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 中山先生の系統が、指南役を務めてらっしゃった

 陸奥 磐城平

 

 藩の名前

平藩、磐城平藩、磐城藩、陸奥磐城藩、奥州磐城藩。内藤右近将監、安藤対馬守など。
岩城平藩、岩城藩という表記も見かけるが(綿谷先生もときどき、こう書いておられる)、これは江戸時代には厳密には誤記。

平は、古くは飯野平と呼ばれたという。
松本平、佐久平などと同じで、平野の意だと思う。

文学博士の笠谷和比古先生の著書では「いわきいら」とルビを振っておられ、また、萬屋版『子連れ狼』劇中では江戸の人間も磐城の人間も「いわきだいら」と発言していた。
もしかすると江戸時代にはそうなのかもしれないが。

現在、現地では、みなさん「いわき・いら」とおっしゃっている。
「陸奥の国の、磐城平」というより、「陸奥の国のうちの、磐城の国の、平」という感覚らしい(陸奥国は広すぎるので)。
後述するが、福島県は決して一枚板ではなく文化の多様性に富んでおり、福島といわきは別という意識もあって、いわば「いわき県の、平地区」。

というか、「平」という地名なのである。
「市町村合併でいわき市になる前に、平市だった部分」を、平と言っている。
にっさァどっから来た? 近場だっぺぇ? タイラか、そうゲー、というような会話がおこなわれている。

「いわき市のいわき」と「いわき市の平」もまた別であり、前者は小名浜のことで、後者が狭義の平である。
小名浜も平も実際に現地を見てきたが、御台場と池袋くらいに性格が違う。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

鳥居家は、譜代、帝鑑間詰、城主。
10万石、慶長10年(1605年)2月加増され12万石。

内藤家は、譜代、帝鑑間詰、城主。本藩だけで7万石。

井上家は、譜代、雁間詰、城主。6万石。
3万7千石だったという珍説もあるらしいが、根拠不明。

安藤家は、譜代、雁間詰(信正侯は老中辞職後は溜間詰)、城主。
最初は
5万石
信成侯のとき、美濃の旧領1万7200石だか1万8000石だかを加増されたという説もあるが、どうやら加増ではなく領地替えであり、5万石のまま。

信正侯のとき、外国御用取扱を勤めた功績だか、老中在職中の功績だかで、文久元年(1861年)3月21日に1万石加増という珍説があるが、『藩史大事典』では平藩安藤家が5万石以上に増えたことは一度もない。

信正侯は失脚して、文久2年(1862年)8月16日に謹慎、藩主をやめ家督を譲って隠居、この時に平藩は4万石になる。
『日本歴史人名辭典』では『封二萬石を削られ、』としているが日付の記載がない。
『藩史大事典』では『三河国・遠江国一万石上知』、『四〇〇〇〇』とあり、1万石しか没収されていない。

信民侯のとき、文久2年(1862年)9月1日から、なぜか5万石に戻る。
もしかして信正侯1万石加増というのは、これのことかと思いきや、しかし8月16日に藩主は交代しているのである。

11月24日からは
3万石
もしかして信正侯2万石減というのは、これのことかと思いきや、しかし8月16(以下同)。

信勇侯のとき、新政府に刃向かった罰として、明治元年(1868年)領地没収、0石?
同年または明治2年(1869年)、陸中国磐井郡に
3万4千石を下賜された?
明治3年、信勇侯が嘆願して、磐城平
3万石と交換してもらった?(8月19日、平藩知事に就任)。

いったん磐城平を手放して、磐井郡を領有して、それから、ふたたび磐城平の藩主になったということ?

『藩史大事典』では、信勇侯はずっと磐城平3万石のままだったように書いてある。
明治元年(1868年)12月、『陸中磐井郡三万四〇〇〇石へ移封を命ぜられるも、信勇の嘆願により中止。』(『藩史大事典』)。
磐井は、現在の宮城県一関市付近。
維新のドサクサの時のことだから、手続き上はどうなっていたのか、よくわからない。

『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』によれば、
『戦後、陸中に
転封されることが一時決まったが、信勇の工作で七万両の償金をもって転封を免れた。
とある。

たとえば三根山藩の場合も、発令されちゃってるわけで、記録上では「正式に移封を命じた」、しかも、それを受け取っちゃってるのだが、嘆願したら移封しなくてすんだという、結果としては移封してないっていう。

ただでさえ非常事態で特例な幕末に、蟄居とか隠居とか名ばかりで信正侯が実質的に藩を指揮し続けていたので、話の対象となる藩主が誰をさしているのか、足し算・引き算の元の数字がどのくらいなのか、情報がごちゃごちゃしている様子。

この石高の変遷について、『藩史大事典』が根拠としている出典は、次のとおり。
明治大学所蔵「内藤家文書」、『寛政重修諸家譜』、『徳川実紀』、『いわき市史』第二巻、『諸侯年表』、『新編物語藩史』第二巻。

 

 位置と、土地の性格

陸奥国磐城郡・磐前郡・菊多郡、時期によってはその他。

内藤家が支藩を作ったり左遷されたり、小名浜などが幕府領になったりで、藩の境界線がとても複雑だった。

鳥居家、内藤家の時は、陸奥国楢葉郡・磐城郡・磐前郡・菊多郡。
鳥居家は途中で加増されているが、これも菊多郡内。

井上正経侯の時は、陸奥国磐城郡・磐前郡・菊多郡のほか、陸奥国伊達郡梁川に3万石、常陸国多賀郡に7000石があり、梁川陣屋を置いていた。

安藤信成侯の時は、陸奥国磐城郡・磐前郡・菊多郡のほか、陸奥国伊達郡梁川に2万7千石。
安永7年(1778年)2月17日、梁川領を、陸奥国磐城郡・磐前郡・
田村郡、常陸国笠間と所替え。笠間領は笠間陣屋で支配。
寛政2年(1790年)6月9日、笠間領をふたたび伊達郡梁川と交換。
亨和3年(1803年)11月8日、梁川領を、三河国宝飯郡・額田郡・設楽郡、
美濃国方県郡・厚見郡・本巣郡・羽栗郡という飛び地に交換。
美濃領は、厚見郡切通村の長森城跡地に陣屋を置いていたが、これは、11月に加増されて合計32ヶ村、1万7200石だか1万7200石だか1万8000石だかを手に入れたという説と、12月に伊達郡梁川のうち2万2500石を移したという説がある。
以後しばらく、安藤家は、この領地で固定になる。

安藤信正侯の時、文久元年(1861年)3月21日からは、陸奥国磐前郡・菊多郡、三河国額田郡・設楽郡、美濃国方県郡・厚見郡・本巣郡。
8月15日からは、陸奥国磐前郡・菊多郡、三河国宝飯郡・八名郡、遠江国山名郡・敷知郡、美濃国羽栗郡・席田郡・土岐郡・可児郡・多芸郡。
文久2年(1862年)8月16日、三河国と遠江国の領地1万石を没収される。ここで初めて、平藩安藤家は、石高も変更になる。

安藤信民侯の時、文久2年(1862年)9月1日、ふたたび5万石になり、陸奥国磐城郡・磐前郡・菊多郡・白川郡、美濃国羽栗郡・席田郡・土岐郡・可児郡・多芸郡。
11月24日、3万石になり、陸奥国磐城郡・磐前郡・菊多郡、美濃国羽栗郡・席田郡・土岐郡・可児郡・多芸郡。

安藤信勇侯の時、慶應4年(1868年)2月4日、恭順しなくてけしからんとの理由で、美濃領は、官軍(大垣藩兵、尾張藩兵)に接収されたが、占領しただけなのか領地没収なのか、よくわからない。
陸中国磐井郡の話は前述。

とにかく磐城平藩は、笠間藩とも大垣藩とも、接触する機会があった。

平は、現在の福島県いわき市付近。県の南東部、日本海側。浜通り南部。

福島県では、阿武隈山脈と奥羽山脈を境界にして、浜通り、中通り、会津地方、という言い方で県下を縦3分割している(天気予報もこの言い方)。
横のつながりが希薄で、現在でも、山のむこうの福島や郡山よりも、水戸のほうが交通の便も体感的にも近い。

東北といっても、いわきは位置的にも文化的にも関東寄りであり、方言も食べ物も、テレビやラジオの電波の入り具合も、まったく関東地方の影響下にあり、太平洋側の海沿いだから気侯も温暖で雪もあんまり降らない。

いわき市は、面積・人口とも県内最大、ひところは面積日本一の市だった。
そもそも、イワキと呼ばれる地域自体が広いので、一時期は常陸国に分類された部分があったり、陸奥国というのも広いので、石城国とか磐城国というのを新設したこともあった。

都内から鉄道で行くなら、上野から常磐線の特急。
スーパーひたちでもフレッシュひたちでも、泉駅・湯本駅・いわき駅に停まる。
というか、震災の影響で、いわきまでしか行かない列車になってしまった。
常磐線の特急は4両編成だったり11両編成だったりするので、予想していた位置に列車が停まらず、並んでいた誰もが一斉に列車を追いかけてホームを走ることが多い(笑)

いわき市は道路が広くて綺麗でガラガラなので、自動車やバイクで常磐自動車道を行くほうが、(行くまでは面倒だが、行ってから、あちこち回るのは)ラク。行き帰りに、水戸や笠間に寄り道も自由自在。
もっとも、いわきや泉にはレンタカーもある。

貝焼(よく聞くと、かいやぎと発音されている)がオススメ。
ガゼ(紫ウニ)をホッキ貝に乗せ、石を敷いた鍋の中で蒸し焼きにしたもの。原発事故以降は、地元産ではないウニを使っているという…。

 

 藩主と、藩の性格

  陸奥岩城家、代々

この土地は平安時代から岩城氏が領有していたが、佐竹氏や伊達氏と対立や政略結婚を繰り返しつつ衰退し、岩城家は佐竹家の分家のようになっていた。
常陸下妻の多賀谷家、常陸江戸崎の蘆名家、陸奥牛越の相馬家、下野山川の山川家などと共に、
佐竹家の傘下というか与力のひとつだったのである。

猿の小田原祭には参陣したので、豊臣政権下では12万石を安堵されていた。

しかし関ヶ原の時は、佐竹家が徳川家に味方しなかったので、子分の大名たちも同じ行動をとる。
当時の当主、
岩城貞隆侯は、佐竹義宣侯の実弟だった。

戦後、佐竹家は減転封で勘弁してもらえたが、子分の大名たちはみんな改易されて苦労することになる。
岩城家も、ひとまず取り潰された。慶長7年(1602年)。

このあと、御家再興を運動して、本多正信侯の家臣になり、大坂夏の陣で功績を上げ、信濃中村1万石を与えられ大名に復活し、佐竹家の近くにしてほしいと嘆願して、「親びん出歯亀」こと出羽亀田藩になる。
岩城一族の一部は、なんと紀伊に移住して白浜を開拓したという。パンダの大恩人である。

  三河鳥居家

慶長7年(1602年)6月、東北の外様を監視する役目として、鳥居忠政侯の領地になる。
岩城氏の影響力を消すため、岩城を磐城に地名変更した。

この人は「血天井」元忠公の、お子さん。
つまり、関ヶ原の時に一番損な役目を引き受けて死んだ忠臣の、忘れ形見だから、家康公は恩にきて親の分まで優遇していた。
慶長10年(1605年)2月、菊多郡2万石を加増。
元和8年(1622年)、最上家が御家騒動で潰れたので、ガラ空きになった出羽山形へ移封。22万石への大栄転。
譜代で、こんだけもらう人は稀。
刺し違えてでも東北の外様を食い止める役目なのである。

しかし鳥居家は、このあと跡継ぎがなくて改易になり、再興したが、バカ殿だったため医者に斬られて死んだり、ホモだったため美男子の住居を覗き見して自殺したりで、かなりドタバタがある。

  三河内藤家(家長系)、6代

9月、内藤政長侯の領地になり、以後、内藤家がしばらく続く。
この人も、死ぬとわかりきってる伏見城で副将を勤めて死んだ「無双の弓手」家長侯の、お子さん。

かつて家康公が浄土真宗の武装蜂起に手こずった時、内藤家は家康公を裏切って、一向一揆に参加しちゃったのだが、家長侯は父親と縁を切り、信仰を投げ捨て、家康公のために忠義を尽くし、逆に一揆を鎮圧するほうで活躍した。

しかも政長侯の生母は、松平忠長公の娘という、里見浩太朗さんもびっくりの良い血筋。

政長侯には娘が多く、いろんな大名に嫁がせている。
会津の保科正之侯の正室、今治の松平定房侯の正室、窪田の土方雄重侯の正室は、政長侯の娘さん。
あの保科正之侯のお義父さんともなれば、かなりいい顔のはず。

ところが、俳句をひねりすぎて、自分の首までひねってしまう。
3代目の
義概侯の頃から、俳諧大名と呼ばれるくらいに歴代とても俳句にハマり、政治なんて俗世間なことはほっぽり出してしまい(そういう世捨て人っぽいところがワビサビなのだが)、芭蕉先生には絶賛されたが、悪家老が好き放題にして、藩主暗殺未遂もあった。

財政破綻、洪水、重税、飢饉で、大規模な一揆が藩内全域で発生、打ち壊されて手がつけられなくなる。

6代目の政樹侯のとき、延亨4年(1747年)、日向延岡へ左遷。
左遷の距離としては江戸時代の最長記録だという。
日向延岡は、今の宮崎県の北部。日本最南端の譜代藩。
九州の外様が反乱を起こせば、真っ先に袋叩きにされる捨駒であり、どうでもいい藩として、左遷大名の捨て場所になっていた。
秀吉公や家康公にとって憧れの英雄的存在だった信長公を、ぶっ殺した裏切り者が、日向守だったから、以来、武士にとって日向守はみっともない名前であり、たとえ肩書だけでも、日向守なんて誰もなりたがらなかった。
ましてや、実際に宮崎県知事になるなんて。延岡は見た目よりもはるかに実高が低い貧乏藩なのである。

 

  三河井上家

先に左遷されていた牧野家は、延岡から笠間へ。
笠間にいた
井上正経侯が平へ、延亨4年(1747年)3月19日。
『諸国城主記』では、正経ではなく『正賢改め利容』となっている。
いわゆる「三方、所替え」と呼ばれる、三つ巴の領地交換。

しかし正経侯は10年たらずで、すぐ異動。
途中からは寺社奉行をやっていたので、藩政に力を入れるヒマもなかったと思われる。

宝暦6年(1756年)5月7日、大坂城代に出世したことから、16日、遠江浜松へ栄転。
この人はこのあと、京都所司代、老中へと、エリートコースを出世する。

 

  三河安藤家(重信系)、7代

21日、美濃加納から安藤信成侯が入封。『諸国城主記』では信明。安藤家は改名が多い。

以後、安藤家の統治で明治に至る。

安藤といえば老中を勤める家だったが、先代がバカ殿だったため、息子までとばっちりを受け、左遷されて磐城平に来た。
ここから挽回する。ふたたび、優れた老中を輩出するのである。
信成侯は名君で、老中在任中の功績により、美濃の旧領のうち1万7千石(一説には1万8千石)を取り戻した。これが加増なのかどうかは前述。

そして、磐城平に来て5代目が、あの安藤信正侯。信睦、信行、信正と改名しているが。
井伊直弼侯なき後の幕府側の最大の政治家、公武合体計画の中心人物である。
しかし幕末に老中首座なんかやっていれば、優秀な人ほど政争に巻き込まれてしまうもので、いろいろと叩かれて引退、1万石減封になる。
幕府としては、天皇の妹さんを嫁にもらって、朝廷との結びつきを強めることによって、必ずしも倒幕しなくても尊王はできますから挙国一致で国難にあたりましょうや、ということであり、攘夷するにしても今ある徳川幕府の実効力は有用なのだから、この時は孝明天皇も岩倉具視も公武合体で納得していたし、絶対イヤと言いはっていた和宮様も(絶対、替玉なんだろうけど)一転して承知したので、この政略結婚は成功したのだが、尊王の人から見れば、てめえの失政で国を危うくしておきながら恐れ多くも天皇家を利用して権威回復をはかろうなんて無礼でずうずうしいとかで、かえって幕府は評判を落としてしまった。
アンディ・フグさんが白血病を隠して戦ってらっしゃった時、マスコミやファンや対戦相手が、「軽くシメて三枚におろして薄くそぎ切り」、「ポン酢につけて1ラウンドで食ってやる」とかなんとか、名前をネタに揶揄することが多かった。
安藤信正侯の場合は、過激でキチガ◯な水戸の攘夷派から、「安公を吊るし切り」とか言われ(平潟では鮟鱇の底曵網漁が盛ん。鮟鱇はブヨブヨしているので俎板に乗せずに吊るしてさばく)、実際に暗殺未遂事件が起きて信正侯は負傷している。
登城の途中、江戸城坂下門外にさしかかったところを襲撃され、駕篭の外から刀を突き刺されたのが背中に当たって軽傷、駕篭を降りて江戸城に駆け込んでのがれたという。
背中に負傷するとか、敵前逃亡したとかいうのは、老中以前に武士としてみっともないとされ、失脚の理由のひとつになった。
せっかく暗殺は未遂ですんだのに(警護の家臣たちにも死者は出なかった)、この優秀な老中を罷免・隠居・蟄居させたため、幕府は一気に滅亡の道を辿る。
幕府をまとめられる人は、あとはもう関宿の久世広周侯しかないが、それもまた、この時期に罷免・蟄居・隠居している。

信正侯が隠居すると、信民君が6代目藩主になって、なぜか5万石に戻るが、3か月ほどで3万石になる。
藩主になって1年ほどで亡くなる。まだ5歳くらい。

岩村田藩から養子をもらって7代目藩主に据えたが(信勇侯)、これもまだ14歳くらいであり、結局は蟄居謹慎隠居の信正侯がそのまま藩内の指揮を取り続けた。

平藩は、官軍と戦った。
もともと奥州の外様に対する前線基地として整備しておいた磐城平城に、東北の人々が立てこもって、倒幕勢力と戦うという、おかしな格好。
家老の上坂助太夫殿が敗走時に放火し、平城は落ちた。

陸中磐井郡の話は前述。

磐城平藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)8月19日。

 

 江戸屋敷

  内藤家
上中下どれかはわからないが、延宝4年(1678年)に類焼して、12000両借金している。
この年の11〜12月に、江戸ではいくつか大火があったが、どれのことだか不明。
文化6年(1809年)、安政2年(1855年)、同5年(1858年)にも、屋敷の焼失があったらしい。
   
上屋敷
虎の門。現在の霞ヶ関三丁目、中央合同庁舎7号館(文化庁、文科省)のあたり。延岡転封後も、屋敷はここ。
北は三年坂を挟んで、水野某邸、高木主水正邸、松平伯耆守邸(丹後宮津藩上屋敷)。東は村瀬平四郎邸。南は濠を挟んで本多肥後守邸(播磨山崎藩上屋敷?)、谷主計邸、鍋島肥前守邸(肥前佐賀藩中屋敷)。西は小倉太郎助邸。

なお、三年坂という坂は江戸に6か所あり、京都清水寺のそばにもあるが、「転ぶと三年以内に死ぬ」ということになっている。もともと、寺の境内で転んだら、ただちに土を3回なめないと死ぬという俗説から来ているというが、勲章をもらうと急死するのと同じで、そんなことではもう年寄りだということらしい。
内藤家の没落もだが、使い込みがバレた官僚か何かが、今もこのへんで転んでいるのかもしれない。

   
下屋敷
『藩史大事典』は、これを中屋敷だとする。

麻布六本木。現在の六本木交差点の東側付近全部。
北は滝川主殿邸(旗本)、有馬某邸、一柳出羽守邸(添屋敷)。北東は諏訪靫屓邸(ママ。靫負の誤記か)、松平寛之助邸、湖雲寺。東は大御番組。南東は道を挟んで浄円寺、栄岸寺。南は町屋。南西は道と門前町を挟んで正信寺と光専寺。北西は坪内源五郎邸(旗本)、花房志摩守(旗本)。
   
抱屋敷
渋谷。現在の渋谷区鴬谷町。
『藩史大事典』は、これを中屋敷だとする。
   
抱屋敷
現在の両国駅のそばにも抱屋敷があったらしい。

  井上家
上屋敷、愛宕下。下屋敷、大久保4丁目。
幕末には、井上家の上屋敷は蛎殻町二丁目にあった様子。

  安藤家
   
上屋敷
浜町。おそらく日本橋浜町三丁目。もしかすると堀田備中守邸を、交換したか?
   
中屋敷
牡蠣殻町(ママ)。
北は稲荷神社と酒井雅楽頭邸(播磨姫路藩中屋敷)。東も道と濠を挟んで酒井雅楽頭邸。南は尾張殿。西は町屋。
『東京時代MAP』ではあまりにも小さい面積なので疑問が残る。
   
下屋敷
大塚。
   
下屋敷
現在の墨田区亀沢一丁目にも下屋敷があったらしい。

 

 藩校

施政堂」。
設立時期は不明、宝暦6年(1756年)安藤家が入ったと同時に開校したらしい。
八幡小路という所にあった。かなり朱子学寄りだったらしい。
試験に受かれば他藩からも入学を許したという。

安政年間からは、武術を兼修
もともと漢籍の素読と、書道の学校だったが、その後も基本的に漢学中心だったようで、どのくらい武術に力を入れていたものか。

磐城では藩校の交流ということがとても盛んで、平藩を中心に周囲の藩が連携していて、共同の講義もあったというから、藩校で採用していた武術に関しては、出稽古や親善試合をやった可能性も全く無いとは限らない。
どうせこのあと東北の人みんなで明治政府を敵に回すのだから、一蓮托生ではある。
しかし、平藩の周囲の藩に唯心一刀流があったという話は聞かない。

明治2年(1869年)、「佑賢堂」と改称、領民の入学を許可。

明治4年(1871年)、廃校。

 

 唯心一刀流継承者

中山八左衛門正方先生。
景正先生のお弟子さんで、安藤家の家臣。

正方先生のお子さんは、中山八左衛門正元先生。
奥様は、赤穂浪士のひとり間光延先生の娘(長女?)。

『喜兵衛の聟中山八左術
(原文ママ)門正元は安藤家の士、八左衛門正方の子で法名達心斎といつ(原文ママ、以下同)た。父に学び唯心一刀流(杉浦一刀流)剣術、竹内流捕手の師範となり、又同家士渡辺次郎左衛門房貫より印西派弓術を伝えて師範となつた人物である。』
『喜兵衛に二女あり、長女は老中秋元但馬守喬朝の家臣中堂又助の妻となつて一男あり、(略) この項の初にある中山八左衛門正元の妻は恐らく長女であろう。中山正元は中堂又助の後名か或は長女が再嫁したものか不明である』
(山田忠史先生校註『剣術系図』)

老中秋元但馬というと、秋元喬知侯。甲斐谷村のちに武蔵川越の藩主。
秋元富朝侯の娘が戸田忠昌侯に嫁いで産んだ長男だったが、男児のない富朝侯の養子になったという人(忠昌侯の跡は次男が継いだ)。
川越藩も藩主家がたびたび代わったが、川越藩の剣は、公式には神道無念流・直心影流・無敵流など、非公式には神道無念流(のち公式化)・神道通神流・通神流・無外流など、前橋移転後は新流(鐘捲外他流・安光流・当流・今井景流・神道無念流の統合)であり、唯心一刀流の痕跡は全くない。

秋元家は、代々名君が多く、のちに徳山藩毛利家に嫁を送り出したり、養子をもらったりもしている。

戸田忠昌侯は三河田原、肥後富岡、武蔵岩槻、下総佐倉と転封になった大名。これまた名君、この人も老中。
赤穂浪士のうち、仇討急進派だったにもかかわらず脱落した高田郡兵衛殿は、そもそも
赤穂藩浅野家に仕えたきっかけは、忠昌侯に世話してもらって仕官したのだという。

中堂又助殿というのが、正元先生と同一人物なのかどうか…。
光延先生の次男、光風先生は、赤穂藩の舟奉行の里村津右衛門殿の養子になったが、養父と折り合いが悪く、出奔して浪人になり、中堂又助殿に嫁いだ姉を頼って、江戸へ向かっている。
喬知公は奏者番、兼・寺社奉行、若年寄、老中と歴任していて、ずっと江戸にいるから、中堂又助殿も江戸詰だったのかもしれない。 
正方先生にお子さんが何人いらしたか不明だが、正元先生以外の息子がいたという話は見かけないから、正方先生が平藩士なら、正元先生も普通は平藩士だろうと思う。

正方先生のお弟子さんは、ほかに、長瀬市郎兵衛喬秀先生、榊原七郎兵衛先生がいらっしゃるが、この方々も平藩?

ほかに、景正先生のお弟子さんのひとり杉浦三右衛門正備先生『安藤家に仕。』(『唯心一刀流太刀之巻』)。

景正先生が「安藤家の臣」かどうかという話は、景正先生のページ。

 

 他の剣術の主なところ

  小野派一刀流
「小野派と名乗っている中西派」という可能性も無いとは限らないが。

  電撃流
加納藩のページに書いた。

ほかに「片山伯耆流」もあったようだが、これは伯耆流(居合だけ)のようであり、片山流剣術はなかったらしい。

なお、延岡藩内藤家に採用されていた剣術は、新陰流(柳生系)、無敵流(林崎夢想本心無敵流宮崎伝)の剣術部門、一説には新當流も。
そのほか延岡には北辰一刀流も入っていたが、藩には採用されていなかった様子。
『藩史大事典』では、延岡藩内藤家の剣術師範として、片岡清右衛門先生、本吉太郎右衛門先生、小野万右衛門先生の名をあげ、出典は内藤政恒『内藤政擧伝』としている。

 

 現在の状況

じつは住んでいたことがあるのですが(笑)、唯心一刀流の手がかりは見かけません。
剣術以外の武術では、目を見張るようなすごいものがあるのですが。

福島県出身の友人2名(いずれも、おとなしい人、うち1人は大東流)に、情報持ってないかと聞いたところ、「磐城は福島じゃないよ?」「わかってるだろうけど会津も福島じゃないから!」などと、大変にお叱りを受けました。
2人別々に聞いたのに、2人とも同じ反応。
福島県のことを福島と言ったのが、気に入らなかったらしい(福島藩は福島県のごく一部だから)。

唐津の人に『エスエージーエー佐賀〜』のギャグをやると、「オレたちは佐賀ではない! 一緒にするな!」って必ず言う、というようなことを甲斐よしひろさんがおっしゃっている。

しかし、これなら、古い伝統が豊富に残っていそうなものだと思うんですが。

福島県に関しては、俺は楽観してます。
情報が残りやすい雰囲気があるというか…、いずれ、なにか見つけられると思う。

平藩安藤家の藩士の御子孫たちの集まり「平安会という団体があるそうです。

 

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