦国大名の中で最も、涙もろくて、怒りっぽい武将。

秀吉公のいらなくなった養子のひとり豊臣秀次公が廃棄処分されて、尾張があいたので、文禄4年(1595年)、尾張清洲へ栄転。

  近江佐々木池田家、2代

池田景雄(秀雄)侯、池田秀氏(高祐)侯、この親子は、六角・織田・明智・豊臣と仕えた武将で、親子で各地を転戦した。
伊予大洲の大名のはずなのだが、なぜか、このころ国分山城に入っていたらしい。7万石?
父と子、どっちかが大洲にいて、どっちかが今治にいたということ?

慶長3年(1598年)、一説には慶長2年(1597年)、侵略しに出かけた朝鮮で景雄侯は戦死して、秀氏侯が継いだ。
伊予大洲の大名になったのは、この時からだという説もあり、1万2千石に減封になる。
秀氏侯は、このあと関ヶ原で西軍について、高野山へ出家、のちに許されて藤堂家に仕えたが辞し、息子は浪人していたところを家光公に拾われて旗本になる。

  近江小川家

慶長3年(1598年)、小川祐忠侯が今治(国府)7万石をもらって、国分山城に入った。
『諸国城主記』では祐滋。

小川家はもともと六角家の武将で、この人は浅井・織田・明智・柴田・豊臣と仕えた。

関ヶ原では西軍について、小早川家の裏切りと一緒に裏切ったのだが、戦後に改易。
裏切るんだか裏切らないんだか明確でなかったとか、意思表示は明確だが徳川家への返答が遅かったとか、内政に落ち度があったとか、跡取り息子が三成侯と親しかったとか、そんなような理由らしいけれども。
つぶす理由は何でも良かったのだろうと思う。

  近江藤堂家

豊臣政権末期の伊予国には、
 松崎10万石の加藤嘉明侯、
 板島(のちの宇和島。宇和郡)8万3千石(一説には7万石)の
藤堂高虎侯、
 国府7万石の小川祐忠侯、
 和気郡6万石の安国寺恵瓊侯、
 大洲2万石だか1万2千石だかの池田秀氏侯、
 風早郡など1万4千石の来島長親侯、
…というような武将がいたが、関ヶ原の西軍だった連中がどかされ、加藤家20万5千石と藤堂家20万石で、伊予国を山分けになった。

藤堂高虎侯は、慶長5年(1600年)11月18日から国分山城主。
領地は、伊予国宇和郡・喜多郡・浮穴郡・周布郡・桑村郡・新居郡など。
儲かる所やどうでもいい所があって、加藤家と折半したので、境界がモザイク状になってしまった。

そして江戸幕府が始まって、今治藩がスタート

藤堂家は、しがない小豪族、しかも没落しまくっていたのを、高虎侯が一代で大大名に発展させた。
この人は豊臣大名の中では早くから家康公に絶対服従していた。
三成侯が憎いからではなく、天下を取るのは家康公と見抜いて、なにがどうでも徳川家に誠実に仕えていたのである。
だから信頼され、徳川軍の先鋒は、譜代は井伊家、外様は藤堂家が担当する慣例になった。

もっとも、井伊家も藤堂家も、幕末には徳川家を裏切ったけれども。

国分山城は山城も山城だが、中世のアクロポリス城だから、時代錯誤すぎて、都市の経済や物流には良くなかった。
また高虎侯は近世城郭の設計施工の名人だから、満足するわけがない。
しかも、伊予松山藩の飛び地が邪魔で、国分山城からでは統治しにくかったという。
西北の川むこう、美須賀野の吹上浜に、慶長7年(1602年)年から工事を始め、今治城と城下町を建設、慶長9年(1604年)年9月にほぼ完成。
国分山城、来島城、拝志城から、石材などを一部転用したという。

高虎侯の築城法は、織田信澄侯(信長公の甥)のやり方。
今治城は、ヨーロッパの城を参考にしたのではないかと言われているくらい、直線で構成された四角い配置、これは風水的には大凶。
濠と水運を結び付けるのも高虎侯の特徴で、今治城は日本三大水城のひとつ。
水際に城を建てると背水の陣になってよくないが、藤堂家の場合は水軍を扱うから、これで問題なかったのだろうと思う。

慶長13年(1608年)8月25日、藤堂家は伊勢安濃津へ栄転になる。
徳川家の御機嫌取りをさんざんやって、高く評価されたため。

このころ家康公は、豊臣皆殺しの仕上げにかかっており、丹波篠山に松平康重侯、丹波亀山に岡部長盛侯と、領主を徳川譜代にすげ替えただけでなく、篠山城の新築と亀山城の大改修を諸大名に命じた。
高虎侯は、この2つの城の設計者。
『寛政重修諸家譜』、『宗国史』、『高山公実録』などによると、今治城の天守をもぎ取って、丹波亀山城に移築したということになっている。
もともと伊賀上野城に転用するつもりだったが、徳川家に刃向かうつもりはないということがわかりやすいように、堅固な自分の城をぶっ壊して、家康公が必要としている城の材料にしたほうが、ウケがいいと考えたとかなんとか。
しかし、昭和55年(1980年)の今治城の科学調査では、天守の痕跡が全く無かったので、もともと今治城には天守は無かったか、あったとしても天守と呼べるような天守ではなかったらしい。
あるいは、これから今治城の天守を建てようとしていた矢先に、中止して、すでに用意してあった建材を亀山城に流用した、ということかもしれないが。

  (津藩領、近江藤堂家(高吉系)

藤堂家は、津に移転した後も、伊予国に、越智郡2万石だけは保有していた。

この飛び地部分は、養子の藤堂高吉侯が、今治城の城代として管理し続けた。
これは独立した大名ではなく、高虎公の家臣が、高虎公の領地の一部をまかされている状態。
『諸国城主記』では、今治城の「城主」は、高虎侯の次は松平定房侯になっている。
『以後当城弐万石領之家来藤堂宮内居之』と書き添えてあり、高吉侯は城代くらいの扱い。

この人は丹羽長秀侯の三男で、羽柴秀長公の養子になるはずだったとか、なったとか、しかし秀吉公の気が変わって話が立ち消えになり、それを、子宝に恵まれない高虎侯が引き取って自分の養子にしたところ、高虎侯に実子が生まれて邪魔者になり、藤堂親子から嫌われて、藤堂家の家来という形で飼い殺しにされていた人。
のちに丹羽家の協力を取り付けて、藤堂家とは関係ない独立した大名になろうとしたが、藤堂本家から目付が派遣されて常に監視下に置かれ、子々孫々まで独立を許されなかった。
相続に邪魔なら血のつながった肉親でも次々に暗殺して禍根を断つ長岡藩牧野家などに比べたら、まだ藤堂家は優しいのかもしれないが。

寛永9年(1632年)、一説には寛永12年(1635年)9月2日、伊勢へ移封。のち伊賀名張に移った。

  久松松平家(定房系)、10代

となりの伊予松山藩も、加藤家が会津へ栄転し、後任の蒲生家も跡継ぎがなくて絶えたため、伊予国はガラ空きになった。
これを
久松松平家(定勝系)が、兄弟で山分けする。
家康公の甥(異父弟の子)たち。

 伊勢桑名から来た兄(次男。定勝系の本家)の定行侯が、伊予松山。
 ここの分家の旗本家が、NHKの松平アナ。

 伊勢長島から来た弟(五男)の定房侯が、今治を与えられた。
 寛永12年(1635年)7月28日。

以後、明治まで、久松松平家(定房系)が今治を統治。
税率は低め、一揆も少なく、おおむね善政だった様子。
今治藩の筆頭家老(1千石)は、あの忍者の服部家。
服部正就侯の正室の実家が久松松平家だった縁で、改易後の服部一族は久松松平家各家に召し抱えられた。

定房侯は江戸城の城代(留守居役)を務め、寛文5年(1665年)6月18日、役料として1万石加増。
定房侯の正室は、磐城平の初代藩主の内藤政長侯の娘。

2代目は定時侯。藩主になって2年ほどで早死に。

定時侯の長男の定直君は、養子に行って、伊予松山藩主になる。
仇討後の赤穂浪士の身柄を預かった4大名のひとり。
主役を張れるヒーロー堀部安兵衛殿、討ち入りの戦闘では最も活躍した出戻り不破数右衛門殿、俳諧人大高源吾殿ら、10名の身柄を預かった。
その接待が悪かったため、忠臣蔵マニアからは嫌われた。

3代目の定陳君は、定時侯の次男。
『諸国城主記』では陳の東部分が齊になった文字で書いてあり、『元定陳』と普通の陳で書き添えてある。
もともとは普通の陳だったのが、のちに、齊の陳に変更したということらしい。

定時侯の三男の定道(のち定昌)君は、延宝4年(1676年)10月25日、定時侯の遺言で関東の飛び地5千石をもらって分家した。

伊予松山藩は親藩で三葉葵紋、幕末にも幕府側についたが、今治藩は譜代で梅鉢紋、官軍についた。
梅鉢を家紋にするのは、自称道真公の末裔の家がやることで、久松松平家もそうだった。

幕末になって、大砲を搭載した異国船がひょいひょい日本近海に出没するようになると、海のそばに城を構えているなんてことは不安になり、藩庁移転計画が持ち上がったが、移転するより前に今治藩は滅びた、というか江戸幕府が滅びた。

『第二次征長に参加したが途中で引き返し、中止を幕府に提案した。鳥羽伏見の戦いののちには、京都警備、甲府への出兵などを行った。』(『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』)

最後の藩主は定法侯。そのまま知藩事。
今治藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月20日。

その前に久松松平という家も無くなっていた。
慶応4年(1868年)の太政官布告で、松平をやめて久松姓に戻したため。

明治2年(1869年)、今治城は廃城。
濠が海水だったことから、のちに牡蠣の養殖場になった。

昭和55年(1980年)10月、市政60周年記念として、鉄筋コンクリの、なんちゃって今治城を建てた。6億8千万円。
一応、丹波亀山城を参考にしたが、丹波亀山城とは似ても似つかないうえに、今治城に天守があったかどうかも怪しいので、復元ともレプリカともつかない不思議なオブジェになってしまった。
しかし、でっち上げだろうとバッタもんだろうと、日本で最も美しい建築物のひとつであることは確実で、特にライトアップと水鏡が織りなす夜景は幻想的。

 

 江戸屋敷(久松松平家)

  上屋敷
大名小路(木挽町)。亨保2年(1717年)類焼、翌年も類焼。
麹町三丁目(安永年間)。寛政4年(1792年)に類焼。
小川町雉橋通(文久年間)。
一ツ橋通小川町(明治期)。

  下屋敷
下高輪。大塚(明治期)。

 

 藩校

今治の藩校は、藩士や領民に学ぶ場を与えようではなく、寛政の改革が目的で設立されているところが特色。
つまり、古学や陽明学の弾圧、蘭学の言論統制(特に幕府批判)、低俗な大衆文化の撲滅、綱紀粛正。
なにしろ藩主が松平なもので。
学頭は長野恭度という人、もちろん朱子学寄り。

今治の名誉のために書くけれども、そもそも統制がまったくない学校というのはない。
まがりなりにも認可された学校ならば、間違った情報は教えないが、情報の配分比率や、解釈や、使い方のほうを統制や誘導して、なんらかの思想を植え付けているのは確かで、それがその学校の校風とか特色でもある。
経営側に左右される私立や宗教付属校はもちろん、じつは公立でも、日教組や教育委員会やPTAや学部長の意向が働いていて、県民性のようなものもあり、教科書の選び方ひとつにしても、授業中のほんの一言でも、偏りがある。

『学問は思想である。いったん思想を持てば、それが行動を決定する。あんたのような考え方では、会社を首になる。なんどそういわれたかわからない。それなら会社員であることが「正しくない」時代がきたらどうするのか。私は一億玉砕、鬼畜米英の時代に育った。それに懲りたはずの人たちが、ふたたび「あの雰囲気では仕方がなかった」を繰り返そうとしている。私にはそう見えて仕方がない。「首になるか否か」で仕事を左右するなら、そこでは仕事の論理は通らないはずである。通るのは、むろんそれとは違う、組織の論理である。』(養老孟司、南伸坊、『解剖学個人授業』新潮社1998)

文化2年(1805年)4月、南掘端の藩士屋敷跡に「講書場」を設置。
読書場と誤記されていることもある。

文化4年(1807年)? 文化14年(1817年)5月?
大手御門内二ノ丸屋敷に移転新築、拡張。藩校「
克明館」と改称。
松平定信侯が名付けた(この時の揮毫の一部が、現在の今治城内に現存する)。

『藩と城下町の事典』では、『同四年にこの施設が拡充されて藩校克明館と改称された』とある。
『藩史大事典』では、『克明館 文化14・5年(改称) 二ノ丸屋敷に移る』、『また定剛の治世、文化十四年(一八一七)五月に藩校克明館が創設され、』としている。

文化14年(1817年)6月9日、「再興した」という説もあるらしいが、根拠不明。
再興と言うからには、この時までは衰退していたということなのだろうか。

科目は、素読・漢学・輪講・兵学・弓術・馬術・剣術・槍術・柔術・砲術があった。
今治の兵学は大田流などがあったが、軍事のことは1Gで。
今治藩は神伝流を採用していたが、藩校の教科に水術があったかどうか俺にはわからない。こんなに海の近くで藩士がカナヅチなわけはないと思うが、『藩史大事典』には書いてない。

弓術の流派は不明、砲術は稲富流と亀島流、ただし、『文久三年(一八六三)、軍事組織を洋式兵制に改め、』、『幕末には弓を廃し、西洋操法による砲術を訓練。』(『藩史大事典』)、武士というより西洋式の銃歩兵になっちゃってた様子。
こういう雰囲気においては、純粋な座居合は行われにくいと思うのだが、その話は後述。

克明館の文献資料は、今治市立明徳図書館(今治市立中央図書館の前身)に収蔵されていたが、この図書館の蔵書は昭和20年8月の空襲で全焼している。

ほかに、倫社をわかりやすく庶民に教える「新民舎」というのがあった。
『定剛は領民教育の向上をはかり、松山藩の心学者田中一如を招聘し、領内各村で巡回講話をさせた。のち嘉永二年(一八四九)、心学の講義所「新民舎」が設置された。』(『藩と城下町の事典』)
田中一如は伊予松山藩校の先生で、盲目だった。心学は、職業倫理とか経営理念のような道徳。

 

 唯心一刀流継承者?

天命一刀唯心流、という剣術があったらしい。「他流」のページに別記。
これは藩に採用されていたわけではない様子。

藤堂家が今治藩をやっていた頃、となりの伊予松山は加藤家の領地であり、そして加藤家は会津へ転封になって、支藩の三春藩を作る。
藤堂高虎侯と加藤嘉明侯は、朝鮮侵略以来の犬猿の仲であり、藤堂高吉侯も加藤嘉明侯と喧嘩して蟄居させられたことがある。
少なくとも江戸時代初期には、今治藩と三春藩が親しかったとは考えにくい。

 

 他の剣術の主なところ

  藩に採用されていた剣術

   以心流
三宅系だとされているが、根拠がわからない。
森田先生の『心の剣法以心流兵法考』には、『其他津和野藩や今治藩にも以心流が行われていますが、恐らく三宅以心の流儀であったと思われますが、調査が間に合いませんでした。』としか書いてない。
今治藩では、以心流も心貫流も剣術流派として扱われているようで、「剣と居合の流派」という扱いではないらしい。
『今治拾遺 久松壱岐守定法公御家譜 総目録』に剣術師範はあるが、居合師範とか、剣術・居合師範は無い。
本当に剣術だけだったとすれば、この以心流は堀系の可能性も考えなければならないが。
もしかすると、今治藩では剣術と居合術をあまり区別しなかったか、剣術に居合術が含まれていたか、文化年間以降は現代剣道化が進んで居合術が衰退したのかも。

   以心得宗流
得宗流のことらしいのだが、本当に同じものかどうか、ひょっとすると得宗流とは別に、得宗流の一派が以心流と折衷したようなものがなかったか、判断しかねる。
まったく同じ流派の、別名や通称だったとすれば、今治では得宗流という言い方のほうが一般的だったのではあるまいか、あるいは、似た名前の流派が複数あったとすれば、得宗流が多数派だったのではないか、という印象を受ける。
『藩史大事典』には、今治藩の剣術は以心流・自源流・心貫流・得宗流しか載っておらず、いずれも『文化年間以降』としてあり、それ以前のことはわからない。
根拠不明だが、克明館で教えていた剣術は以心流・自源流・心貫流・得宗流だけだったとする説もある(『藩史大事典』を見て早合点した人が言いふらしているだけかもしれないが)。

   心貫流
いろいろな当字で書かれるが、今治では
真貫流という表記も多く、信抜流よりは心貫流という表記のほうが一般的だった様子。
これは絶対に居合を含むはずだが(現存する信抜流三原伝では「居合剣法」とおっしゃる)、今治藩では剣術流派として採用されていたようでもある。
今治ではとても流行っていた流派らしい。
今治において剣術と居合術が不可分な雰囲気は、この流派のせいか。

   得宗流
おそらく
天心独名流のことだとは思うが、異説もあり、最近また珍説がある様子。
確信できたら、ここに加筆する予定。
今のところ、忠也派一刀流の末流のひとつが天心独名流で、その別名のひとつが得宗流、という認識。

   無三自現流
瀬戸口系のひとつ。今治では「自源流」という流派名になっていることも多い。あるいは複数系統あったか。

  藩に採用されていたかもしれない剣術

   四国一傅流
詳細不明だが、
四国一本斎一傅流のことらしい。
世間では薙刀の流派と思われているが、実際は棒術が中心で、剣術もあったという。
今治にあったことは間違いないが、藩に採用されていたとする説もある。
一本斎先生が今治に住んで今治で亡くなったのは史実のようだが、歿年は元亀元年(1570年)頃。一本斎先生の死後、御弟子さんが採用されたのかもしれないが。
しかも今治には浅山流柔術もあったので話が微妙ではある。

採用したのが藤堂家だった可能性もあるのかもしれないが、津藩では薙刀は知新流穴沢系と柳剛流であり、一本斎先生の系統が津にあったかどうかは今のところ確認できず。

  藩に採用されていないが、現地に伝承された剣術

   天命一刀唯心流
前述。

   松山新当流
不明。伊予松山藩に新當流があったが、それのことか。

  藩に採用されていたが、剣術を含むかどうか

   疋田流
疋田先生の槍術部門。
槍の流派として採用されていたが、わずかでも剣術が付属していなかったかどうか不明。

 

 現在の状況

不明。

 

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