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 唯心一刀流があったことはあったらしいのだが…

 下野 喜連川

 

 藩の名前

喜連川藩、下野喜連川藩。喜連川左馬頭、御所など。
れがわ、と濁らずに読む。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

外様、無席、国主格。高無。

実際には、頼氏侯・尊信侯は大廊下詰、昭氏侯・氏春侯は大広間詰、茂氏侯は柳間詰。

実際は5千石ほど。
一説には6500石とか6700石とか言うが、これは実高らしい。

天正18年(1590年)12月2日、『古河において三〇〇石余、喜連川において三〇〇〇石余を宛行われる。』(『藩史大事典』)
『寛政重修諸家譜』、『日本歴史人名辭典』では、3500石。

文禄2年(1593年)6月、『古河領三〇〇石余は国朝の子義親が相続。』(『藩史大事典』)

慶長4年(1599年)3月10日、頼氏侯の采地のうち200石を島子さんに分与。(『寛政重修諸家譜』、『三百藩藩主人名事典』)

慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦勝に祝いの使者を立てたことの返礼だとかで、1000石加増。
『藩史大事典』では、この時は陸奥国高貫郷の土地だったとする。
『寛政重修諸家譜』、『藩と城下町の事典』では、下野国芳賀郡内。
『三百藩藩主人名事典』では、下野国芳賀郡高根沢村・七井村。

元和8年(1622年)、『下野国芳賀郡高根沢村・七井村の地と陸奥国高貫郷が交換となる。』(『藩史大事典』)

下総古河に飛び地330石があり、ここに古河公方館があって、これが本宅で、妻子や兄弟はこっちに住んでいたが。
寛永7年(1630年)、『古河領は上知となり、幕領に編入された。』(『藩史大事典』)

寛政元年(1789年)、500石加増?

『日本系譜綜覽』は、縄氏侯を1万石としているが、根拠不明。

聡氏侯が当主になった明治2年時点で、塩谷郡14ケ村、那須郡37ケ村、芳賀郡13ケ村、6925石(『三百藩藩主人名事典』)。

喜連川には、塩谷氏の居城「倉ヶ崎城」があったので、これが、いわば「喜連川城」だが、いつ廃城になったかというと、どうやら、明治3年らしいのだ。
つまり、江戸時代における喜連川家は、国主に相当する御身分なので、陣屋だろうが犬小屋だろうが「これは城!」と公称する権利があった。

現在は、「喜連川城」(という名前の温泉施設)があるという。

 

 位置と、土地の性格

下野国塩谷郡喜連川。喜連川宿、那須郡14ヶ村、芳賀郡2ヶ村。飛び地は前述。

現在の栃木県さくら市喜連川周辺。

「どこにあるのか誰も知らない県」、「日本一影の薄い県」、「名物が思い浮かばない県」、「県の輪郭をイメージしにくい県」、「暴走族から見て、最もダサい県」、「御当地パワー日本最低」、「地域ブランド全国最下位」とか言われている栃木県の、中東部に位置する。宇都宮よりも北。
栃木県の名誉のために言うが、俺は小学生の頃から、栃木県の位置も形も把握している!
厚紙で都道府県の形の、日本地図のパズルがあったのだ。

かつては喜連川町と言ったが、市町村合併し、小学生が名付けて「さくら市」になった。
桜の名所だという。
千葉県佐倉市と区別するためにひらがなにしたのだろうけれども、幼稚園の組のような名前だとか、桜が美しい地域は全国に無数にあるものを、ほかに自慢できるものが何も無いのかとか言われて、「新しい地名の典型的な失敗例」として引き合いに出され、とてもひどい扱いを受けている。

俺が子どもの頃、学生服のボタンを自分の学校のボタンに付け替えずに着用することを、「桜市立桜中学校」と呼び、どこの生徒だかわからない、うさん臭いことであるとされていた。
また、金八先生の職場が桜中学であることから、架空の仮名として「桜中学の太郎君と花子さんが…」などという例文がよくあった。
これらが全国的な風習かどうかわからないが。

ほかでもない、実際にそこに住んでらっしゃるみなさんが、それでいいと判断なさって、御自分たちでお決めになったことだから、なんら問題ないし、それが地方分権とか自治だと思う。
歴史は、これからも未来永劫、作っていける。
それよりも、平成21年度時点で財政赤字248億とかで、あいかわらず貧乏らしくて、こっちのほうが問題である。

温泉、ゴルフ場、別荘地など、わりと派手なことも財源にしている様子。
ニッカウィスキーの熟成倉庫があるが見学はできない。

 

 藩主と、藩の性格

  堀江塩谷家、5代

源義家公の子、義親公は、勇猛な武将ではあったが、たびたび強盗殺人をやらかした。
大治5年(1130年)、義親公の庶子の
堀江頼純侯も、とばっちりで下野国へ流刑になり、塩谷荘に土着して塩谷を名乗る。
これが
塩谷氏の本家。

5代目の朝義侯には子がなく、養子を入れた。宇都宮成綱侯の子、朝業侯。
朝業侯の時に、川崎城(塩谷城)を構えて本拠にした。

宇都宮氏の血筋になったということは、宍戸氏や笠間氏と同族ということ。
宇都宮家2代目の八田宗綱侯の子孫が、宍戸氏。
朝業侯の息子のひとりが、笠間時朝侯。

紆余曲折あったが、文禄4年(1595年)2月8日に秀吉公に改易されるまで、この家は、この地で続く。

  喜連川塩谷家、4代

塩谷家は、もうひとつある。分家の塩谷。
塩谷家2代目の惟純侯の次男、
塩谷惟広侯は、別家を興して喜連川を本拠にする。
福原一ノ谷や讃岐屋島に参戦し、塩谷郷に3千町の領地を持っていた。
文治2年(1186年)、倉ヶ崎城(大蔵ヶ崎城)を築いた。これが、
喜連川城の始まりだという。

鎌倉幕府が始まると、源氏はすぐに終わり、執権北条氏が政敵を次々に抹殺して権力を独占するが、和田氏を排除する時、喜連川塩谷家2代目の惟守侯は和田氏側に味方してしまい、討ち死に。
これで喜連川塩谷家は、鎌倉幕府から嫌われ、没落する。

子がなかったので、弟(三男)の惟義侯が継ぎ、その子の惟縄侯が継いだが、またもや子がなく、本家から養子を入れた。
これで、この家も宇都宮氏の血筋になる。

  宇都宮喜連川塩谷家、代々

塩谷家の本家が宇都宮氏の血筋になってから3代目の当主が泰朝侯で、その息子の朝宗君が、喜連川塩谷家に養子に入った。塩谷忠朝侯。

下野国では、南部の宇都宮氏と、北部の那須氏が、ず〜〜っと対立していた。
宇都宮家内部にも対立があり、鎌倉公方や佐竹氏に応援を頼んで、ごちゃごちゃ戦っていた。

塩谷本家は、血筋が宇都宮だから、宇都宮家に味方していたが、13代目の教綱侯は宇都宮家当主の持綱侯を暗殺し、仕返しに暗殺される。
宇都宮家と塩谷本家は和睦して、宇都宮家から塩谷本家へ、もう一度、養子を入れた。孝綱侯。

喜連川塩谷家は、位置的に那須寄りであり、塩谷本家と仲が良くなかったこともあって、那須家に味方していた。
子がなくて絶えたので、もう一度、塩谷本家から養子を入れた。孝綱侯の子、
孝信侯。しかし那須家の重臣の娘を嫁にしていた。

永禄7年(1564年)10月7日、孝信侯は塩谷本家を奇襲、当主(実兄)の義孝侯を殺して、川崎城を占拠。
永禄9年(1566年)、義孝侯の息子の義綱侯が、宇都宮家と佐竹家の協力で、川崎城を取り返す。

塩谷本家は、義綱侯が継いだが、秀吉公に改易される。
喜連川塩谷家は、当主が逃げて行方をくらましてしまったため。

孝信侯の子の惟久侯というのが腰抜けで、秀吉公に敵対も臣従もしなかった。
天正18年(1590年)の秀吉公の小田原征伐の時、参陣しなかったので、処罰を恐れたとか。
秀吉公の軍勢が来ると知っただけで、びっくりして、怖くなったとか。
とにかく、自分だけ逃げ出してしまった。

  (孝行料、豊臣家)

塩谷惟久侯の正室の島子さんが、なさけない夫に代わって弁解の使者に立ったんだか、夫に置き去りにされて途方に暮れたんだかして、とにかく秀吉公に面会。

家柄も良くて美人だったので気に入られ、猿専用ハーレムに採用、喜連川3500石が与えられた。
『天正十八年太閤關東下向のとき、宇都宮城にをいて親を養ふ料として下野國鹽谷郡喜連川にをいて三千五百石を賜ふ。』(『寛政重修諸家譜』)

  鎌倉公方喜連川家

ところで、室町幕府は鎌倉幕府の正統な後継を自認しており、幕府というのは前線司令部のテントの中で戦時内閣をやってますということであり、征夷大将軍というのは本当は京都室町で公家のマネなんかしていないで、東国に常駐してアヅマエビスを軍事的に押さえるはずの人なので、室町将軍というのは鎌倉をずっと留守にしちゃっている。
だから鎌倉には出先機関を置いて、関東地方を支配させていた。鎌倉御所。鎌倉府。
尊氏公の四男(正室の子としては次男)の、基氏公から始まる家。

ところが、幕府の言うことをきかずに好き勝手をやるようになる。
最初は将軍(公方)の代理人のはずだったのが、俗に鎌倉公方とか関東公方などと呼ばれて、これはこれで、もうひとつの将軍職のようになってしまった、というか、関東で軍事をやってるから、こっちのほうがよっぽど将軍っぽいとも言える。
5代目の
足利成氏公の時、ほとんど幕府から独立してしまう。

8代目の室町将軍、義政公は、弟の足利政知公を派遣して、もうひとつの鎌倉府を、新しく別に開設した。

もちろん両者とも、自分たちが正統な鎌倉府だと思っている。
従来の鎌倉府(古河公方)と、新しい鎌倉府(掘越公方)が、対立して、上杉家の内紛もごちゃごちゃで、ムダに体力を消耗する。

古河公方は、幕府に追われて鎌倉にいられなくなって、下総古河に疎開していたから古河公方。
堀越公方は、抵抗されて鎌倉に入れなくて、伊豆掘越より先に進めないから、掘越公方。

古河公方は、その後5代にわたって、一応は形を保ち続けた。
掘越公方は、2代目の時、伊勢家(のちの小田原北条家)に滅ぼされた。

元亀4年(1573年)、信長公は用済みになった足利義昭公を京都から叩き出し、室町幕府は実質的には滅ぶ。
天正16年(1588年)、まだ征夷大将軍という肩書だけは持っていた義昭公が、猿に服従したため、室町幕府というのは形式の上でも完全に終わる。

それでも、古河公方はがんばり続けていたのだが、古河公方も2派に分裂して、古河公方と小弓公方になり、これまた対立していた。
古河公方側は、
足利氏女(氏姫)さん。
この時代の武家の女性は、たいてい「誰の女(むすめ)」としか記録に残らないので、名前がわからないから、こう呼ばれている。
小弓公方側は、足利国朝公。
この人が、たまたま、島子さんの弟だったというのが、話のミソ。

天正18年(1590年)12月2日、秀吉公は、足利氏女さんと足利国朝殿を結婚させて、古河公方を統一、
…というか、室町幕府がもうないのだから、室町幕府の機関の正統性なんて、満州国の偽札みたいなものだが、とにかく古河公方と小弓公方を統一したと。

実際のところは、騒動の元になりそうなものを落ち着かせて豊臣政権下に取り込んで固めてしまおうということと、伝統が好きで成り上がり者を嫌う人たちに、私は鎌倉公方をどうこうできるほど権力があるんですよということを示すことによって、将門公以来独立性の高い関東地方を押さえ、北条家の善政(税金激安で高福祉)に心酔してしまった領民たちを押さえ、北条家に不法占拠されてた関東地方を開放したとかなんとか大義名分が立ち、まさかとは思うが家康公が反乱した場合に関東を押さえる旗頭も用意しておく、というようなことで、この家が存続していればメリットはあっても損はなかったわけだ。

秀吉公は、信長公のカタキをとり、織田家の跡取りを後見し、近衛家の力を借りて関白になり、天皇を自宅に呼びつけ、関白よりももっと偉そうな太閤になった。
従来の権威を高めることによって、その上に君臨している自分の権威も高まるという、底上げのやり方なのである。

そして、下野喜連川3000石余と、下総古河330石余、合計ざっと3500石が与えられ、古河公方足利家は喜連川氏を名乗ることになった。

秀吉公が島子さんの機嫌を取ろうとしたのか、島子さんが秀吉公におねだりしたのか、たぶん両方だと思うが。
島子さんに与えられた領地を、弟夫妻に譲ったわけだが、これは秀吉公の指示なのかどうか。

『三百藩藩主人名事典』は、『寛政重修諸家譜』をただ口語にしただけではなく、校訂してくださっているので、ちょこちょことニュアンスが違う。たぶん、なにか根拠がおありなのだと思う。

『十八年豐臣太閤關東下向のとき、舊家の廃れん事をあはれび、國朝をして家をつがしめ、義氏が女をもつて其室に定めらる。このとき太閤より頼純が女にあたへらるゝところの喜連川の采地三千五百石をゆづられ、古河に住し後喜連川にうつり、喜連川を稿號とし代々其地に住す。』(『寛政重修諸家譜』)

『同十八年九月、豊臣秀吉が関東下向のとき、名家の廃絶することをあわれみ、喜連川城主塩谷惟久の室島子の願いを聞き届け、頼純の嫡男国朝に義氏の跡を継がせ、その女氏女を室に定めた。このとき秀吉は、頼純が女島子に与えた喜連川の采地三千五百石を譲らせ、国朝の所領とした。国朝は古河に住んだあと喜連川に移り、喜連川を称号とする。』(『三百藩藩主人名事典』)

いずれにしても、国朝侯は喜連川を名乗ったとしている。

  喜連川氏、11代

徳川家は、家系図をでっちあげ、新田源氏だということにして、源氏の棟梁におさまった。
だから徳川家は、源氏の名門をことさら優遇した。これまた、底上げ方式。
本当に名門だったら、わざわざ飾る必要はないが、成り上がり者なので後ろめたいもんだから、名家から公認してもらって安心したいのである。
関ヶ原の勝利に、鎌倉様から祝いが来たというのは、天下取りの仕上げにかかっている家康公にしてみれば千石でも安いくらいで、我々が考えるよりも意味が大きかったらしいのだ。

喜連川家は、特別扱いされた。

実際の石高に関係なく、10万石の国持大名並に待遇(亨保年間から?)。

天皇家と将軍家にしか許されない「御所」を名乗る特権を認められる。
いわば江戸時代に室町幕府が続いてるようなもの。
鎌倉公方の地位を、形式とはいえ認められている。

諸役御免。伝馬役や御手伝普請などを務めなくてよい。家康公が決めたので、以後慣例。
そもそも江戸幕府に臣従する筋合ではないから、客分扱い。

国住まい勝手。参勤交代しなくてよい。妻子を江戸へ人質に出さなくてよい。
自主的に、年末年始を江戸で過ごして、新年の挨拶はしていたが。

江戸時代の大名というのは、1万石以上で、なおかつ、将軍家の直接の臣を言うが、喜連川家はどちらにも該当しないので、厳密に言えば大名ではない。
そのことをバカにされがちだが、とんでもない、
そんじょそこらの正規の大名より、ずーっと偉かったのである。
別格というか規格外、制度の枠外の、名誉顧問のようなもの。
「天下ノ客位」、「無位ノ天臣」、「喜連川公方」、「五千石国主」などの異名があった(『藩史大事典』)

5千石自体は貧乏というわけではなく、旗本なら5千石あれば大物だが、見栄を張るから苦しいのであって、5千石で10万石の格式を保つというのは、とてつもない貧乏だったらしい。

貧乏は決して卑しいことではなく、貧しくても誇り高い武士もいるが、喜連川家は、心が卑しかったように歴史に書かれている。
参勤交代の大名行列が領内を通るたびに、ネチネチと貢ぎ物を巻き上げていたという話が山ほどある。
わざと橋の下にいて、もの欲しそうに待ってるので、またいで通るわけにいかないから、大名行列は贈り物を渡して挨拶せざるをえなかったとか。
大名行列が喜連川をよけて通ると、あとでイヤミを言いに行ったりとか。

大名行列というのは、江戸で軍役を務める軍隊の「行軍」であり、人様が城を構えている所へ他国の軍隊が通過や宿泊をするわけだから、普通は、どちらの大名も気を使う。
エンゲルベルト・ケンペルが来日して伺候した時の道中日記『江戸参府旅行日記』が、斎藤信さんの訳で平凡社東洋文庫から出ていて、大名行列が通る時はあらかじめ地元の人々によって道路が綺麗に掃き清められていたなんてことが書いてある。
大名行列が大名領内を通過する時に、お互いに物を贈り合うのは、どこでもおこなわれていた風習だったという説もある。
喜連川家の場合、一方的にもらうだけだったように伝えられているが、本当なのかどうか。

喜連川の藩士は薄給なうえに、借り上げ(未払い、実質減給)を実施されていた。
序列が大好きな藩主だから、数少ない藩士たちに身分差をことさらに付けたので、藩士同士の内紛が続発した。
茶碗洗いのことで家中が対立したこともある。
発狂したという理由を付けられて、藩主が、家老たちに幽閉されたこともある。
内紛に負けて失脚した家臣が、「喜連川藩は旧幕府軍に味方してますよ?」とかデタラメなことを官軍に言いふらしたこともある。

しかし5代目の茂氏侯などは名君で、領地は治安が良かったともいう。

国朝侯を含めずに(江戸幕府の体制下では)11代、明治まで続いたが、血筋は途中で絶えている
 4代目の
氏春侯は、高家の旗本(足利一族)の宮原家の次男。
 7代目の
恵氏侯は、伊予大洲藩の加藤家の三男。
 10代目の
宜氏侯は、肥後宇土藩の細川家の孫。
 11代目の
縄氏侯は、常陸水戸藩の徳川家の十一男。

10代目の相続の時には、肥後熊本の細川斉護侯の五男だか六男だかの良之助君をもらってきて、養子に据えたが(細川家は少し遠い足利一族)、この子は喜連川家を継ぐのを嫌がって逃走、熊本へ帰ってしまう。
やむなく、もう一度、細川家から別の養子をもらいなおした。

11代目の縄氏侯は、なんと、水戸藩9代目の斉昭公の十一男!
水戸烈公の息子さん達といえば、最後の将軍になった奴もいれば、京都守護職松平容保侯の養子になった奴もいる。
長男は常陸水戸の
徳川慶篤公、次男は御三卿清水家の徳川篤守侯、五男は因幡鳥取の池田慶徳公、七男は将軍の徳川慶喜公、八男は武蔵川越の松平直侯侯、九男は備前岡山の池田茂政公、十男は石見浜田の松平武聰侯、十六男は肥前島原の松平忠和侯、十七男は常陸土浦の土屋挙直侯、十八男は常陸水戸の徳川昭武公、十九男は陸奥会津の松平喜徳公、二十二男は陸奥守山の松平頼之侯。
尊皇だけど徳川家は守りたいとか、開明的で科学的だけど開国反対で攘夷とか、さっぱりワケのわからない立場で、大変に苦しんだ人々なのである。

  (明治政府知藩事、喜連川家あらため足利家)

結局、喜連川藩は、戊辰戦争では官軍側についた。
総勢21名の喜連川藩兵が、佐賀藩の斥候隊の下に配属してもらって、会津へ従軍したという。

明治元年(1868年)12月、喜連川氏をやめて、名前を足利に戻した。

明治2年(1869年)5月5日、縄氏侯が隠居して、聡氏が藩主になる。
これも高家の宮原家の次男が養子に入ったもの。最後の喜連川藩主。
この時には、もう大政奉還後。しかも、
藩主になった時から足利であり、喜連川氏ではない。
7月25日、版籍奉還。

喜連川藩は自主的に滅びた。
廃藩置県を待たずに、他藩に先駆けて領地を朝廷に返し、藩をやめた。
もう水戸藩の血筋ではないので、勤王は関係ない。借金で首が回らないだけの藩政放棄。
明治3年(1870年)7月17日、廃藩。日光県に吸収合併された。

明治9年(1876年)9月3日、聡氏侯は隠居。
聡氏侯が養子に入った後で、縄氏侯に実子が生まれていたので、その人が継いだ。於菟丸君。
9月25日、聡氏侯は足利家との養子縁組を解消して、宮原家に戻る。これも、一説には負債逃れが目的だという。

喜連川あらため足利家は、華族に列した。子爵。正規の大名だった家がもらう位の中で、一番安いやつである。
準大名は普通、男爵であり、しかも足利家は後醍醐天皇を裏切った家だから、喜連川家は1〜2枚高いのをもらったことになる。

かつて喜連川藩主になることを拒否して逃げ帰った良之助君も、明治時代の政界で活躍し、子爵になった。

 

 江戸屋敷

  上屋敷
下谷池之端。現在の池之端二丁目。忍岡小学校の手前のマンション周辺。
北は道を挟んで松平出雲守邸(越中富山藩上屋敷)。東は不忍池。南は、心行寺そのほかたくさんの寺と、京極某邸。西は町屋。

中屋敷・下屋敷は無かった様子。

 

 藩校

弘文2年(1845年)7月9日、「翰林館」設立、…というのが通説のようだが。
弘文3年設立との説もある(『光廟遺事』)。

校名は、中国でアカデミーを翰林と意訳していたことによるもので、アカデミーの語源がアカデモスの林であることから。
学頭は秋元与という人、号は梅園。侍医だったのを儒業専門にした。

天保10年(1839年)、倉ケ崎に移転。
この時に「
演武場」を設置。翰林館に併設なのか、翰林館とは別に設置したのか、よくわからない。
この時までは武術はそれほど兼修ではなかったか。

弘化2年(1845年)、武術道場は翰林館に内包や付属ではなく、学問は翰林館、武術は演武場、2つの施設が並立した状態だったらしい。後述。

嘉永2年(1849年)頃は、「広運閣」と呼んでいたらしい。
一説には弘化2年(1845年)頃からだともいう。
これは通称か別名らしく、改名したわけではないらしい。
広連閣と書いてある資料もあり、誤字のようだが、よくわからない。
綿谷先生は
広運館とお書きになっている。
明治政府が長崎に作った英語学校も、こんな名前だったりする。

講師陣には、渋川義敬、森田健資という人物がいた。

明治3年(1870年)7月17日、廃藩と共に(藩校としては)廃校。
その後は私塾になったらしい。

 

 唯心一刀流継承者

綿谷先生によれば、喜連川藩には唯心一刀流があった、ということになっている。
『江戸三◯◯藩武芸流派総覧』も、喜連川藩の剣術として、『示玄流』と『唯心一刀流』をあげている。
たしかにあった、らしいのである。

しかし、調べても調べても、俺には確認とれない。

『藩史大辞典』は、『栃木県史』附録喜連川藩材料を出典として、幕末時点での喜連川藩の武術7流派を挙げているが、指南役の御名前が全員「未詳」であり、剣術流派はひとつだけ、示現流しか載ってない。
槍も一旨流だけ、薙刀師範が無く、一刀斎先生・古藤田先生・正木先生との関連が見られない。

どうして手がかりがないのか、その原因だけは知っているので、御紹介する。

栃木県の剣術に関しては、植田俊夫先生の『野州流派剣術の研究』という、感謝しきれないくらい重宝させていただいている論文があるので以下引用。
『 (略)
 佐野藩は『栃木県教育史』による新陰流・直心影流の流派名だけで、喜連川藩についても、詳細は不明である。
 以上、『栃木県教育史』を中心に、諸藩校の教授科目としての剣術流派をみてきたが、藩としては取り上げてはいないが藩士個人として学んだ剣術流派もある。
 喜連川藩は、『栃木県教育史』にみるように、天保十年に新に演武場を置き、十才から四十才の男子に武芸を習わせ、武術奨励をした。また、弘化二年には、文学校を翰林館、武学校を演武場とし、武術教師七名、助教五名をおき文武両道を兼修させた。藩士では、笠間藩の示現流村上亘門人の佐藤林平、その門人富田定静がいた。
 (略)
 以上のように、藩内で一流派を継続的に取り上げ擁護された流派はみあたらない。これは、野州諸藩の特徴である小藩に起因し、藩士は江戸の師家道場に学ぶか、江戸などから師範の出張教授を受けているからである。』

というような具合で、今の栃木県に存在した藩というのは、武術の指導者が常駐しない雰囲気だったようで。

しかも喜連川の場合、給料を踏み倒される藩にわざわざ仕官したがる物好きは少ないだろうし、藩士が個人的に習うとしても示現流だったらしい。

とにかく笠間藩から指導に来ていたから、笠間藩でやっている流派が入る。
喜連川に唯心一刀流があったとすれば、これが理由だと思われる。

同書の茂木藩のところに、『中村光男氏の研究によると、笠間藩の示現流師範村上亘が茂木藩に来て指導していたこと、(略)』とある。
では、喜連川藩以外の下野国の各藩にも、笠間の唯心一刀流が出張教授された可能性が…、と思いきや、そうでもない。

同書には、『万延英名録』、『皇国武術英名録』、『英名録』(伊沢音三郎)、『英名録』(猪瀬正久)、『日本武術名家伝』に載っている下野の剣術家を、流派と地域で分類してくださっている表(本当にありがたいです、植田先生)が掲載されているのだが、唯心一刀流なんて一人もいない!
そもそも、この表では、喜連川の剣術家はたった1名だけ、しかも流派不明。

巻末には、約100点の資料から抜き出した下野国の剣術家およそ1500名の名簿(出典付!)なんていう、とんでもないものがあって、かなりマイナーな流派までバッチリ載っているにもかかわらず、流派不明の人はあっても、唯心一刀流の人は1人もいない…。

 

 他の剣術の主なところ

  示玄流
佐藤林平先生、富田定静先生、前述のとおり。
喜連川では、示現流ではなく示玄流と表記することが多かったらしい。
笠間の示現流は、牧野家が九州から持ってきたもの。

喜連川藩の家臣は室町末期の下克上やら寝返りやらのゴタゴタ以来なので、どういう基準で家臣を採用してたんだか、サッパリわからない。
騎射のような伝統的なことは重視してたようだから、なにごとも、どちらかといえば古い流派を好みそうではあるけれども。

 

 現在の状況

不明。

 

 余談

ここの当主は、よくわからない。
やんごとない人々というのは、体裁を整えてしまうので、正確に歴史に残らないのである。
喜連川騒動の時にも、幕府が秘密裏に処理してしまっている。

『藩史大事典』の、喜連川藩の藩史略年表から抜粋で引用する。

 一五九〇 天正一八 12・2 
豊臣秀吉の命により、下総国古河鴻之巣において、足利国朝、古河公方義氏の娘氏女と婚礼。

      文禄
 一五九三    二 2・1
国朝、名護屋に赴く途中、安芸国で没す。

           6
国朝死去にともない、弟頼氏が代わって氏女を娶る。古河領三〇〇石余は国朝の子義親が相続。

 一五九四    三
頼氏が上洛し、秀吉に謁見。遺領を継ぐことの許可を得る。

17歳で嫁に行ってみれば、新婚生活2年ちょっとで、夫が死んだ(享年22歳)。
夫の弟(14歳または15歳)と再婚した。

そして産まれた子が、兄の子か、弟の子か。

『藩史大事典』は兄の子だとする。

ところが、『日本系譜綜覽』の系図では、弟の実子だとする。
義氏 =國朝=頼氏─義親という順になっているのである
(「
」は養子相続、「」は実子相続。原文では「」は旧字)。

もともと個人と個人の結婚ではなく、家と家の結婚であり、させられた政略結婚だから、そもそもがお気の毒な話であるから、誰のタネだろうとどうでもいいことだが。

夫も妻も、自分こそが正統な鎌倉公方家だと思っていた。
両家を統一したといっても、どちらかといえば、妻の家を夫が継いだ格好であり、しかも社民党が無かった時代の結婚だから、奥さんにしてみれば面白くはない。
氏女さんと義親君の母子は、喜連川に移らず、一生、古河に住み続けたという。

義親君は藩主になる前に29歳で病死したので、1世代とばして、孫(義親君の子)の尊信君が、次の藩主になった。
尊信君も、藩主になるまでは、ずっと古河にいた。

とても冷たい家族という印象を受ける。暗殺があっても不思議はないくらい。
歴代藩主はあまりお幸せではなかったのではないだろうか。

秀吉公は善意でやったのだろうけれども、江戸時代の間ずっと恥をかかされ続け、貧乏に堪え、イヤでも維持していかなければならなかったとも言える。
滅びる時には、滅びることも大切なのかもしれない。

 

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