平の内藤家の分家、しかし3代で移封、一刀流はあった 陸奥 泉
藩の名前 泉藩、陸奥泉藩、泉領。本多越中守など。 現在の大阪府南部を和泉国といい、岸和田藩と伯太藩があった。
親疎、伺候席、城陣、石高 内藤家は、譜代、城主格。2万石。 板倉家は、譜代、雁間詰、城主格。1万5千石。 本多家は、譜代、帝鑑間詰、城主格。 ここの陣屋は、建物は陣屋だが、大名家の格式が城主なので、「泉城」と呼ぶ権利があった。
位置と、土地の性格 陸奥国(磐城国)菊多郡の一部、その他。 本多家のとき、武蔵と上野に加増された計5千石の飛び地もあったが、これについては、直系御子孫の本多忠頼さんにも全然わからないのだという。 もともとが平藩とは別扱いにしておく土地、しかもほとんどの期間は本多家が藩主であり、平藩も内藤家ではなくなるので、元禄15年(1702年)以降の泉藩は、平藩の支藩という関係ではなくなっていた。
藩主と、藩の性格 (三河内藤家(家長系)、磐城平藩御蔭料) 内藤政長侯は、磐城平藩に移封してくる前は、上総国で佐貫藩をやっていたが、この時すでに、長男の内藤忠興侯は、領内に1万石、自分の領地を持っていた。 そして、大坂の冬の陣が始まると、頼まれもしないのに兵を率いて駆けつけ、ぜひ手伝わせてくださいと交渉した。 当時はそういう威勢のいい武将がたくさんいて、いいとこ見せたいという若い暴走や、これで戦国の世は終わりだから稼げる時に稼がなきゃという打算もあって、必ずしも忠義だけとは限らないけれども、内藤家の場合は歴代とても忠臣だから、家康公は感激した。 だから、内藤家が磐城平に入る時は、親7万・息子2万というもらい方になった。 三河内藤家(政晴系)、3代 忠興侯は跡取り息子だから、親の7万石を相続。 これで、この2万石の部分が藩として独立、泉藩がスタート。寛永11年(1634年)10月。 しかし政晴侯は病弱で、ハタチそこそこで亡くなる。 その三男の政森君が継いだが、正室と、継室(後妻)が、あの柳沢吉保侯の娘と養女だったことから、ますます時流に乗る。 三河板倉家(重形系)、2代 7月4日、上野安中にいた板倉重同侯が、入れ代わりで泉に入封、しかし1万5千石。 板倉家は京都所司代など幕府要職を歴任する家で、大名は4家あった。 この家は、本家に近い分家。のちに上野安中藩に定着するのだけれども。 長男の勝清君が継ぎ、延亨3年(1746年)、遠江相良へ移封。 三河本多家(忠以系)、7代 9月25日、遠江相良にいた本多忠如侯が入れ代わりで泉に入封、以後は本多家で明治に至る。 本多は栄えた家であり、大名だけで13家くらいあったが、改易させられた家も多かった。 2代目の忠籌侯は側用人を勤め、老中として寛政の改革に活躍した。 幕末には、いったん官軍に恭順したが、陸奥国だから位置的にどうしても奥羽同盟に加わってしまう。 泉藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月22日。
江戸屋敷(本多家、文化年間) 上屋敷 中屋敷 下屋敷 下屋敷
藩校 一説には、泉藩本多家2代目の忠籌侯が、「善教舎」という藩校のようなものを設立。時期は不明。 同5代目の忠徳侯のとき、華岡青州門下の小松精紀重喬という儒医が、毎月講義をおこない、藩主と藩士たちが聴講していた。 嘉永5年(1852年)9月、藩校「汲深館」設立。 明治3年(1870年)、教科拡張。 『学校の経費は明治三年(一八七〇)までは藩の経費でまかなっていたが、その詳細は明らかでない。』『明治三年以後は一ヶ年玄米二二七石五斗を経費の定額とした。』(『藩史大事典』) 明治4年(1871年)11月、廃校。 現在は、「善教舎」は地元の学習塾の名前に流用されている。 「汲深館」は、地元の剣道場と、そこを本拠とする現代剣道の団体に、名前が流用されている。
唯心一刀流継承者??? 泉藩本多家には「一刀流」が採用されていた。斎藤周平先生。 となりの磐城平藩に唯心一刀流があって、藩校の交流もあったのだから、なんらかの接触は絶対にあったと思うのだが。
他の剣術の主なところ 文久2年『分限帳』に記載されている「師範」は2名だけ、一刀流の斎藤周平先生と、流派不明の槍術の衣笠暢蔵先生。 ほかに、「弓術世話」「鎗術取立」「砲術頭取」などの役職があったという。 泉藩本多家の直接の本家にあたる忠義家は、さんざん引っ越したあと、大和郡山で5代すごして跡継ぎがなくて絶えるのだが、郡山藩には一刀流はあった。 平八郎家の総本家、忠勝系は、これまた引越大名で、最終的に岡崎藩になったが、ここの家中に一刀流があったという話は聞いたことがない。
現在の状況 いわき市泉町の泉神社の境内に、「汲深館」という剣道場があり、現代剣道がおこなわれている。
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