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 平の内藤家の分家、しかし唯心一刀流の手がかり無し

 陸奥 湯本
 陸奥 湯長谷

 

 藩の名前

湯本藩、湯長谷藩、陸奥湯長谷藩、湯長谷領。内藤播磨守、内藤因幡守など。
湯長谷は、ゆながやと読む。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

譜代、帝鑑間詰(寛保元年(1741年)から)、無城。

ただし現在、ここの陣屋は、なるべく「湯長谷城」と呼ぶ方向でいきたいらしい。
泉藩と違って城主格ではないから、建物も陣屋、陣屋の名前も陣屋、大名の身分も陣屋、実質的にも名目上でも全くの陣屋であり、城ではないということはわかりきっているが、観光地のイメージ作りの都合で、できれば城と呼んでもらいたいとのこと。
『藩史大事典』も、湯長谷陣屋のことを『築城』『城下町の整備』などと書いている。

1万石。
天和2年(1682年)から、1万2千石。
貞亨4年(1687年)から、1万5千石。
明治元年(1868年)12月から、1万4千石。
増減の理由は後述。

 

 位置と、土地の性格

陸奥国(磐城国)磐前郡、および菊多郡の一部、そのほか飛び地。
現在の福島県いわき市
常磐下湯長谷付近。

平藩の南西、泉藩の北に隣接するが、境界線がモザイク状に入り組んでおり、海岸も所有していた。

ほかに、加増された西国の飛び地があった。
増上寺事件での活躍により、天和2年(1682年)から、丹波国氷上郡に勅使島村442石余と下竹田村1395石余、丹波国何鹿郡に松市村162石余、ざっと2千石が加増され、下竹田に代官を置いていた。

大坂定番に出世したため、貞亨4年(1687年)からは、河内国茨田郡にも3千石加増。
この河内の飛び地は、宝永3年(1706年)、湯長谷付近の土地と替えた。

名前のとおり湯長谷には温泉があるが、湯本宿は途中から幕府領。
現在は、いわき温本温泉と言っている。露天風呂の面積では世界一。
日本で最も古い温泉のひとつであり、「日本三古泉」と言えば、有馬と道後と、あとひとつは白浜か、いわき湯本を数えることになっている。

温泉が美容と健康にいいのは、どこの温泉だってそうだが、ここは特に美人湯として名高い。
美人湯と銘うって、バカ女をおびき寄せて金を落とさせようという温泉は全国各地にいくらでもあるが、
蒼井優さんや伊東美咲さんになれる温泉は、ここだけである。
これはシャレで言っているのではなく、この地域に美人が多いということは現地で確認してきた印象なので特に申し上げる。
美人はたいてい冷たいものだが、湯長谷の美人はふにゃーっとしていて、とても親切な人が多く、それがくにゃくにゃした福島弁でしゃべる姿はとても可愛い。

江戸時代の日本では、すでに石炭が使用されており、九州などでも採掘は始まっていたが、湯長谷でもおこなわれていた。
『(略) 政敏の時に領内白水村から石炭が産出し、文久三年(一八六三)には二万六千俵を採掘した。』(『藩と城下町の事典』)
明治以降の富国強兵の時には、いわきから日立にかけての広い地域が「常磐炭田」という炭坑になり、湯長谷でも一時は湯が枯れるほど石炭を掘った。
炭坑が斜陽になると、全国どこでも炭坑街はさびれて、夕張市などは自治体そのものが倒産してしまったが、湯長谷はただちに温泉と観光に戻り、見事に繁栄して、珍しい成功例になった。
要するに、映画『フラガール』である。

 

 藩主と、藩の性格

  三河内藤家(政亮系)、14代

磐城平藩内藤家2代目の忠興侯は、検地と開墾で、実高を2万石増やしていた。

忠興侯が隠居する時、三男の政亮君に、この水増し分のうち1万石を分けて分家させたのが湯長谷藩。
寛文6年(1666年)に申請して、寛文10年(1670年)12月に認可された。

平藩の表高は減っていないが、湯長谷は全くの新田藩ではなく、新田と本田を混ぜた1万石。
最初は新田だけのつもりだったのかもしれないが、微調整があったらしい。
『藩史大事典』では、『新田のみの一万石ではおぼつかないと思ったか、本田を入れた一万石に改めた』などと書いているが、同じ地域の本田と新田で納税先が違うというのは、払うほうも取るほうも面倒なのだろうと思う。
他藩の例を見ると、たとえば飛び地領からの税は、重い米を運搬するのが大変なので換金して金納しており、時価だから目減りすることもあるし、しかも運ぶ人は役人ではなく農民の代表者で、封印された小判を代官から受け取る時に証文を書いており(借金した形になる。途中で紛失したら弁償ということ)、本国へ行って財務担当の奉行に渡して請取(領収書)をもらい、それを代官に届けて証文を返してもらうという、とても七面倒くさそうなことになっている。

最初は湯本に藩庁を置いたので、いわば湯本藩だったが、延宝4年(1676年)11月、湯長谷に移って湯長谷藩になった。
『三百藩藩主人名事典』によれば、湯本に設置したのは「仮居所」であって、湯長谷陣屋の完成を待つ間の一時的なものであるから、最初から湯長谷藩だったと考えてよさそう。

平藩の本家が延岡に飛ばされた後も、湯長谷の内藤家は、ここにとどまって明治に至る。

ただし、初代と2代目は、本家への遠慮(というよりオカルト的な理由)で、「遠山」と名乗っていた。
『(略) 丑年生まれは兄に対して宜しくないとの浅草寺別当知楽院の進言により内藤姓から遠山姓を名乗り、』(『藩史大事典』)

それと、養子相続がものすごく多い!

 2代目の政徳侯は、苅谷掘家から。
上総苅谷藩堀家初代の直景侯の、次男直行君の、次男。
この堀家は、
越後の「家老のほうの堀家」の、分家。
直景侯は旗本で、500石から2000石に出世、さらに父の直之侯の9500石を相続、大名になって苅谷藩をやっていた。
湯長谷藩主に実子がいないっていうから養子に入ったのに、なぜか政徳侯は生涯独身。

 3代目の政貞侯は、窪田土方家から。
陸奥窪田藩土方家3代目の雄隆侯の、弟の雄賀殿の、次男。
それまでは200石の旗本をしてた人。遠山をやめて内藤に戻した。
窪田藩土方家は、
平藩内藤家初代の政長侯の、娘の嫁ぎ先であり、ほとんど平藩の与力大名。

 6代目の政幹侯は、なんと紀伊徳川家から。
どういうわけか、湯長谷藩5代目政業侯は、22歳で「隠居」してしまう。妻子なし。
享年30とか72とか諸説あって、隠居後にどうなったのかも怪しい。
このころ上野館林藩の綱吉侯が将軍に成り上がり、館林藩は長男の徳松君2歳が継いだが、5歳で亡くなる。
徳松君に仕えていた黒田直邦という人があり、コネもあったが自身も大変な名君で、出世して大名になり、その娘さんが湯長谷藩4代目の正室で5代目の母だったから、湯長谷藩をつぶしてはならんぞという「力」が幕府側から出ていたような印象も受ける。
そうでなくても、1万石そこそこの藩が養子を入れるというのは、そいつに用があるのではなく、そいつが持ってくるコネと持参金で藩財政を立て直そうとしてやってることが多い。
とにかく紀伊藩徳川家6代目の宗直公の六男が、湯長谷藩内藤家に養子に入った。
紀伊藩はもともと
浅野家の本家がやっていた藩であり、紀伊徳川家の付家老は安藤家の本家である。
政幹侯の正室は、菰野藩6代目の土方雄端侯の娘。
長男は病弱で、次男が湯長谷藩7代目になったが18歳で逝去、三男の孫は
岩村田藩の初代藩主、四男が湯長谷藩8代目になったが27歳で逝去、そのお子さんもすでに逝去。

 9代目の政環侯は、唐津水野家から。
肥前唐津藩水野家2代目の忠鼎侯の十男。
この人も子宝に恵まれず。
兄(四男)の正国侯は、岩村田藩主。
父は
安芸広島藩浅野家6代目の宗恒侯の次男で、水野家に養子に入った人。

 10代目の政民侯は、庄内酒井家から。
出羽庄内藩酒井家7代目の忠徳侯の五男。
せっかく養子に入ったのに、お子さんが全部、女の子。

 11代目の政恒侯は、松本松平家から。
信濃松本藩戸田松平家8代目の光庸侯の四男。
松本藩松平家は三河戸田氏の本家、もちろん
大垣戸田家と同族。
享年24歳。

 12代目の政敏侯は、挙母内藤家から。
三河挙母藩内藤家4代目の政成侯の、次男政又君の、長男。
挙母藩の内藤家は、かつて
泉藩をやっていた内藤家。
政成侯は彦根藩井伊家から養子に入った人で、あの井伊直弼侯の実兄にあたり、当時としては時流に乗っていた血筋。
政又君は順番からいけば挙母藩を継ぐ正統な血筋だったのに(一度は嫡子に指名されている)、財政難の挙母藩に持参金を入れるためだけに彦根藩から婿養子を入れることになり、どかされて藩主になれなかった人。
政敏侯は独身21歳で逝去、妻子なし。

 13代目の政養侯は、11代目の政恒侯の三男
この人が産まれる前に、養子を迎えてしまったので、藩主になるのが遅かった。

 14代目の政憲侯は、山家谷家から。
後述。

…というわけで。
唯心一刀流にゆかりのある藩と、ちょこちょこと、つながりが無くも無いのだが…。
これだけ入れ代わると、そりゃどこかでは何かしらつながりがあるもので、それは平均化して特徴が薄まってしまうものなのか、どんどん濃いキャラに付け足されていくものなのか、よくわからない。

大名の次三男に生まれて、することもなく、くすぶっていたのが、こんな1万石少々の小藩でも養子にさえ入れば、幕閣になって、日本国の政治に腕をふるって活躍できるわけだから、持参金のこととか、いろいろとあったのではないかと思う。
あとは、単純に温泉が好きとか、療養目的で病弱な人ばかりが藩主になるとか?

  (明治政府知藩事、三河内藤家(政亮系))

湯長谷藩は、平藩や泉藩よりも早くから奥羽同盟に加わり、12歳の政養侯が自ら戦場に出て、官軍を相手に勇敢に戦って、しかも、おおいに善戦して優勢だったので、敗戦後に謹慎、強制隠居させられる。
明治元年(1868年)12月、領地は1000石削られ、1万4千石になった。

朝敵だから、このままでは藩も家もつぶれてしまうので、公家の血筋の人をもらってきて養子に入れ、内藤政憲侯にした。
従一位右大臣大炊御門家孝公の子が、いったん、丹波山家藩13代目の谷衛滋侯の養子になっていたという人物。
この相続は明治2年(1869年)におこなわれたらしい(月日は不明)。

湯長谷藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月23日。
政憲侯は知藩事になるまでの間、ほんの一時期、「藩主」だった時期があると思われる。

というようなわけで、湯長谷藩は実際には14代らしいのだが、政憲侯を含めずに13代と数える人もいる。
『藩史大事典』も、湯長谷藩の歴代藩主を、政養侯までしか掲載していない。

 

 江戸屋敷(文化年間)

  上屋敷
麻布百姓町 大手ヨリ32丁。のちの麻布桜田町。現在の西麻布三丁目。
北は道を挟んで阿部播磨守邸(陸奥白河藩下屋敷)。東は片山三七郎邸と、町屋。南は道を挟まず御賄方(幕府の食事関係を扱う御家人)、道を挟んでまた御賄方と、松平兵部少輔邸(越後糸魚川藩のことか)。西は道を挟んで町屋と、御賄方。北西は小役人と、渡辺某邸。

  下屋敷
麻布古川町。現在の麻布東町の一部。
『東京時代MAP』では僻地すぎて掲載しきれていない。

 

 藩校

天保14年(1843年)、下湯長谷城郭内広小路に、藩校「致道館」を設立。
10代目藩主の政民侯が学問に熱心だったため設立、みずから教鞭をとったという。
校名の由来はおそらく大垣藩と同じで『論語』。
剣術を教えていたのは、
箱崎義房先生。流派不明。

『漢学・和学・剣術・槍術・柔術などあり、また藩校開学以前より算学(和算)が著名。』(藩史大事典)
関係あるかどうか、平藩の政樹侯も、久留島義太という数学者を十人扶持で召し抱えていた。

明治2年(1869年)、改革。

明治4年(1871年)、廃校。
現在、湯長谷の藩庁跡地付近には、いわき市立磐崎中学校が建っているが、創立は昭和22年だという。

ところで、政民侯は庄内藩から養子に入ったのだが、庄内藩の藩校も「致道館」で、文化2年(1805年)に設立しており、これに範をとったか。
庄内藩では、珍しい剣術もあったが、結局は直心影流と北辰一刀流が流行っていた様子。

 

 唯心一刀流継承者

不明。

 

 他の剣術の主なところ

不明。

この藩はどちらかといえば弓術(鈴木吉之丞先生。日置流道雪派)が有名。
もともと内藤氏そのものが、戦国時代には弓のうまさで知られた一族だった。

弓鉄砲の盛んな所に剣士は育ちにくいというのが、うちの父の持論で、ちょっと望み薄のような気がしている。
このことを旧陸軍では『剣術短気、射撃ボサ』と言った。
実戦用の剣術は、自分から相手に体当たりして、さらに3メートルむこうまで駆け抜けるくらいに、有無を言わせずぶつかっていく気迫が大切であるのに対し、飛び道具は、敵をじっくり引き付けて待つ冷静さと正確さが大切で、ある程度おっとりボンヤリした人のほうが射撃はうまいのだという。

 

 現在の状況

現地調査しましたが、手がかりはありませんでした。

現地の現代剣道の方のお話では、みなさんどうやら飛び込み面がお好きらしくて、足のよく動く剣道を目指してらっしゃる様子、まったくの現代剣道。

スパリゾートハワイアンズに行ってきた由美子ちゃんからの情報によると、『最悪』だそうです。
場内がとても広く、浴衣や洋服の人が歩いている普通の通路を、係員に指示されるまま、水着姿で、きゃーと言いながら駆足で何度も長距離移動させられ、寒いやら恥ずかしいやら、すけべえのおじさん以外は楽しめない施設だと思った、とのことです。

 

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