唯心一刀流があったことはあったらしいのだが… 下野 喜連川
藩の名前 喜連川藩、下野喜連川藩。喜連川左馬頭、御所など。
親疎、伺候席、城陣、石高 外様、無席、国主格。高無。 実際には、頼氏侯・尊信侯は大廊下詰、昭氏侯・氏春侯は大広間詰、茂氏侯は柳間詰。 実際は5千石ほど。 天正18年(1590年)12月2日、『古河において三〇〇石余、喜連川において三〇〇〇石余を宛行われる。』(『藩史大事典』) 文禄2年(1593年)6月、『古河領三〇〇石余は国朝の子義親が相続。』(『藩史大事典』) 慶長4年(1599年)3月10日、頼氏侯の采地のうち200石を島子さんに分与。(『寛政重修諸家譜』、『三百藩藩主人名事典』) 慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦勝に祝いの使者を立てたことの返礼だとかで、1000石加増。 元和8年(1622年)、『下野国芳賀郡高根沢村・七井村の地と陸奥国高貫郷が交換となる。』(『藩史大事典』) 下総古河に飛び地330石があり、ここに古河公方館があって、これが本宅で、妻子や兄弟はこっちに住んでいたが。 寛政元年(1789年)、500石加増? 『日本系譜綜覽』は、縄氏侯を1万石としているが、根拠不明。 聡氏侯が当主になった明治2年時点で、塩谷郡14ケ村、那須郡37ケ村、芳賀郡13ケ村、6925石(『三百藩藩主人名事典』)。 喜連川には、塩谷氏の居城「倉ヶ崎城」があったので、これが、いわば「喜連川城」だが、いつ廃城になったかというと、どうやら、明治3年らしいのだ。 現在は、「喜連川城」(という名前の温泉施設)があるという。
位置と、土地の性格 下野国塩谷郡喜連川。喜連川宿、那須郡14ヶ村、芳賀郡2ヶ村。飛び地は前述。 現在の栃木県さくら市喜連川周辺。 「どこにあるのか誰も知らない県」、「日本一影の薄い県」、「名物が思い浮かばない県」、「県の輪郭をイメージしにくい県」、「暴走族から見て、最もダサい県」、「御当地パワー日本最低」、「地域ブランド全国最下位」とか言われている栃木県の、中東部に位置する。宇都宮よりも北。 かつては喜連川町と言ったが、市町村合併し、小学生が名付けて「さくら市」になった。 俺が子どもの頃、学生服のボタンを自分の学校のボタンに付け替えずに着用することを、「桜市立桜中学校」と呼び、どこの生徒だかわからない、うさん臭いことであるとされていた。 ほかでもない、実際にそこに住んでらっしゃるみなさんが、それでいいと判断なさって、御自分たちでお決めになったことだから、なんら問題ないし、それが地方分権とか自治だと思う。 温泉、ゴルフ場、別荘地など、わりと派手なことも財源にしている様子。
藩主と、藩の性格 堀江塩谷家、5代 源義家公の子、義親公は、勇猛な武将ではあったが、たびたび強盗殺人をやらかした。 5代目の朝義侯には子がなく、養子を入れた。宇都宮成綱侯の子、朝業侯。 宇都宮氏の血筋になったということは、宍戸氏や笠間氏と同族ということ。 紆余曲折あったが、文禄4年(1595年)2月8日に秀吉公に改易されるまで、この家は、この地で続く。 喜連川塩谷家、4代 塩谷家は、もうひとつある。分家の塩谷。 鎌倉幕府が始まると、源氏はすぐに終わり、執権北条氏が政敵を次々に抹殺して権力を独占するが、和田氏を排除する時、喜連川塩谷家2代目の惟守侯は和田氏側に味方してしまい、討ち死に。 子がなかったので、弟(三男)の惟義侯が継ぎ、その子の惟縄侯が継いだが、またもや子がなく、本家から養子を入れた。 宇都宮喜連川塩谷家、代々 塩谷家の本家が宇都宮氏の血筋になってから3代目の当主が泰朝侯で、その息子の朝宗君が、喜連川塩谷家に養子に入った。塩谷忠朝侯。 下野国では、南部の宇都宮氏と、北部の那須氏が、ず〜〜っと対立していた。 塩谷本家は、血筋が宇都宮だから、宇都宮家に味方していたが、13代目の教綱侯は宇都宮家当主の持綱侯を暗殺し、仕返しに暗殺される。 喜連川塩谷家は、位置的に那須寄りであり、塩谷本家と仲が良くなかったこともあって、那須家に味方していた。 永禄7年(1564年)10月7日、孝信侯は塩谷本家を奇襲、当主(実兄)の義孝侯を殺して、川崎城を占拠。 塩谷本家は、義綱侯が継いだが、秀吉公に改易される。 孝信侯の子の惟久侯というのが腰抜けで、秀吉公に敵対も臣従もしなかった。 (孝行料、豊臣家) 塩谷惟久侯の正室の島子さんが、なさけない夫に代わって弁解の使者に立ったんだか、夫に置き去りにされて途方に暮れたんだかして、とにかく秀吉公に面会。 家柄も良くて美人だったので気に入られ、猿専用ハーレムに採用、喜連川3500石が与えられた。 鎌倉公方喜連川家 ところで、室町幕府は鎌倉幕府の正統な後継を自認しており、幕府というのは前線司令部のテントの中で戦時内閣をやってますということであり、征夷大将軍というのは本当は京都室町で公家のマネなんかしていないで、東国に常駐してアヅマエビスを軍事的に押さえるはずの人なので、室町将軍というのは鎌倉をずっと留守にしちゃっている。 ところが、幕府の言うことをきかずに好き勝手をやるようになる。 8代目の室町将軍、義政公は、弟の足利政知公を派遣して、もうひとつの鎌倉府を、新しく別に開設した。 もちろん両者とも、自分たちが正統な鎌倉府だと思っている。 古河公方は、幕府に追われて鎌倉にいられなくなって、下総古河に疎開していたから古河公方。 古河公方は、その後5代にわたって、一応は形を保ち続けた。 元亀4年(1573年)、信長公は用済みになった足利義昭公を京都から叩き出し、室町幕府は実質的には滅ぶ。 それでも、古河公方はがんばり続けていたのだが、古河公方も2派に分裂して、古河公方と小弓公方になり、これまた対立していた。 天正18年(1590年)12月2日、秀吉公は、足利氏女さんと足利国朝殿を結婚させて、古河公方を統一、 実際のところは、騒動の元になりそうなものを落ち着かせて豊臣政権下に取り込んで固めてしまおうということと、伝統が好きで成り上がり者を嫌う人たちに、私は鎌倉公方をどうこうできるほど権力があるんですよということを示すことによって、将門公以来独立性の高い関東地方を押さえ、北条家の善政(税金激安で高福祉)に心酔してしまった領民たちを押さえ、北条家に不法占拠されてた関東地方を開放したとかなんとか大義名分が立ち、まさかとは思うが家康公が反乱した場合に関東を押さえる旗頭も用意しておく、というようなことで、この家が存続していればメリットはあっても損はなかったわけだ。 秀吉公は、信長公のカタキをとり、織田家の跡取りを後見し、近衛家の力を借りて関白になり、天皇を自宅に呼びつけ、関白よりももっと偉そうな太閤になった。 そして、下野喜連川3000石余と、下総古河330石余、合計ざっと3500石が与えられ、古河公方足利家は喜連川氏を名乗ることになった。 秀吉公が島子さんの機嫌を取ろうとしたのか、島子さんが秀吉公におねだりしたのか、たぶん両方だと思うが。 『三百藩藩主人名事典』は、『寛政重修諸家譜』をただ口語にしただけではなく、校訂してくださっているので、ちょこちょことニュアンスが違う。たぶん、なにか根拠がおありなのだと思う。 『十八年豐臣太閤關東下向のとき、舊家の廃れん事をあはれび、國朝をして家をつがしめ、義氏が女をもつて其室に定めらる。このとき太閤より頼純が女にあたへらるゝところの喜連川の采地三千五百石をゆづられ、古河に住し後喜連川にうつり、喜連川を稿號とし代々其地に住す。』(『寛政重修諸家譜』) 『同十八年九月、豊臣秀吉が関東下向のとき、名家の廃絶することをあわれみ、喜連川城主塩谷惟久の室島子の願いを聞き届け、頼純の嫡男国朝に義氏の跡を継がせ、その女氏女を室に定めた。このとき秀吉は、頼純が女島子に与えた喜連川の采地三千五百石を譲らせ、国朝の所領とした。国朝は古河に住んだあと喜連川に移り、喜連川を称号とする。』(『三百藩藩主人名事典』) いずれにしても、国朝侯は喜連川を名乗ったとしている。 喜連川氏、11代 徳川家は、家系図をでっちあげ、新田源氏だということにして、源氏の棟梁におさまった。 喜連川家は、特別扱いされた。 実際の石高に関係なく、10万石の国持大名並に待遇(亨保年間から?)。 天皇家と将軍家にしか許されない「御所」を名乗る特権を認められる。 諸役御免。伝馬役や御手伝普請などを務めなくてよい。家康公が決めたので、以後慣例。 国住まい勝手。参勤交代しなくてよい。妻子を江戸へ人質に出さなくてよい。 江戸時代の大名というのは、1万石以上で、なおかつ、将軍家の直接の臣を言うが、喜連川家はどちらにも該当しないので、厳密に言えば大名ではない。 5千石自体は貧乏というわけではなく、旗本なら5千石あれば大物だが、見栄を張るから苦しいのであって、5千石で10万石の格式を保つというのは、とてつもない貧乏だったらしい。 貧乏は決して卑しいことではなく、貧しくても誇り高い武士もいるが、喜連川家は、心が卑しかったように歴史に書かれている。 大名行列というのは、江戸で軍役を務める軍隊の「行軍」であり、人様が城を構えている所へ他国の軍隊が通過や宿泊をするわけだから、普通は、どちらの大名も気を使う。 喜連川の藩士は薄給なうえに、借り上げ(未払い、実質減給)を実施されていた。 しかし5代目の茂氏侯などは名君で、領地は治安が良かったともいう。 国朝侯を含めずに(江戸幕府の体制下では)11代、明治まで続いたが、血筋は途中で絶えている。 10代目の相続の時には、肥後熊本の細川斉護侯の五男だか六男だかの良之助君をもらってきて、養子に据えたが(細川家は少し遠い足利一族)、この子は喜連川家を継ぐのを嫌がって逃走、熊本へ帰ってしまう。 11代目の縄氏侯は、なんと、水戸藩9代目の斉昭公の十一男! (明治政府知藩事、喜連川家あらため足利家) 結局、喜連川藩は、戊辰戦争では官軍側についた。 明治元年(1868年)12月、喜連川氏をやめて、名前を足利に戻した。 明治2年(1869年)5月5日、縄氏侯が隠居して、聡氏侯が藩主になる。 喜連川藩は自主的に滅びた。 明治9年(1876年)9月3日、聡氏侯は隠居。 喜連川あらため足利家は、華族に列した。子爵。正規の大名だった家がもらう位の中で、一番安いやつである。
江戸屋敷 上屋敷 中屋敷・下屋敷は無かった様子。
藩校 弘文2年(1845年)7月9日、「翰林館」設立、…というのが通説のようだが。 校名は、中国でアカデミーを翰林と意訳していたことによるもので、アカデミーの語源がアカデモスの林であることから。 天保10年(1839年)、倉ケ崎に移転。 弘化2年(1845年)、武術道場は翰林館に内包や付属ではなく、学問は翰林館、武術は演武場、2つの施設が並立した状態だったらしい。後述。 嘉永2年(1849年)頃は、「広運閣」と呼んでいたらしい。 講師陣には、渋川義敬、森田健資という人物がいた。 明治3年(1870年)7月17日、廃藩と共に(藩校としては)廃校。
唯心一刀流継承者 綿谷先生によれば、喜連川藩には唯心一刀流があった、ということになっている。 しかし、調べても調べても、俺には確認とれない。 『藩史大辞典』は、『栃木県史』附録喜連川藩材料を出典として、幕末時点での喜連川藩の武術7流派を挙げているが、指南役の御名前が全員「未詳」であり、剣術流派はひとつだけ、示現流しか載ってない。 どうして手がかりがないのか、その原因だけは知っているので、御紹介する。 栃木県の剣術に関しては、植田俊夫先生の『野州流派剣術の研究』という、感謝しきれないくらい重宝させていただいている論文があるので以下引用。 というような具合で、今の栃木県に存在した藩というのは、武術の指導者が常駐しない雰囲気だったようで。 しかも喜連川の場合、給料を踏み倒される藩にわざわざ仕官したがる物好きは少ないだろうし、藩士が個人的に習うとしても示現流だったらしい。 とにかく笠間藩から指導に来ていたから、笠間藩でやっている流派が入る。 同書の茂木藩のところに、『中村光男氏の研究によると、笠間藩の示現流師範村上亘が茂木藩に来て指導していたこと、(略)』とある。 同書には、『万延英名録』、『皇国武術英名録』、『英名録』(伊沢音三郎)、『英名録』(猪瀬正久)、『日本武術名家伝』に載っている下野の剣術家を、流派と地域で分類してくださっている表(本当にありがたいです、植田先生)が掲載されているのだが、唯心一刀流なんて一人もいない! 巻末には、約100点の資料から抜き出した下野国の剣術家およそ1500名の名簿(出典付!)なんていう、とんでもないものがあって、かなりマイナーな流派までバッチリ載っているにもかかわらず、流派不明の人はあっても、唯心一刀流の人は1人もいない…。
他の剣術の主なところ 示玄流 喜連川藩の家臣は室町末期の下克上やら寝返りやらのゴタゴタ以来なので、どういう基準で家臣を採用してたんだか、サッパリわからない。
現在の状況 不明。
余談 ここの当主は、よくわからない。 『藩史大事典』の、喜連川藩の藩史略年表から抜粋で引用する。 一五九〇 天正一八 12・2 文禄 6 一五九四 三 17歳で嫁に行ってみれば、新婚生活2年ちょっとで、夫が死んだ(享年22歳)。 そして産まれた子が、兄の子か、弟の子か。 『藩史大事典』は兄の子だとする。 ところが、『日本系譜綜覽』の系図では、弟の実子だとする。 もともと個人と個人の結婚ではなく、家と家の結婚であり、させられた政略結婚だから、そもそもがお気の毒な話であるから、誰のタネだろうとどうでもいいことだが。 夫も妻も、自分こそが正統な鎌倉公方家だと思っていた。 義親君は藩主になる前に29歳で病死したので、1世代とばして、孫(義親君の子)の尊信君が、次の藩主になった。 とても冷たい家族という印象を受ける。暗殺があっても不思議はないくらい。 秀吉公は善意でやったのだろうけれども、江戸時代の間ずっと恥をかかされ続け、貧乏に堪え、イヤでも維持していかなければならなかったとも言える。
|
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||