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 かつて真壁を領有? しかも平の内藤家・安藤家とは親戚

 信濃 岩村田

 

 藩の名前

岩村田藩、信濃岩村田藩、内藤美濃守、内藤豊後守など。

いわむらたとルビを振っている本がものすごく多いが、正しくは、いわむら
現地の方言で「いわんだ」「いあんだ」と訛ることはあっても、いらむらたとは絶対に言わないという。
岩田村という誤植もときどき見かける。

現在の東大阪市に、岩田村という旗本領があった。
現在の岐阜県南東部に、岩村藩というのもあったので注意。

「佐久」は、佐を低く、久を高く、尻上がりに発音するのが正しいのだが、よそ者は尻下がりに読むので気持ち悪い、と現地の方はおっしゃっている。佐久は、かつては「さこ」だったらしい。
ついでに言うと、軽井沢は本来はかるいさわだが、外国人が発音しにくいという理由で、かるいざわに変更している。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

譜代、菊間広縁詰、無城。
安政5年(1858年)から、雁間詰、城主格(城は未完成)。
1万6千石。
正徳元年(1711年)10月12日、弟に分けたので1万5千石。

正徳2年(1712年)から亨保3年(1718年)まで、岩村田陣屋とは別に、野沢村にも陣屋を置き、川西の地区を管轄していた。

 

 位置と、土地の性格

信濃国佐久郡の一部、のちに小県郡の一部も。飛び地は後述。

現在の長野県佐久市岩村田を中心とする、佐久市・北佐久郡・南佐久郡の、一部。
長野県の東部に位置する。

岩村田が栄えたのは、大井氏が活躍した室町時代が最盛期であり、村上氏が大井城を落として以降は、あまりぱっとしなかったらしい。

江戸時代には中山道の宿場のひとつではあるが、本陣・脇本陣がなかった。
つまり、大名行列の宿泊を受け入れる用意が無いということだが、龍雲寺、西念寺、という寺で休憩はできた(龍雲寺は武田領の曹洞宗の本部であり、信玄公の遺骨が分骨されたと伝えられている)。
碓氷峠を越える人も越えた人も、増水した千曲川で足止めを食らう時も、泊まるには中途半端な、中間の位置だったらしい。
宿屋も少なく、旅人は素通りしていて、
大きな街ではなかった。

天保14年(1843年)の旅籠は、追分35、軽井沢21、沓掛17、望月9、岩村田8。
軽井沢・沓掛(中軽井沢)・追分(信濃追分)は、「浅間三宿」と呼ばれて売春で有名であり、「軽井沢」と言えば売春婦の代名詞になっていたほどで、寛政年間の飯盛女は追分宿だけで400人、天保14年の軽井沢の人口は男女比が1:2。
泊まるなら岩村田ではなく、当然こっちに泊まるわけである。

20世紀末に新幹線が通って、小諸よりも栄えたが、陣屋町とか宿場町というより、もともと農村地帯のようで。
そもそも、田んぼの中に新幹線の駅を作るのは、作りやすいからなのだ。
東信地方は、平野というほど広いわけではないが、高原なので常に爽やかに晴れていて、日本で最も晴天が多い土地のひとつであり、空気が澄んでいて日射が多く、雨が降らないのに清らかな川の水に恵まれており、米どころ。

上野安中(今の群馬県南西部)は、畑ばかりで、米は佐久産に依存してるようなところがあった。
天明の大飢饉の時、安中藩の人々は米を求めて暴動を起こし、天明3年(1783年)10月2日に碓氷峠を越えて、軽井沢で炊き出しを要求、沓掛さらに岩村田を打ち壊して回り、岩村田藩は何も対応しなかったが小諸藩とは交渉がおこなわれ、小諸では破壊活動をしないことを条件に黙認というので小諸は素通り、その先の小県を侵略し、上田藩の手でやっと退治された。
慶應4年3月11日にも、同様の事件があった。まるでイナゴである。
佐久地方は遠くまで見晴しが開けているので、山の中にいるという感覚が薄く、むしろ安中の人々のことを「山猿」と呼んでいるという。

日本酒も、ものすごくうまい…。パンダの人には特におすすめ。
岩村田商店街の中に、戸塚酒造店さんという小〜さい酒蔵があって、『寒竹』という銘柄を作ってらっしゃる。
宣伝費よりも材料費、量より質、というお考えだから、全く知られていないが、おすすめ。フルーティで甘口なのにサラサラしててスッキリで、女性にもおすすめ。

となりの望月宿(佐久市茂田井)には、武重本家酒造さんの『御園竹』というのもあって、これもおすすめというか、普段バーボンを飲んでらっしゃる男性には、むしろこっちを強くおすすめ。ものすごく味が深い!

都内から行くなら、長野新幹線で佐久平。
東京駅なら始発だから、ほぼ確実に自由席に座れる。上野からでもたいてい座れるが、上野から乗るとホームの一番後寄りのキオスクに、佐藤藍子さんそっくりの営業さん?(販売員さんではない)がいて、ニッコニコの笑顔で元気よく声をかけてくださるので、高くてまずい駅弁を買わなければならなくなる。
昼なら「パンダdeランチ」がおすすめ。穴子寿司みたいなやつは、相対的には安いが、信じられないくらいマズイのでよしたほうがいい。
ほとんどは大丈夫だが、たまーに、佐久平に停まらない列車や、軽井沢までしか行かない列車もあるので注意。
佐久平でいったん改札を出て小海線に乗り換えると、ひとつとなりに岩村田という駅も一応あるが、学生さんの通学のための駅のようで、周辺には何もない。タクシーに乗って、寺社を見て回るくらいしかない。このへんのタクシー運転手は、とても感じのいい人ばかり。
岩村田の商店街というのも、駅前通りではなく、駅から東へ少し離れた所にある。

小海線は長野県東部を縦断しているディーゼル列車。ネットで地図を見ると八ヶ岳高原線と書いてあるが、現地の方は誰もが小海線と呼んでいる。
無人駅が多く、基本的にワンマン運行。どこから乗ったか整理券を取り、降りる時は運転席のそばのドアだけが降り口であり、料金箱に運賃と整理券を入れるという、後乗りバスみたいな仕組。 
※追記 無人駅にも切符の自販機が設置されたので、車内に整理券発行機はあるけど整理券は出てこないそうです。
自分でボタンを押さないとドアが開閉しない。降りる時も注意だが、乗る時も、開けっ放しでは風が入って寒いので、乗ったらすぐ「閉」ボタンを押して閉めるのが作法らしい。
佐久平駅では新幹線の上を小海線が通っているので、ジェットコースターみたいに高架になっている。

小海線に乗るなら、龍岡城と小諸城もチェック。

余談ですが龍岡城について。最寄駅は龍岡城駅ではなく、ひとつ隣りの臼田駅なので注意。
現地の人に行き方を聞くと、『ははっ、あんなとこ行ったって何もないよ、桜の時分ならともかく』、『行ってどうするの、なにしに行くの、物好きねえ』とかなんとか笑われるが、行けばたしかに水掘も土塁もある、少なくとも岩村田城よりはよっぽどマシだ(と俺は思うのだが、同行したM先生は川岸の稲荷神社のほうが楽しそうだった。そっちも一応、稲荷山城という城の跡らしいのだが)。
しかし、龍岡城は濠が狭いので(棒高飛びでいける距離)、砲兵ではなく拳銃戦闘の規模、おそらく実験的模型という感じ。目の前ギリギリまで民家だから、よけいに。
星形に縄張するのは、どこから近付こうとしても2方向以上から砲火をくらわしますよ、よじ登る者は横からも背後からも撃ち殺しますよということなのだが、あんまり小さいと、駆け抜けられて話は終わりだ。
函館五稜郭は龍岡城の倍くらいあるが、あれでも小さいのである。仮想の妄想をほざいて申し訳ないが、うちは龍岡城の10倍以上の敷地を想定している。攻城砲も要塞砲も、射程は100メートルや200メートルではないのである。
龍岡城は現在、市立田口小学校の敷地になっている。校庭を横切ると、土が海辺のように砂っぽくて、靴に入るので閉口する。

東京の西側にお住いの方なら、『あずさ2号』を歌いながら中央本線で山梨県へ下って、小淵沢から小海線で佐久地方という手もないこともないが、距離もだが時間的に遠回り。半日くらい電車に乗ってなきゃならない。武田家の調査のついでならばいいが。

 

 藩主と、藩の性格

  (小諸藩領、美濃仙石家)

近世までの東信濃の話は、小諸藩のページ。

長野新幹線の駅は小諸市ではなく佐久市に置かれたが、小諸の人々は、この駅名を、小諸佐久駅か佐久小諸駅にしろ、と横槍を入れて、佐久市民に笑われた。
この主張には一理ある。
小諸藩は、かつて5万石もあったので、
岩村田も軽井沢も小諸藩領に含まれていた。
小諸藩主仙石秀久侯の墓も、岩村田西念寺にある。
岩村田藩は元禄時代になってから新設されたのである。

小諸藩はどんどん小さくなって、牧野家の時は1万5千石まで没落する。
小諸はもともと実高が高く、農法は発達していくし、新田開発もするし、小諸では商業経済がうまくいっていたが、藩主や藩の「格」という価値が、3分の1以下に減っていくのである。

  (幕府領)

要するに、佐久は米で儲かると思って、どんどん幕府直轄にしちゃったらしい。
佐久を一円支配したのは、現在に至るまで仙石家が最後であり、行政区がこまかく分割されていく。

佐久には岩村田藩と田野口藩が新設されたほか、旗本領もいくつかあった。
小諸藩松平家の分家の旗本、岩村田藩内藤家の分家の旗本があったほか、元禄15年(1702年)から明和2年(1765年)まで松平家の下県知行所5千石、亨保10年(1725年)から安永6年(1777年)まで水野家の高野町知行所7千石、亨保10年(1725年)から維新まで水野家の根々井知行所2千石があった。

武蔵岩槻の板倉重種侯は老中だったが、次期将軍の人選をめぐって黄門様光圀公を敵に回し、自分の息子も家督争いになったため失脚、信濃坂木藩に左遷になり、この時、天和2年(1682年)から元禄12年(1699年)まで、佐久の幕府領の一部4146石が、坂木藩の飛び地領になっていた。

ところで、内藤家が岩村田に来るまでの話。
譜代の三河内藤氏は、戦国時代に、
清長侯、忠郷侯、清政侯の兄弟に分かれる。

 清長系は、家長系信成系に分かれる。
  
家長系は、磐城平(そして泉、湯長谷)の藩主になった一族
  
信成系は、「左遷大名の墓場」こと越後村上藩に、定着してしまった大名。

 忠郷系は、旗本。いろいろと事件を起こした家。
  
この系統から本多家へ養子に行った人が、安藤重信侯の娘をめとる。
  産まれた子が、重信侯の養子になって安藤家を継いでいる。

 清政は、これも忠郷系だという説もある。以下の4つに分かれる。

  養子、清成侯
竹田家から養子に入って家督を継いだ。
旗本だったが、秀忠公のおもり役をつとめ、幕府要職を歴任して大名になる。
この家系は、跡継ぎが幼いという理由で一度改易になるが、再興して、最終的に信濃高遠藩3万3千石になった。内藤新宿の語源。

  長男、忠重侯
大名。
鎖国をやりたくて船戦が苦手な江戸幕府としては、水軍大名を内陸に移封して「陸に上がった河童」にして、軍事力を削ったが、九鬼水軍もちょうど御家騒動をやらかしてくれたので、本拠地の志摩鳥羽から立ち退き。
その跡地、3万5千石を与えられたのが、この内藤家。
3代目のとき永井尚長侯を刺して改易、真壁藩のページに書いた話。
城の受け取りを担当したのが、
伊勢菰野の3代目、土方雄豊侯。

  三男、政吉殿
旗本。徳川忠長公のおもり役だったため、連座で失脚。
のちに許されたが、寛永9年(1633年)から寛永17年(1640年)までは
秋田俊季侯に、その後は、兄の忠重侯に身柄をお預けになっていた。

  四男、政次殿
旗本。これが、のちに
岩村田の内藤家になる家。
500俵取りだったが、将軍家綱公の側近だったため幕府要職を任され、5000石に出世。

兄の政吉殿には政季殿という息子があり、その長男の正勝殿が婿養子に入って政次殿を継ぐ。
正勝殿は1000石加増され、さらに大坂定番に抜擢されて約1万石の加増があり、今の埼玉県の中央、比企郡鳩山町に陣屋を置いて、
赤沼藩(赤松藩)という大名になる。
合計1万6千石ではなく、1万7千石あったらしい。役職の手当か何かあったのだろうか。
『藩史大事典』によれば、武蔵国、上総国、下総国、常陸国(
真壁郡を領有していたらしい)、上野国、各地に小間切れで、合計55ケ村1万7千石。

正勝侯は翌年に大坂で亡くなり、長男の正友君が継いで信濃岩村田に国替え。

  三河内藤家(政次系)、7代

元禄16年(1703年)8月14日、正友侯は信濃国佐久郡27ヶ村1万6千石を領有し、岩村田に陣屋を置いて家臣に管理させ、岩村田藩が一応スタート。
この人も大坂定番を勤めた。10月28日から。
大坂定番は大坂城代の部下で、大坂城の警備隊長みたいなもの。

ずっと大坂にいるから、岩村田はただの収入源の田んぼで、べつに岩村田でなくてもよかったらしい。
岩村田付近6ヶ村6千石だけそのままにして、1万石は、摂津国と河内国の計22ヶ村と替えた。

長男は早死にで、次男の正敬侯が継ぐ。正徳元年(1711年)10月12日。
この時、弟の正直君に4ケ村1000石わけて旗本にしたが、この1000石はその後もそのまま岩村田藩が管理を代行した。

正敬侯の領地は、摂津・河内の1万石を、佐久郡18ヶ村・小県郡4ヶ村の1万石に、入れ替え。
岩村田の6千石と合わせて1万6千石、ふたたび領地が岩村田付近にまとまり、いよいよ本格的に岩村田藩になる。

4代目藩主の正興侯は、女児しか得られなかった。
ここで、内藤一族から養子を入れるのかと思いきや、なぜか肥前唐津の水野家の四男を婿養子に迎えて、5代目藩主
正国侯にした。
正国侯の
弟(十男)の政環侯は、湯長谷藩主。
当時の唐津藩は6万石だが、長崎港関連でうまみがあって実高20万石と言われる金持ちであり、やっぱり養子が持って来る持参金に関係あるのだろうか。

正国侯は子宝に恵まれなかった。今度は娘もいないから完全に絶えた。
また唐津水野家から、正国侯の甥を取り寄せて、6代目藩主
正縄侯にした。

正室だけでも内藤一族にするのかと思いきや、大岡家から嫁入り。南町奉行でおなじみ越前様の、親戚筋の大岡家。
つまり、この藩は内藤一族の分家という性格があんまり無いようで。
たまたま生まれた家の血筋でもらった石高ではなく、みずからの働きで稼ぎ出して立てたのだという、誇り高い藩だったのではあるまいか。

水野家から養子を入れたことは、結果的に、家格を高めた。
正縄侯は、この時代に最もブイブイ言わせていた
水野忠邦侯の、実弟ということ。
もっとも、忠邦侯もすぐ失脚するけれども。

となりの牧野家や松平家は名君として名高いが、岩村田藩は特にこれといって内政に画期的なことがあるわけでもなく、幕政で活躍したわけでもなかったのが、この水野家のコネだけで伏見奉行まで出世する。
天保の改革は失敗に終わるのだが、とにかく大幅な人事異動だけはおこなっており、今まで賄賂をむさぼってた連中が一掃されて空席ができたので。

伏見奉行というのは、外様大名が朝廷を押さえて天下をくつがえすのを防ぐために、京都の入口を固める人だから、伏見奉行をまかせられるほどの譜代なら、城を持たせても、謀反を起こされる心配はない。
安政5年(1858年)、城主格になった。陣屋を城と呼んでもいいということ。

さらに、本当に新城を築く許可が出る。幕末で動乱が予想される時だったから。
岩村田城。藤ヶ城ともいう。

『藩史大事典』によれば、
文久元年(1861年)10月、『岩村田上ノ城地籍に築城を計画』、
文久2年(1862年)2月、『陣屋地買上きまる(一九万五九三四坪)』、
同年春、『岩村田城築城(完成に至らず)』、
元治元年(1864年)11月、『重臣、城中屋敷ヘ移転』、
とある。

『藩と城下町の事典』によれば、
『一方、正誠は幕府から築城許可が下り、岩村田上ノ城に城郭建設を計画し、陸奥国磐城平藩の軍学者室衝平を招いて、文久三年(一八六一)から築城を開始、元治元年(一八六四)に上棟式を行った。』
とあり、築城を始めたのは文久2年ではなく3年だとするが、どっちが正しいのやら、そもそも文久3年は1863年、1861年は文久元年であり、どっちが誤植なのやら判断しかねる。

穴城の小諸城、徳川軍を2度も撃退した上田城、のちに国宝になる深志城、甲州流軍学の秘密奥義のすべてを投入したと言われる海津城など、強烈な個性の名城ばっかりだったから、城のことはコンプレックスだったようで。
かつて、岩村田の周辺には、北に大井氏の大井城、西に同じく岩尾城、南に平賀氏の平賀城、同じく前山城、伴野氏の伴野城、南東に笠原氏の志賀城、平賀氏の内山城などがゴロゴロあった
(『諸國廢城考』では、岩尾城のことを『岩村田城』と書いている)
江戸時代の人から見ても大昔の、地方の小豪族でさえ城を構えていたのに、大名が陣屋というのは、いい気がしない。

正縄侯の長男、正義君は、藩主になる前に34歳で亡くなる。
正室は、平藩安藤家4代目の娘。
1世代飛ばして、正義君の長男の
正誠君が、岩村田藩7代目なった。

平藩安藤家では、3歳の子が6代目藩主になって、1年もたたずに亡くなってしまい、内藤正義君の三男が養子に行って平藩安藤家7代目を継いだ。
安藤家は、嫁に出した遺伝子を返してもらって、重信侯の時と同じ外孫の養子相続。

岩村田藩は佐幕のようだったけれども、戊辰戦争では官軍側について、長岡撲滅に参加した。

岩村田城が完成する前に、廃藩になってしまった。
しかも、岩村田藩みずからの手で取り壊したという。
現在でも現地の方は、「城がなくて陣屋の大名でね」ということを、何度も何度もおっしゃる。

同じ未完成でも、南どなりの田野口藩ではヴォーバン式をやって、そこそこに観光名所になっているのは前述のとおり。
しかし岩村田城も『仏国型』の築城でやろうとしたという説もある。

岩村田藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月23日。

 

 江戸屋敷(寛政年間)

  上屋敷
神田明神下。現在の外神田三丁目、昌平橋通りと蔵前橋通りの交差点の左側付近一帯。
北は道を挟んで酒井新三郎邸(旗本3千石)。東は道を挟んで建部内匠頭邸。南は道を挟んで町屋と、道を挟まず神田明神。西は黒田某邸。

  中屋敷
下谷鳥越袋町。

  下屋敷
本所吉田町。現在の石原四丁目、錦糸中学校付近。
北は道を挟んで能勢熊之助(旗本)とその敷地内に勧請された妙見別院。東と南は、いずれも道を挟んで町屋。西は小役人。

 

 藩校

元治元年(1864年)、藩校「達道館」設立。
当時は藩校と言わずに「藩学」「藩侍講」と呼ばれていたという。

上ノ城(という地名の場所)に建設中だった城の、城内に設置したという。
城が未完成でも、中に入って建物を使うことはできると思うが、この年の11月に搬入を始めたばかりなので、どのくらい学校の実態があったのかが、よくわからない。

『藩史大事典』によれば、
 『藩の子弟は八歳に達すると入学を許された。月およそ六回の一般公開講義の聴講をさせている。明治四年の記録によると、生徒数九十名に及んだ。』
講師陣については、
 『督学一名、皇学教授二名、漢学教授三名、授業生(助手)五名、その他(使丁)一名』
その出典は『北佐久郡志』としている。

剣術も教科にあったというが、これでどうやって指導したのか。

井出正義ほか著『長野県の歴史シリーズ(9)図説・佐久の歴史上巻』郷土出版社1982によると、『藩主内藤正誠の意向に従って国学と漢学の双方を取り入れ、担当教授を別々に任命した』。

明治4年(1871年)、廃校。

跡地は現在、市立岩村田小学校という超巨大小学校になっているが、創立は明治6年で、特に関連はなく、広い敷地を利用しただけという様子。
岩村田城址は、ドライブのついでに寄るなら、どこかに乗り捨てたほうがいい。
大通りからの入口がわかりにくいうえに、道が狭くてすれ違いがほぼ不可能、もともとが城だったうえに周囲は住宅地になってるから、直角も有りのクネクネ道路なので。
行っても何もない。大きくカーブした川とその段丘を利用したかったであろうことはわかるが、土塁らしきものは当時のものなのか現代の整備なのかイマイチわからない。
小さな神社に城址をあらわす石碑はあるが、裏側の説明文は『七代百六十年の居城なり』とか大風呂敷なデタラメが彫ってあり、恥を後世に残している。

小諸の明倫堂は1805、上田の明倫堂は1811、田野口の尚友館は1854年の設立であり、この付近では岩村田藩校は最も設立が遅かった。
長野県は教育に熱心な土地柄で、旧中込学校などはオシャレな洋館の校舎を村民たちが自費で建ててしまったくらいだが、どうして岩村田藩は藩校を後回しにしたのか謎。

もっとも、藩校がないからといって教育が盛んでなかったとは限らない。
岩村田藩には、吉沢好謙(1710〜1777年)という地元生まれの学者が私塾を開いていたという。

小松芳郎監修『幕末の信州-近代への序章』郷土出版社2008によると、明治16年2月の調査で文部省が把握したものだけでも、信濃国の寺子屋・家塾は1466校、これは全国1位の多さだという。

『岩村田城下に心学講舎の敬業舎が創立されたのは寛政一二年(一八◯◯)で、その前年には中村習輔と植松自謙が岩村田を訪れ講議を行っている。岩村田藩も保護政策をとり、領民に聴聞させ、出席簿をつくって遅刻者のないようにいましめたほどであった。』(『図説・佐久の歴史上巻』)

 

 唯心一刀流継承者

岩村田には、唯心一刀流があったことになっているが、一切不明。

前述したような藩主の流れだけを見ると、磐城平藩に伝承されていた系統が伝播したと考えるのが、可能性としては一番高そうに思われるが、何も手がかりがない。

『幕末の信州-近代への序章』によると、岩村田藩では幕末の動乱に際し、鉄砲を扱える猟師を雇用して銃歩兵に充てており、それは戦闘員が足りなかったからで、その原因は、もともとが旗本だったために家臣が少なかったせいであるとしている。
こういう状況では、あまり剣術は盛んでなかったか、やるとしても比較的新しい流派それも竹刀による道場剣術である可能性が高そうに思えるが、とにかく、この藩には唯心一刀流があったらしいのである。

 

 他の剣術の主なところ

  小野派一刀流
平藩と同じで、小野派と唯心一刀流が両方あった藩ということになる。
しかし、岩村田は立藩が遅かったので、この小野派というのは「中西派と名乗っていない中西派」である可能性も捨てきれない。

  神道流
どの神道流か不明。

養子が入る時には、生家から同行した付人がいるはずで、そういう人はそのまま養家の藩士になるだろうし、それは武術のうまい人(ボディーガード)だったりするだろうから、唐津藩の武術も少しは混入した可能性があるのかもしれない。
唐津藩というのも藩主がコロッコロ変わり続けた藩で(長崎港の押さえだから)、四天流、神陰流、新陰流、神武一刀流、神明流、静圓明智流などがおこなわれていたようだけれども、唐津に唯心一刀流があったという話は聞かない。

小諸藩・岩村田藩・田野口藩(のちの龍岡藩)は、高崎藩が惨敗したと聞いて逃げ出し、水戸天狗党を素通りさせている。
『図説・佐久の歴史上巻』に、『浪人ちょぼくれ』という当時の流行歌の一部が掲載されており、『香坂峠は内藤様だよ、これまた固めはこんにゃく固めで、弥々浪士が西牧通りで、出かけた時には、ぶるぶるふるいて逃げたは逃げたは』、要するに、佐久地方の藩はあんまり戦闘的ではなかったようだ。

 

 現在の状況

現地調査してきましたが、手がかりは何もありませんでした。

上田や小諸と違って、封建時代を観光資源にする意識が薄い。
佐久の方にとって岩村田は、野沢とか平賀とかたくさんある佐久の地名のうちのひとつにすぎず、市役所も中込にあり、佐久市には田野口藩もあったので、岩村田だけを特別偉いとも思わないらしい。
信州佐久いわんだ逸品会」という村おこし団体があり、学者さんが岩村田の郷土史を講義する勉強会をやってらっしゃるそうですが、そういう立派な方はごく一部のようで。

現地の現代剣道も、普通に現代剣道であり、これといって一刀流の色が濃いようには見えませんでした。
指導者の方におうかがいしたところ、突技がお好きではない様子。
また、現代剣道は北中込の市立武道館でおこなわれていて、岩村田には昔から道場がなかったとか、最近はあるとかいう。

中学校の体育に剣道があるか、中学校の備品に剣道防具があるか、おたずねしたところ、岩村田にはない、小諸にはあるという。

耳にするのは桜井義剛先生など柔道の話ばかり。
亨保19年(1734年)、佐久地方の村々で、なぜか相撲が流行している。

鼻顔稲荷様そのほか寺社も見てきましたが、奉納額は、囲碁・将棋・養蚕などしか見かけない。

旧家や蒐集家や骨董屋の古武器も拝見しましたが、柔術関連ばかりで、一刀流の痕跡は皆無。
80年代なかばに、伝書や骨董武器が出回ったことがあり、古流に詳しい古老がいらっしゃったのかもしれないが、その時に亡くなって、継承者もなく、御遺族が処分した品ではなかろうか、とのことでした。

 

 余談

ここも小藩の例にもれず貧乏大名で、松代藩御用商人の八田家、同じく松代の伝兵衛、割元の篠沢佐五右衛門、倉賀野の船問屋?須賀庄兵衛、岩村田藩御用商人の並木甚右衛門・同七左衛門・渡辺武左衛門というような人々から借金している。
現地に伝わる「お舟様」という民話によれば、「割本」という苗字の人が広い土地を持っていたような話になっているが、「割元」は、庄屋や名主をたばねる元締のこと。

八田家は岩村田藩に1000両貸したが返してもらえず、金額は2900両にふくれ、領内5ヶ村の年貢米で弁済という話だったのも受け取れず、さらには藩財政のすべてをまかされ、担保の土地を没収したが今度は小作料を滞納され、寺社奉行に訴訟を起こしたのち、あきらめて手を引いた(笑)

「領民から借りた金を返せないので、内藤家が鯉を手放した」という逸話もあるが、それは、正縄侯が食用鯉の養殖を大坂の淀川から持ち込んで特産にした話が間違って伝わったのだという説と、本当の本当に藩主の庭の観賞用の錦鯉を売り払ったという説がある。

 文禄年間(1590年代ごろ)に中込という場所で野生の鯉の飼育を始めた。
 天明年間(1780年代ごろ)に臼田丹右衛門という人が淀川鯉を導入した。
 寛政2年(1790年)ごろ塚原の池田源助という人が淀川鯉の飼育を試みた。
 文政年間(19世紀初頭)に並木七右衛門という人が岩村田藩主からイロゴイをもらった(日本の錦鯉は長岡(山古志村)で始まった)。
 弘化2年(1845年)ごろ桜井村で稲田養鯉に成功したのが佐久鯉の始まりで、現在でも桜井は佐久鯉の料理店が多い。
…などと諸説あって、要するに、よくわからない。

佐久の人々は、現在でも、正月には鯉を食べる風習があるという。
『新必殺仕事人』でも、特に高級な鯉を売り買いするシーンで、「有名な佐久の鯉です」などと言っているので、どうやら知らなかったのは俺だけで、全国的に知られた特産らしい。ただし劇中では、もっぱら労咳の治療法であり、生き血を薬用にしていた。

現地の教員の方に藩主のお話をうかがうと、「ああ、『金は無いとう下がり藤』?」と鼻で笑われた…。
「金は内藤志摩守、袖からボロが下がり藤」という常套句があり、岩村田では誰もが知っているらしい。
人によっては「袖から」を「裾から」と言うが、岩村田では袖からが一般的だと思う、家紋がついてるのは袖だし、とのこと(『図説・佐久の歴史上巻』では、「裾から」になっている)。

これは内藤は内藤でも、剣聖ヒゲダルマ先生ではないか!

古流から現代剣道への過渡期には、偉大な剣豪たちがものすご〜〜〜〜くたくさんいらっしゃって、もちろんその優劣はつけられないし、つける必要もないけれども、とりあえず好きか嫌いかと言えば俺の一番好きな、内藤高治先生という方がいらした。
とても無欲で、お金に無頓着だった人で。

その人が御自分のことをあらわした、有名な自虐ネタが、これ。
「金はいつでも内藤さんよ、袖からボロが下がり藤」

しかし、この人は水戸藩、北辰一刀流。

『Play That Funky Music』をダンス☆マンが替え歌カバーしたものに、『よくある名字「斉藤」』という曲がある。
どこにでもあるという意味では、「佐藤・斉藤・馬の糞」という言い方がある。
橘氏が早く衰退し、平家が壇の浦に沈んだからには、あとは源氏、源氏でないとすれば、やっぱり古代から最も栄えた藤原一族ということになる。
内藤もよく栄えた氏族で、全国どこにでもいらっしゃる。
下がり藤が家運衰退を連想させることも昔から広く言われていた(だからこそ後世、上り藤の家紋が新作された)。

これは、なにか元ネタとなるものが、大昔からあったのではないかと思う。

「お国は大和の郡山、お高は十と五万石、茶代がたったの二百文、人の悪いは鍋島薩摩、暮れ六ツ泊まりの七ツ立ち、銭は内藤豊後守、袖からボロが下がり藤、松本丹波の栗丹波、くりと言われて銭出さぬ」
という、ケチな大名列伝みたいなのもあり、東海道箱根宿または中山道軽井沢宿の雲助(人足や駕篭かき)が、金払いの渋い大名を揶揄した歌、追分節ないし馬子唄だという。
これの細部は、「暮れ六ツ入りの七ツ立ち」、「松本丹波の糞丹波、糞と言われても銭出さぬ」というヴァリエイションもあるらしく、中里介山『大菩薩峠』劇中にも、これに似たものが出てくるらしい。

この話には特にオチはないけれども、磐城平藩の安藤家の家紋は、上り藤。

 

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