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 土方家の旧領、なぜか一刀流正木派があった

 伊勢 菰野

 

 藩の名前

菰野藩、薦野藩、伊勢菰野藩。土方備中守、土方丹後守など。
こもの、と読む。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

外様、雁間詰、化政年間は柳間詰、無城。
1万2千石。叔父に分けたので宝永2年(1705年)5月からは1万1千石。

陣屋の名前は「菰野陣屋」。
もともと滝川一益侯の代官所だったものを、雄氏侯が補修して仮陣屋としたもの。
のちに増築や新築をしたようだが、2度焼失して再建している。
城ではなく陣屋なので、天守も櫓もなかった。

大政奉還して江戸幕府が無くなってから、明治元年(1868年)、12代目の雄永侯が嫁を迎えるにあたって、4間の濠を掘り、二層の角櫓を建てたというが、これは嫁の歓迎でシャレっ気を出したというより、まじめに戊辰戦争中のはず。

菰野藩土方家は、城持ちではなく、陣屋大名。1万石そこそこだから。
『土芥寇■記』でも、「土方雄豊」は居城ではなく「居所」としている。

ところが菰野町観光協会の公式サイトでは、この陣屋を「菰野城」と呼び、「代々の居城」「城郭」だと主張なさっている。
菰野陣屋の跡地には、「菰野城址」という石碑まで建ててあるらしい。
城と陣屋、居城と居所の、違いを御存知なくて、あまり深く考えずに書いてらっしゃるだけなのか、それとも、菰野町のみなさんには、なにか根拠がおありなのかもしれない。

というのは、『日本歴史人名辭典』で「土方雄氏」をひくと、『伊勢薦野城に治して二萬二千石』などと書いてある(根拠は不明だが)。

つまり、陣屋大名になったのは江戸時代になってから。
江戸幕府の価値観では、土方家の家の格式が、城を構える身分ではないということ。

豊臣政権下では、菰野に2万4千石くらい持っていたようだから、安土桃山時代の菰野の政庁は、菰野城と呼んでさしつかえない。

 

 位置と、土地の性格

伊勢国三重郡15ケ村1万石、および、近江国栗太郡内羽栗村・南笠村・上笠村・部田村の内に2千石(のち1千石減)。

現在の三重県三重郡菰野町菰野付近、現在の四日市の一部も含んでいたらしい。
三重県の北部に位置し、西は滋賀県に接する。

鈴鹿山脈がいきなり終わって扇状地になっている所。
標高の変化が激しいので自然が豊かで、意外に積雪が多いという。
御在所岳という山と、そのロープウェイ(鉄塔の高さ日本一)が、名物になっている。

湯の山温泉も観光資源。
鹿が足の傷を治していたのを、木こりだか猟師だかが見て、温泉を知ったとかなんとか。
心中しようとしていたカップルが、僧兵のすすめで湯につかったら、気持ちが落ち着いて、自殺を思いとどまったとかなんとか。

菰野から四日市へ出れば、東海道に連絡できた。
菰野藩主の菩提寺「見性寺」も、尾張から僧を招いて創建している。

三重県の県庁所在地は津だが、三重県最大の都市は四日市であり、四日市は名古屋の通勤圏。
菰野町は、四日市の西隣りであり、四日市にも名古屋にも近くて、町とは言うが人口が4万もある。

菰野は、土方家の本来の領地。

マコモというイネ科の植物が、この付近にたくさん生えていたことが、地名の由来。
マコモの根元寄りの茎に菌が寄生して、茎が肥大化すると、秋に「マコモダケ」として食用になる。
俺は一度しか食べたことがないが、タケノコがトウモロコシになろうとして青葱になっちゃったような感じ。塩味の油炒めになっていることが多い。台東区内では中華料理屋で目にする。

 

 藩主と、藩の性格

  宇野土方家(雄氏系)、12代

土方家のことは、窪田藩のページに書いたとおり。

土方雄久侯の長男、土方雄氏侯は、豊臣政権下でもすでに、父とは別に大名だったらしい。
文禄5年-慶長元年(1596年)、菰野1万石を与えられたという(『三百藩藩主人名事典』)。

雄久侯が常陸へ身柄お預けになった時、雄氏侯も一緒に改易。

『藩史大事典』は『関ヶ原の戦いに加賀前田利長を家康側につけた功により』とあり、父と一緒に前田家の懐柔をやっていたような口ぶり。
『三百藩藩主人名事典』では、『翌五年関ヶ原の役が起きるや、罪を許され、雄氏は二代将軍徳川秀忠に従う。役後の恩賞として、』とあり、秀忠公の中山道方面軍に参加していたような口ぶり。

とにかく関ヶ原の戦いの功績により、慶長5年(1600年)、菰野1万石と近江国内2千石をもらって、父とは別に独立した藩になった。
以来、明治まで一貫して、菰野藩は土方家。
養子を入れたことはあるが、血筋は土方氏に戻した。

『初代雄氏は菰野に少数の家臣を置き、滝川氏の代官所跡に居館を構えたが、補修程度で主に京都武者小路の屋敷に居住した。』(『藩史大事典』)

『同六年四月、雄氏ははじめて菰野に入り、陣屋を設けたが、築城はしなかった。家臣は領内各地に散居して、一定の屋敷町は設けなかった。当時、藩地に居住した家臣は十人ほどという。雄氏自身も殆ど京都に住んだ。』(『三百藩藩主人名事典』)

雄氏侯の長男が継いで、2代目藩主になる。雄高侯。
藩が整備されたのは、この時期。
『二代雄高は定府以外は菰野に居住し、陣屋と城下町を整備し、陣屋の増築のほかに屋敷割を行なって侍町(藩内という)を設け、商工業者を誘致して、東町・河原町を新設、また藩制を整備して藩政の基礎を築いた。』(『藩史大事典』)

雄氏侯の次男は、氏久殿。
その三男が、雄高侯の娘に婿養子に入って、3代目藩主の
雄豊侯になった。
もし唯心一刀流になにか関係あるとすれば、この時期だと思われる。

延宝8年(1680年)6月27日、志摩鳥羽藩の内藤忠勝侯が切腹。改易。詳細は真壁と岩村田のページ。
鳥羽城の受け取りを雄豊侯が勤める。

天和3年(1683年)2月6日、院使饗応役を雄豊侯が勤める。
この時、勅使のほうの饗応役は、播磨赤穂藩の浅野長矩侯。
長矩侯は忠臣蔵事件の前にも勅使御馳走を一度やっているのである。
これが縁で、土方家と浅野家は親しくなったらしい。

雄豊侯の長男、豊高君は、藩主になる前に亡くなる。
雄高君の息子と娘は、雄豊侯が養子や養女に引き取った。
そのひとり、次女は、浅野長広殿に嫁いでいる。
長広殿は、長矩侯の弟。忠臣蔵で御舎弟大学様と呼ばれている御家再興の頼みの綱。

一世代飛ばして祖父から孫へ(名目上は、父から養子へ)の相続になり、豊高君の長男が継いだ。4代目藩主の豊義侯。
若いので、叔父の久長殿が栗太郡部田村1000石をもらって後見することになり、菰野藩は1万1千石に減った。

豊義侯も亡くなるのが早めで、長男が継いで5代目藩主の雄房侯になったが、これも若かったので、久長殿が補佐した。
吉宗公の尚武の時期だが、この頃から菰野藩では文治政策が進み、学問を奨励して、武術はおろそかだった様子。

ここも例にもれず貧乏小藩。
にもかかわらず歴代藩主が豪遊し、7代目の
雄年侯が綱紀粛正を図った時には、借金が9800両もあったという。

当時の流行に乗っかろうとして、田沼意次侯の六男を養子にしてみたが、かえって交際費が増えたりした。
この養子が8代目藩主
雄貞侯で、藩主になって2年で急死する。天明2年(1782年)。
江戸時代最大の餓死者を出した天明の飢饉が、この年すでに始まっており、田沼意次侯の長男が世直し大明神に斬られて死ぬのが翌々年。
ここで菰野藩主の暗殺があったかどうかはわからないが、少なくとも邪魔者だと思われていた可能性はある。

6代目藩主の孫を養子に迎えて、都合よく土方家の血筋に戻り、これが9代目藩主の義苗侯、ものすごい名君で、だいぶ藩財政を立て直した。

菰野藩は、貧乏しても借金しても、領民を苦しめなかったのが大きな特徴。

田の検地は、縄を張ったり棒をモノサシにしたりして計るが、この長さは、検地竿という公認モノサシを基準に作る(北大路版の『子連れ狼』だったか劇中に出てきた)。
1間平方が1歩、30歩が1畝、10畝が1反(段)、10反が1町。
昔は1反が360歩であり、これを基準にして、360歩の3分の2を「大」、2分の1を「半」、3分の1を「小」と呼び、端数がドンブリ勘定だった。
それが、秀吉公の太閤検地からは、「何反何歩」と数値で正確に計るようになり、しかも1反=300歩になった。年貢率が同じなら、今までよりも狭い田から捻出しなければならない、つまり、ちゃっかり増税したわけで。

太閤検地の時、1間は6尺3寸だった。江戸時代には1間は6尺。

菰野藩では、明暦4年(1658年)の検地が、なんと1間=6尺5寸半!
6尺竿の導入には菰野の農民から強い反対があり、反対もなにも幕府の標準なのだから押し通したっていいのだが、菰野藩は、反発の強い村では1反360歩で検地をおこない、あとは免率で調節した。
この善政に農民は満足していたので、菰野藩では江戸時代を通じて
一度も一揆が起きたことがないという。
気候が温暖なせいか、住民は昔から、のんびり優しい気質だともいう。

幕末は、勤王・佐幕に藩論が分かれたこともあったらしいが、官軍側についた。
土方雄氏侯の正室は、織田信雄公の娘。

『鳥羽伏見の戦いでは足利家の墓所がある等持院の警備に当たっていたが、勤王で一貫し、東海道の警備や多羅尾代官所(信楽)管轄の天領の接収などに当たった。』(『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』)

  (明治政府知藩事、宇野土方家(雄氏系))

菰野藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月23日。
12代目の
雄永侯は、途中から、藩主ではなくなり知藩事になったということ。

その次、13代目の雄志侯は、藩主ではなく、最初から最後まで知藩事。

 

 江戸屋敷(化政年間)

  上屋敷
芝愛宕下薮小路。現在の西新橋二丁目、キッコーマン本社。
北は道を挟んで田村伊予守邸(旗本)、一柳銓之丞邸。東は毛利安房守邸。南は松平某邸、田村某邸。西は川と道を挟んで加藤越中守(近江水口藩上屋敷)。

  下屋敷
『もと芝二本榎にあったが、雄豊が幕府の許可を得て麻布一本松の邸地と交換、以降麻布一本松』(『藩史大事典』)

 

 藩校

慶長年間に、「斎武場」というのがあったということになっているが、詳細不明。
武術の稽古場だろうか。

『三代藩主雄豊が学問を奨励し、家塾制度が行なわれていたが、』(『藩史大事典』)

文化13年(1816年)だか文政3年(1820年)だかに、「麗澤館」という塾を作る。
麗澤書院」という表記になっていることもある。
南川文蔵(蒋山)という学者の家塾を、義苗侯が助成したもので、この段階では家塾と藩校の中間的なものだったという。
陣屋の表門の南木戸近くの籾蔵屋敷跡に建設、建坪24。
南川先生が学頭、ほかに儒者2、助教3が指導にあたった。

校名の由来は、おそらく『易経』の『象に曰く、麗沢は兌びなり、君子もって朋友講習す』。
これは64卦の第58番「兌為沢」のことで、普通、占いでコレが出ると、ペチャクチャしゃべりすぎ、若僧だから口ばかり達者、楽しいんだろうけど黄色い笑い声がキャーキャーうるさい、というような意味なのだが、ここではおそらく、切磋琢磨して共に成長していくという、いい意味だけでやっているものと思われる。
同名の学校や寮や塾は、全国各地によくある。

天保7年(1836年)7月、雄興侯により改称、新築、8月11日から藩校「修文館」になる。
今度は、完全に藩校。公営。
麗澤館の北西、大手門付近(陣屋の敷地内)、建坪50。
ほかに58坪の武道場「
斎武場」を備えていた。
督学1、教授4、助教5という講師陣。藩主みずから講義したこともあったという。
『農民といえども篤志のある者は入学を許可し、』(『藩史大事典』)
授業料は、藩士子弟が半期に銀2〜3匁または金1〜2朱、農民子弟は金50〜100疋。

明治2年(1869年)2月11日、「顕道館」と改称。
このとき斎武場を修理したとか増築したとか、旧松下町に移転したとか、移転先は郷会所の跡地だとかいう。

郷会所は、郡奉行と16ヶ村の庄屋が行政を話し合う議会だった。

督学1、教授3、隊長2、権教授7、習字2、数教2、句読2、というような21名の講師陣。
『藩史大事典』に、『(略) 明治二年(一八六九)顕道館と改称、育英・知新の二塾開設し和漢・西洋学を教授。』とあるが、どうやら塾というより顕道館の校舎の名前らしく、顕道館の南に「
育英舎」、西に「知新舎」という付属施設があって、それぞれ寄宿舎も備えていたらしい。

『藩史大事典』では『明治二年顕道館武術教授』として7名をあげ、そのうちの3名が剣術。
1名は真影流、2名が「
一刀流」で近藤先生と宇佐美先生の名があり、出典は『菰野町史』だという。
これは
一刀流正木派のこと。後述。
修文館の学頭に、宇佐美精得祐一という名前も見えるが、宇佐美先生の御一族か。

『教科内容 経書・史書・習字(栗田流)・礼法(小笠原流)・剣術・槍術・弓術・馬術・柔術・砲術。文学は八歳以上、武術は十三歳以上。顕道館では博物・西洋事情・窮理など西洋学を加える。』(『藩史大事典』)

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県。この時、藩校も廃校になったらしい。
『同四年七月十四日閉鎖。』(『藩史大事典』)

明治4年(1871年)11月22日、菰野県は消滅。
桑名県・亀山県・長島県・神戸県・津県と合併して、安濃津県になる。
この時点で、菰野藩が運営するものは消滅。

明治5年(1872年)8月、学制発布。明治政府の新しい教育制度。
この時が顕道館の廃校だとする説もあるらしい。
つまり、「閉鎖」しても再開はできるわけだから、菰野県や安濃津県の学校としては運営されていた?

明治6年(1873年)1月6日、跡地に「菰野学校」を新設。
明治9年(1876年)12月21日、農民が減税を求めた一揆「伊勢暴動」により焼失。

明治12年(1879年)、「菰野小学校」として再建。
明治31年(1898年)?、陣屋跡地に移転。

現在、菰野町立菰野小学校という三重県最大の小学校になっている。
同校の公式サイトによれば、歴史を古く見せかける小細工をなさっておらず、「開校」を明治6年としてらっしゃる。

三重県は児童教育に熱心な土地柄で、金を惜しまず子どもさんを習い事に通わせたがるという。

 

 唯心一刀流継承者

一刀流正木派というのがあった。
渡辺武八郎景庭先生。近藤又一賢章先生。宇佐美久右衛門徳滋先生。

磐城平藩に杉浦先生直伝の唯心一刀流があるのだから、磐城平藩の親戚の藩に杉浦系があるなら納得するが、杉浦系ではなく正木系というのが謎、正木一刀流じゃなくて一刀流正木派というのも謎。

菰野は尾張に近くて、尾張藩との交流があったから、尾張藩の先意流となにか関連があるか。

これが正木一刀流と同じものかどうかは不明。綿谷先生にもわからなかったことらしい。
一刀流正木派は、『武芸流派大事典』に
『正木太郎太夫利充の流れか。文政九年より菰野藩に伝承した。』とある(原文ママ)。
つまり、それ以前の伝系がわからない。

文政9年は1826年。
正木利充先生が亡くなったのが安永5年(1776年)。
膨大な一刀流継承者の中に、たまたま正木という人がほかにもいて、一刀流正木派というのが偶然できあがる可能性も、ないわけではないけれども。
正木先生のお孫さんあたりから習った可能性も少なくはない。

 

 他の剣術の主なところ

  真影流
日下部権之助先生。どの真影流なのか不明。

菰野では、剣術よりも、相撲が盛んだったようでもある。
豊年侯が大変な相撲マニアだったことから、たびたび興行をおこなったという。

 

 現在の状況

不明。

  

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