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 平の内藤家の分家、しかし3代で移封、一刀流はあった

 陸奥 泉

 

 藩の名前

泉藩、陸奥泉藩、泉領。本多越中守など。

現在の大阪府南部を和泉国といい、岸和田藩と伯太藩があった。
おそらく「領地はイヅミ」というのは話がまぎらわしいはずで、当時は陸奥泉と呼称したのではないかと思うが、現在では、泉藩と表記されている資料がほとんど。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

内藤家は、譜代、城主格。2万石。

板倉家は、譜代、雁間詰、城主格。1万5千石。

本多家は、譜代、帝鑑間詰、城主格。
1万5千石。
寛政2年(1790年)4月?から2万石。
明治元年(1868年)12月7日から1万8千石。

ここの陣屋は、建物は陣屋だが、大名家の格式が城主なので、「泉城」と呼ぶ権利があった。

 

 位置と、土地の性格

陸奥国(磐城国)菊多郡の一部、その他。
現在の福島県いわき市
泉町付近。

本多家のとき、武蔵と上野に加増された計5千石の飛び地もあったが、これについては、直系御子孫の本多忠頼さんにも全然わからないのだという。

もともとが平藩とは別扱いにしておく土地、しかもほとんどの期間は本多家が藩主であり、平藩も内藤家ではなくなるので、元禄15年(1702年)以降の泉藩は、平藩の支藩という関係ではなくなっていた。
平藩に唯心一刀流があったからといって、泉藩にもあったという可能性は、少し低くなる。

 

 藩主と、藩の性格

  (三河内藤家(家長系)、磐城平藩御蔭料)

内藤政長侯は、磐城平藩に移封してくる前は、上総国で佐貫藩をやっていたが、この時すでに、長男の内藤忠興侯は、領内に1万石、自分の領地を持っていた。

そして、大坂の冬の陣が始まると、頼まれもしないのに兵を率いて駆けつけ、ぜひ手伝わせてくださいと交渉した。
死ぬかもしれない危ないことをわざわざしなくても、親の領地がいずれ黙ってても手に入るというのに。

当時はそういう威勢のいい武将がたくさんいて、いいとこ見せたいという若い暴走や、これで戦国の世は終わりだから稼げる時に稼がなきゃという打算もあって、必ずしも忠義だけとは限らないけれども、内藤家の場合は歴代とても忠臣だから、家康公は感激した。
それで忠興侯は参戦して、そのあと夏の陣にも参戦し、みずからの功績で領地を稼ぎ出した。

だから、内藤家が磐城平に入る時は、親7万・息子2万というもらい方になった。
忠興侯に2万石を分配してやれよ、という指示が付いた9万石。
親の七光りではなく、息子は息子で一人前という扱い。
ただし、この時は陪臣扱いであり、
藩として独立していたわけではなかったらしい。

  三河内藤家(政晴系)、3代

忠興侯は跡取り息子だから、親の7万石を相続。
自分の2万石のほうは、弟の
政晴君が相続した。
このことは政長侯の遺言だったという。

これで、この2万石の部分が藩として独立、泉藩がスタート。寛永11年(1634年)10月。

しかし政晴侯は病弱で、ハタチそこそこで亡くなる。
長男の
政親君が継いだ。
これは名君で、綱吉公にとても気に入られていたという。

その三男の政森君が継いだが、正室と、継室(後妻)が、あの柳沢吉保侯の娘と養女だったことから、ますます時流に乗る。
出世しすぎて、磐城平藩の支藩なんぞでは足りなくなってしまった。
上野安中へ栄転。元禄15年(1702年)7月。

このあと重税をしぼりすぎて、安中では一揆が起きたりした。吉保侯もすぐに失脚するが。

  三河板倉家(重形系)、2代

7月4日、上野安中にいた板倉重同侯が、入れ代わりで泉に入封、しかし1万5千石。

板倉家は京都所司代など幕府要職を歴任する家で、大名は4家あった。

この家は、本家に近い分家。のちに上野安中藩に定着するのだけれども。

長男の勝清君が継ぎ、延亨3年(1746年)、遠江相良へ移封。
この人も引越大名。のちに老中になる。

相良藩主時代には、分家の旗本7千石の板倉勝該殿が、江戸城のトイレで背後から勝清侯を刺し殺したと思ったら、じつは人違いで、家紋の似ていた熊本藩の細川宗孝侯を殺してしまった、なんてことがあった。

  三河本多家(忠以系)、7代

9月25日、遠江相良にいた本多忠如侯が入れ代わりで泉に入封、以後は本多家で明治に至る。

本多は栄えた家であり、大名だけで13家くらいあったが、改易させられた家も多かった。
泉藩の本多家は、最も主流の家の遠い分家。平八郎家の長男の三男の三男の家。

2代目の忠籌侯は側用人を勤め、老中として寛政の改革に活躍した。
この人のおかげで、泉藩は5千石加増された。

幕末には、いったん官軍に恭順したが、陸奥国だから位置的にどうしても奥羽同盟に加わってしまう。
陣屋を攻め落とされ、6代目の
忠紀侯は強制隠居、領地は2千石削られた。

泉藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月22日。

 

 江戸屋敷(本多家、文化年間)

  上屋敷
麻布市兵衛町、大手より21町。
『寛政11年(1799年)1月27日上屋敷辰の口屋敷を返上し麻布市兵衛町木下淡路守上屋敷に移る』(『本多忠籌侯伝』)

『東京時代MAP』では、麻布の『市兵エ町』、現在のスペイン大使館の位置に、かなり狭い土地で『本多』とだけ表示されているが、これのことか。北は阿部因幡守邸(上総佐貫藩)、東は道を挟んで酒井対馬守邸(旗本3千石)。南は道を挟んで本庄宮内少輔邸(美濃高富藩上屋敷)。西は道を挟んで大久保長門守邸(相模荻野山中藩上屋敷)。北西は御先手組。

  中屋敷
赤坂氷川台。氷川神社の北東側の裏。
北西は道を挟んで有馬勇五郎邸(旗本)。北東は道を挟んで柴田松之丞邸(旗本)。東は道を挟んで松平美濃守邸(福岡藩黒田家中屋敷)。南東は道を挟んで真田信濃守邸(信濃松代藩上屋敷)。南西は武家地。

  下屋敷
築地門跡前。このあたりには、近江膳所藩の屋敷しかないようだが…。

  下屋敷
一説には、現在の高輪三丁目、高輪プリンスホテルに、下屋敷があったというが、時期がわからない。

 

 藩校

一説には、泉藩本多家2代目の忠籌侯が、「善教舎」という藩校のようなものを設立。時期は不明。
江戸から学者を招いて講義させたという。

同5代目の忠徳侯のとき、華岡青州門下の小松精紀重喬という儒医が、毎月講義をおこない、藩主と藩士たちが聴講していた。

嘉永5年(1852年)9月、藩校「汲深館」設立。
これをもって泉藩の藩校の始まりとするらしい。
衣笠真という藩士に命じて設立させた。
汲深はもともと忠徳侯の書斎の名前で、由来はわからないが、蘇軾の漢詩の『自ら釣石に臨んで深清を汲む』か、そのたぐいの意味だと思われる。
願い出れば領民も入学できたという。

明治3年(1870年)、教科拡張。
算学舎」、「作字舎」、「医学舎」を設置。
ほかに「
兵学舎」というのもあり、剣やラッパが教授されたという。

『学校の経費は明治三年(一八七〇)までは藩の経費でまかなっていたが、その詳細は明らかでない。』『明治三年以後は一ヶ年玄米二二七石五斗を経費の定額とした。』(『藩史大事典』)

明治4年(1871年)11月、廃校。
ということは、版籍奉還はもちろん廃藩置県の後も、学校を運営していたことになる。

現在は、「善教舎」は地元の学習塾の名前に流用されている。
一説には、善教舎空手教室というのがあるらしい。

「汲深館」は、地元の剣道場と、そこを本拠とする現代剣道の団体に、名前が流用されている。

 

 唯心一刀流継承者???

泉藩本多家には「一刀流」が採用されていた。斎藤周平先生。
どの一刀流なのか不明。

となりの磐城平藩に唯心一刀流があって、藩校の交流もあったのだから、なんらかの接触は絶対にあったと思うのだが。

 

 他の剣術の主なところ

文久2年『分限帳』に記載されている「師範」は2名だけ、一刀流の斎藤周平先生と、流派不明の槍術の衣笠暢蔵先生。

ほかに、「弓術世話」「鎗術取立」「砲術頭取」などの役職があったという。
おそらく種目ごとに師範の呼び方が違い、いずれも少なからず指導者だったのではあるまいか。

泉藩本多家の直接の本家にあたる忠義家は、さんざん引っ越したあと、大和郡山で5代すごして跡継ぎがなくて絶えるのだが、郡山藩には一刀流はあった。
しかし、これも、ただ単に「一刀流」ということしかわからない。

平八郎家の総本家、忠勝系は、これまた引越大名で、最終的に岡崎藩になったが、ここの家中に一刀流があったという話は聞いたことがない。
岡崎藩校で教えていた剣術は、武蔵流と東軍流で、これ以外に岡崎の剣術はわからない。

 

 現在の状況

いわき市泉町の泉神社の境内に、汲深館」という剣道場があり、現代剣道がおこなわれている。
館長は水野良信先生。

 

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