←戻る 

 

 なぜか、あちこちで唯心一刀流に関係している赤穂浅野家

 常陸 真壁

 

 藩の名前

真壁藩、常陸真壁藩。浅野弾正など。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

外様、柳間詰、当時は家格も無城?(笠間や赤穂では城主)。5万石。

浅野家は外様と言っても、早くから徳川家を支持しており、家康公からの信頼は厚かった。
この時代には真壁城はなく、陣屋。

 

 位置と、土地の性格

常陸国真壁郡・筑波郡、そのほか。
桜川の東に3万石、西に2万石。

現在の茨城県桜川市真壁町、茨城県筑西市の旧明野町部分、茨城県桜川市の旧大和村部分、茨城県つくば市筑波地区(旧筑波町)の北部。
笠間から見て南西に位置する。

暗夜軒先生とか傅鬼坊先生とかでおなじみ、武術の盛んな所。

 

 藩主と、藩の性格

  嵯峨源氏?

平安時代には、地方の行政官に任命されても、実際に任地に行くとは限らず、代理人を派遣するだけだったりした。

しかし、藤原氏がなにもかも独占しているから、藤原じゃない人たちは京都にいても出世の見込みがないので、本当に地方に下って、任期が終わっても帰らず土着して、土地を開墾し、私営田を作った。

常陸大掾の源護侯が、真壁に屋敷を構えて、大量の田んぼを私営していた。
大掾は国司の3等の上級。常陸の場合、実質2等。

  桓武平氏高望王流

寛平元年(889年)5月13日、桓武天皇の子孫、高望王とその息子たちは、平姓をもらって皇族ではなくなる。

昌泰元年(898年)、平高望侯が上総介(千葉県中部の知事を代行する副知事、のようなもの)に任じられ、親子そろって任地に下る。

長男の国香侯が、真壁郡東石田に土着。
源護侯の娘を嫁にもらって、源護侯の後任の常陸大掾になり、地域に溶け込む。

しかし、源護侯の長男の源扶侯と、国香侯の甥の平将門公が、女性問題でトラブルになる。
『将門記』の冒頭が欠損していて、詳しい原因は謎。

承平5年(935年)2月、扶侯が将門公を待ち伏せ攻撃したが失敗、将門公に反撃され、とばっちりで国香侯は焼き討ちされて死亡。

  新皇

平将門公は、あっという間に関東地方を武力制圧。
新しい皇室を始め、関東地方を日本国から独立させてしまった。

朝廷に対する反逆だが、将門公は関東地方の武士たちから圧倒的に支持された。
これ以前の政治が、よっぽど悪くて、不満がたまっていたらしい。

  大掾多気家、代々

国香侯の跡取り息子の、平貞盛侯というのが、戦意にとぼしかったり、戦っても負けてばかりで。
おまけに、妊婦の腹を斬り裂いて取り出した胎児の生肝で、自分の矢傷を治し、その治療法を教えてくれた医者を証拠隠滅のために殺そうとしたとかなんとか。
妊婦を切り裂くっていうのは暴君の逸話によくある話だから、事実無根の悪口っぽいが。

天慶3年(940年)2月14日、貞盛侯は支援者に支えられ、苦心惨憺の末に、父のカタキを取る。

その後、甥(弟の繁盛侯の、子)を養子にして、常陸をまかせた。多気維幹侯。
多気氏は常陸大掾を世襲。

  大掾真壁家、代々

多気氏の分家のひとつ(四男家)が、真壁を本拠にして真壁氏を名乗り始めたのが、真壁長幹侯。

承安2年(1172年)頃、真壁城を築いた。ものすごい軍事拠点だったらしい。

  常陸佐竹家

真壁家は武勇で知られた家だが、戦国時代になると、佐竹家の武将に組み込まれる。

暗夜軒先生のあと真壁家は分家が本家になり、真壁一族の本拠地は真壁城ではなくなり、柿岡城、大島城と、拠点が南へ移っていく。

関ヶ原の戦いが終わり、慶長7年(1602年)5月、主君の佐竹義宣侯が飛ばされたので、真壁家も一緒に秋田に移る。

  (水戸藩領? 幕府領?)

佐竹氏をどかした後、水戸徳川家を置くまでの間、常陸の領主は変遷がある。

家康公の五男の信吉侯が甲斐武田家を再興することになり、武田信吉侯として慶長7年(1602年)から水戸25万石を領有したが、翌年9月11日に急死。

次に、家康公の十男の頼将侯(のちの頼宣公)が、慶長8年(1603年)11月7日から慶長14年(1609年)12月12日まで、水戸20万石を領有したが、この家は紀伊に移って紀伊徳川家になる。

真壁は、一時期このへんに組み込まれていたか。

  (隠居料、土岐浅野家)

浅野氏は、もともと織田家の家臣。
浅野長政侯は安井家の子だが、浅野家に婿養子に入った人。生母も浅野氏。
豊臣政権下では、甲斐府中に21万5千石を持っていた。

正室が秀吉公の正室と姉妹、というコネで出世した人ではあったが、必ずしも猿の提灯持ちではなかった。
秀吉公が、みずから朝鮮に出陣するから留守中の日本を頼むと家康公に言った時、そばにいた長政侯が、キツネに取り憑かれましたか云々と発言し、秀吉公が激怒して刀を抜き、前田利家公と蒲生氏郷公がすがりついて止めるところへ、私の首を刎ねても天下はどうということはないが、朝鮮出兵のせいで日本国民ことごとく難儀している、殿下まで朝鮮に渡海なさったら留守中に国内の治安が必ず乱れる、と主張。
晩年の秀吉公を怒らせた者は殺されるので、これでもう、長政侯は処刑を待つだけの身になったが、肥後で争乱が起きて、それみたことかという話になり、処刑中止になり、長政侯はその争乱の鎮圧をまかされた。
というようなことが『常山紀談』に書いてある。

長政侯は、行政(特に法令)や外交が得意で、五奉行筆頭。
五奉行は御存知のとおり豊臣政権の官僚派だが、浅野家は早くから家康公に親しく、石田三成侯らとは別行動だった。

慶長4年(1599年)、前田利長公の「家康公なんちゃって暗殺計画疑惑」のせいで、長政侯は失脚、甲府で謹慎、隠居したということになっているが、これは浅野家を猿政権から引き離すための猿芝居だったようで、この時、江戸城を訪れて秀忠公にもてなされているという。
長政侯は、領地の甲斐を息子の幸長侯にまかせっきりで、ずっと豊臣政権の中央にいたのが、これ以降、豊臣奉行衆から離脱したような格好になる。

隠居も形だけのことで、関ヶ原の戦いでは息子ともども家康公を支援して活躍。
豊臣臭がないので、徳川政権下でも生き残ることになった。

慶長11年(1606年)2月4日、隠居料とか養老料とか隠栖料とかいう名目で、常陸の真壁郡と筑波郡に計5万石、長政侯に与えられる。
この時点では、藩というより、年金か恩給みたいなもので。

真壁城の跡地の、古城という地名の場所に、最初の「真壁陣屋」を建てた。
ここに代官を置いて、年貢を取ったらしい。
関ヶ原の後も、長政侯は家康公のそばに仕えていたので、領地は留守がちで、真壁はただの収入源の田んぼ。

晩年の家康公は、長政侯と囲碁をすることが多く、じつは囲碁にかこつけて政治の参考意見をもらっていたんじゃないかという話もある(長政侯が亡くなると、家康公はパッタリ囲碁をやらなくなったという)。

  土岐浅野家(長重系)

長政侯が隠居すると、長男の幸長侯が浅野家の当主になった。
関ヶ原のあと、浅野家は紀伊和歌山の大名になった。
幸長侯の正室は、池田恒興侯(
大垣城主をやったことがある)の娘。女児しか得られなかった。

浅野家は、弟(次男)の長晟侯が継ぐ。
これは兄の養子になったのではなく、兄は家を継がなかった、長政侯の後継者は長晟侯、ということにしたらしい。
この時まで備中足守で2万4千石ほどの大名をやっていた人。
このあと福島家がつぶれて安芸が空くので、忠臣蔵でおなじみの広島浅野本家になる。

そして、長政侯には息子がもうひとりいた。三男の長重侯(『藩史大事典』では次男としている)。
長重侯は、慶長6年(1601年)から、下野真岡(もおか)に、真岡藩2万石というのを始めていた。
真岡は、笠間のすぐとなり。笠間の北西に位置する。
長政侯は、豊臣政権下では、下野の検地を担当して宇都宮城主だったことがある。

慶長16年(1611年)、長重侯は父の真壁5万石を相続、真岡は手放した。
真岡藩は、
長岡で失脚した堀親良侯が引き継いだ。親良侯の正室は長政侯の娘。

厳密には、ここからが真壁藩。

今度はジジイの老後の年金ではなく、普通に大名としての5万石、正規の藩なので、将軍の指揮下の武将として、5万石に見合う諸役を務めなければならない。
外様ではあるから、だいぶ負担させられたらしい。
このころ、陣屋を新築したらしい。従来の真壁陣屋よりも西。

その後、長重侯は、改易大名の城受け取りや、大坂の陣など、業績や手柄を重ね、加増の御沙汰があったが、領地が増えるってことは国替えしなきゃならないので固辞。
親の菩提寺を離れたくない、加増いらないから真壁にいたい、と嘆願した。

当時の将軍もまた2代目社長の秀忠公。
それは親孝行で奇特で殊勝なことであるというんで、笠間藩の永井直勝侯を立ち退かせて、
真壁藩に笠間藩の土地を付け足す格好で新しい笠間藩53500石を作ることになった。

『藩と城下町の事典』では、他国へ移封して加増か、笠間・真壁に住み続けて加増なしか、二つを提示されて、どちらか選べと幕府に言われたので、長重侯が後者を選んだ、というような書き方をしているが、根拠不明。

これっきり、真壁藩というのは消滅し、二度と作られなかった。
17年間しか存在しなかったことになる。

  (笠間藩領だったり、そうじゃなかったり)

ところが。
長重侯はその後も、笠間城ではなく、真壁陣屋を本拠にしていた。

真壁に居つづけたいというんで、こういう話になったのだから。

笠間を領有してもしなくても政庁が真壁にあるなら真壁藩ではないか、真壁藩が笠間藩に吸収されたのではなく笠間藩が真壁藩に吸収されたのだ、「笠間藩」になったのは次の長直侯からだ、という説もある。なるほど確かに。

朱印状がどうなっているのか俺にはわからないが、手続上では、真壁藩から笠間藩へ「転封」ということなのかどうか。
とにかく世間一般的には、笠間をくっつけた時点で真壁藩は消滅で、以後は笠間藩ということになっている。

長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司、『茨城県の歴史』山川出版社1997では、『元和八年笠間に移封後も、父長政の菩提所がある真壁旧領の半分を引き続き支配した。』とあり、今までの真壁藩を全部領有し続けたわけではないようだから、これは真壁藩から笠間藩へ国替えということなのだろうと思う。

しかし、次の代、長直侯のとき、よせばいいのに結局、真壁を去ることになる。
播磨赤穂へ引っ越して、有名な赤穂浅野家になるのである。

真壁はその後、牧野家が笠間藩主だった時などに、一時期、笠間藩に含まれておらず、誰かの領地の一部だったり、幕府領だったりしたらしい。

長重侯の真壁陣屋は、本庄家が笠間藩主だった頃にはつぶれて長屋だけになっており、大火に巻き込まれたり、代官陣屋として再建されたりしながら、明治になって真壁小学校になり、今では公民館や歴史民俗資料館の敷地に利用されている。

 

 増上寺事件

笠間をどいてくれた永井家は、下総古河、山城淀、丹後宮津と移転しつつ3代が過ぎて、尚長侯になる。

この永井尚長侯というのは、『つねに才智にほこり衆の惡を受けしを以て、』(『日本歴史人名辭典』)、賢いのを鼻にかけて恨まれていたという。
頭のいい人は、必ず嫌われるのである。
優等生とかエリートなんて、ただでさえ鼻持ちならないが、自己実現をなしとげて自信を持っていて堂々としているので、悪気がなくても生意気に見える。
しかも、頭の悪い人たちから見れば、自分の愚かさを痛感させられて自己嫌悪になるから、もう見るのもイヤだし、そのイライラを自分のスキルアップの努力に向けないで、ねたんで足を引っぱることに熱心だったりする。なぜなら頭の悪い人だから。
ましてや君主とか高級指揮官というのは飾りであればよく、おっとりしたバカ殿のふりをするくらいでちょうどいいのであって、小ざかしい才智なんて家老にまかせて、ここぞという時以外は静かに微笑んでおればいいのである。

永井家のとなりは、志摩鳥羽藩の内藤忠勝侯の屋敷だった。
磐城平藩の内藤家とは同族。

尚長侯は敷地内に築山を築いて、その上に茶室を設置した。
尚長侯には悪気はなかったのかもしれないが、忠勝侯にしてみれば、「上から目線」で私生活をのぞき見られているように感じたらしい。
忠勝侯が苦情を言ったところ、
「塀を高くしたらどうでしょう、工事費用は当方で用立てますので」
というような返事をしたのかもしれないが、嫌いな奴から言われたせいか、取り次いだ家臣の解釈なのか、
「イヤなら塀でも高くすれば? 金が無いなら貸してやろうか?(笑)」
と聞こえた、少なくとも内藤家側はそういうニュアンスに受け取ったらしい。

増上寺で将軍家綱公の葬儀の時、この2人が会場警備の担当になり、忠勝侯は、尚長侯を背後から脇差で刺してしまう。

この時、止めに入って、止められなかったけど後で誉められたのが、湯長谷藩の内藤政亮侯。

表向きの説明としては、忠勝侯が乱心した、ということになっている。
トチ狂ってバカをやるのは「乱心」なのだが、乱心イコール精神的におかしくなったとは限らない。

俗説では、尚長侯が嫌がらせをしたので、仕返しだという。
連絡事項を自分だけ読んで忠勝侯には知らせなかったとか、馳走は必要ないと言っておいて尚長侯だけが豪華な接待をしてみせたとか諸説あるが、事実はどうであれ忠勝侯は、恥をかかされたと感じたらしい。

おそらく、こういう時は、精神の病気だから仕方がなかった、ということにしたほうが、行事に傷がつきにくい。
実際は正気で、一応の殺害理由があったとしても、乱心として処理するのではないだろうか。

忠勝侯の名誉のために言っておきたい。
たとえ犯罪者でも見事に本懐を遂げたのであれば、忠臣蔵の浅野長矩侯ほどは乱心してなかった、あるいは、一人の武士として戦闘能力が高かった、そして、比較的(あくまでも比較的)、家臣たちに苦労をかけなかったのである。

忠勝侯は、翌日切腹。
志摩鳥羽3万5千石は、お取り潰し。
この時、城の受け取りを担当したのが、
伊勢菰野の3代目、土方雄豊侯。

刺された尚長侯は、死亡。
丹後宮津7万3千石も、お取り潰し。尚長侯に跡継ぎがなかったので。
のちに弟が大和櫛羅1万石をもらって御家再興するけれども。

被害者である永井家が改易になったのは、葬儀の場で騒動を起こしたという喧嘩両成敗なのかもしれないし、やっぱり、なにか刺されるような理由があったのかもしれない。
尚長侯は27歳であり、いくら早婚早産の江戸時代でも急に死ぬとは想定していないから、無嫡を理由に改易は無茶。
理不尽な暴力の被害者なら、落ち度があるとすれば武道不心得、つまり、武士のくせに簡単にやられちゃったということだけだから、ほんの少しの減転封で、誰か親戚にそのまま継がせても良さそうなもんだ。
あるいは、ただ単に、将軍家の権威の量が問題だったのかもしれないが。

忠勝侯の、甥っ子のひとりは、美濃大垣の4代目、戸田氏定侯。
母親が忠勝侯ときょうだい。

そして、あの有名な、播磨赤穂の浅野長矩侯も、忠勝侯の甥だった。
母親が忠勝侯の姉なのである。

御存知のとおり、この21年後に、似たような事件が起きる。
というか、吉良殿の嫌がらせの話は、永井家の話を元ネタにしてるようなフシがある。

 

 忠臣蔵事件

忠臣蔵っていうのは演劇の題名であり、義士かどうか仇討かどうかも解釈まちまち、討ち入りだけでなく勅使饗応から話が始まっているから、正確には、赤穂浅野家断絶事件とか、元禄赤穂藩騒動だけれども。

そもそも、浅野家が赤穂へ移封になったのも、キチガ◯から始まっている。
赤穂の名君、
池田輝興侯が、なぜか突然、正妻そのほか女性たちを斬り殺して、お取り潰し。
赤穂が空いたので、かわりに、浅野家が入った。

そして松の廊下事件。これ

赤穂浅野家の親戚たちは、出仕の差し止めをくらう。
江戸城に顔を出すな、自宅で謹慎してろということ。

戸田氏定侯は、またか〜っ!と思いながら、出入禁止命令に従う。

今回の理由は、長矩侯の従兄弟という理由だけれども。
これで氏定侯は、
「頭がおかしくなった犯罪者の、甥っ子」&「頭がおかしくなった犯罪者の、従兄弟」ということになってしまった。

 浅野家   内藤家        戸田家   牧野家
 長政    忠政(初代)     一西    忠成(初代)
 
真壁藩     │        膳所藩   大胡藩
  │    ┌─┴──┐      │     │
 長重   忠重    政次    氏鉄     │
 
笠間藩  鳥羽藩   :     大垣藩  ┌─┴┬───┬───┬───┐
  │    │  
のちの岩村田藩  │   │  │   │   │   │
  │    │           │   │  │   │   │   │
 長直   忠政(2代)      氏信─┬─長女 光成 康成   定成 忠清
 
赤穂藩   │             │    │  與板藩  のちの三根山藩
  │   ┌┴───┬───┐     │    │   :
  │   │    │   │     │    │   :
 長友─┬─波知  忠勝   女──┬─氏西    │  
のちの小諸藩
    │    
刃傷断絶     │       │
    │             │       │
    │             │      忠成(2代)
    │    
土方家      │      長岡藩
    │   雄豊・豊高     │      
    │    
菰野藩      │     牧野家は暗殺がうまいので
  ┌─┴──┐  │       │     
バレないようにやっている
  │    │  │       │
 長矩   長広──女      氏定

刃傷断絶           次はここかァ?
               と思われたくはないわという話

連座っていうのは、叱るほうもわかってて、「あなたは関係ないし、ぜんぜん悪くないんだけど、これを機に、みんなで気持ちを引き締めて、お互いに迷惑がかからないようにしましょうや」ということであり、同様の事件が今後起きないよう未然に防ぎたくて叱っているのだが、一族に続発すると、ちょっと遺伝的にアレなんじゃないかっていう。

氏定侯としては、オレは正気だ、ちゃんと幕府の言うことをきくぞ、と思ったに違いない。
大石先生が、「私らは田舎の無骨者でしてね、吉良家にも何か御仕置きをやってくれなきゃ、うちの藩士たちを押さえきれないので、赤穂城を明け渡せないかもしれませんねェ」という嘆願書を幕府に出そうとしたのを、届く前に握りつぶしたのが氏定侯。

分家の氏成侯も、赤穂浪士を一人、脱盟させたフシがある。畑ヶ村藩のページ。

そして、討ち入りの日
(志の輔師匠でさえ『んー、えー、ま、未明でございますから15日ということでございますかねえ』などと発言なさっているが、江戸時代の時制では日の出をもって日付変更)。

吉良屋敷の北隣りは、旗本の土屋逵直殿の屋敷。
土屋家は甲斐武田家の旧臣で、これまた、忠義一途で知られた家。

川中島4回戦の大ピンチで味方が散りぢりに混乱した時も、土屋昌続侯だけは信玄公のそばを離れずに守ったので、信玄公にとてもかわいがられたし、武田家が滅ぶ時は要領のいい連中はとっくにバックレていたが、土屋昌恒侯は最後の最後まで勝頼侯に付き従い、しまいにゃ、勝頼侯の切腹の時間を稼ぐために敵を防いで斬り死にした。弟のほう、昌恒侯の子孫が、この土屋家。

土屋逵直殿は、主税という名前のほうが通りがいい。
夜中にやかましいので、寝巻姿のまま、抜身の槍なんか片手に縁側まで出てくる。
ここで、「一打ち二打ち三流れ…」の御約束が入るが、こういうの好きな方はこちらへ。
関係ないとは思うが、
三春藩秋田家も軍学は山鹿流を採用している。

赤穂浪士が塀ごしに叫ぶ。
「土屋様御屋敷内に申し上げます、われらは浅野内匠が家臣、亡君の御恨み晴らさんがため吉良様御しるし頂戴に推参仕奉った次第、武士は相身互い、火の始末など用心いたしますゆえ、なにとぞ、しばしお見逃しのほど」とかなんとか。
おそらく裏門隊の、小野寺十内秀和先生あたりが、気をきかせて言ったものらしい。

土屋殿はただちに家臣たちに命じて、ありったけの高張提灯を塀ぎわに並べさせる。
旧暦14日だから、雪が止んでいれば、ほぼ満月が出ていて、雪明かりで反射して、それなりに明るかっただろうけれども。
吉良邸内が明るく照らされて、隠れている人を探しやすくなったもんだから、表門のジジイ隊が「土屋殿…、かたじけない…」とか涙声でつぶやいて(史実と違うが、時代劇ではたいてい、ほとんどの年寄りが表門で大石先生のそばにいる)、大石先生もしみじみ土屋邸に向かって黙礼する。

土屋殿は、「塀を乗り越えてくる卑怯者は、たとえ吉良少将様といえども突き落とせ」と指示して、家臣たちは弓に矢をつがえて塀をにらむ。

そのうちに、えいえいおうの勝鬨が聞こえてきて、土屋殿もうれしそうに「浅野殿、良き家来をお持ちになられた…、武士として心底うらやましい」みたいなことを言う(これはもともと歌舞伎ネタ、松浦侯の話)。
史実では、土屋家のほうから声をかけたところ、塀のむこうから、小野寺・片岡・原の3人が、本懐を遂げたことを答えたという(『鳩巣小説』)。

…というようなことが、忠臣蔵のお決まりのシーンのひとつになっている。
このネタだけを扱った外伝もあり、林長次郎(のちの長谷川一夫)主演の『元禄快挙余譚土屋主税雪解篇』1937年が、なんと380円でDVDが販売されている。

旗本は普通、大名が大嫌いなので、縁もゆかりもない大名家の違法行為を積極的に手助けするなんてことは、あんまりしないのだが。
じつは、この土屋家というのも、キチガ◯を理由に先代のとき取り潰された家で、上総久留里2万石の大名から、旗本3千石に没落したのだった。
そして、
泉藩初代の内藤政晴侯の、正室の実家は、この土屋家なのである。

家臣の数は、石高が増えるにしたがって増えていくが、浅野家は、真壁・笠間時代の藩士を赤穂に連れていっており、四十七士のうち、堀部弥兵衛、吉田忠左衛門、小野寺十内といった年寄り連中は、笠間の生まれ。

 

 江戸屋敷

不明。
長政侯は和歌山藩浅野家の江戸屋敷に住めばいいかもしれないが、長重侯の時は御自分の江戸屋敷があったはず。

 

 藩校

この時代には、おそらく無い。
赤穂藩の藩校も浅野家ではなく、ずっと時代がくだって森家の時。

 

 唯心一刀流継承者

不明。

 

 赤穂の剣術の主なところ

小野派一刀流、心陰放捨流、直心影流(堀内流)、天流、東軍流。
そのほか、
本體高木流の剣術部門など。

唯心流柔術のことは、他流のページ。

四十七士の武術には面白い異説もあるが、新選組マニアのような臭いが混ざっていて、どこまで信用していいのかわからない。
今後、確実にわかったものがあれば、ここに加筆していく予定。

ただ、四十七士の来歴を見ると、養子が多いことが気になる。
将軍や大名でさえ、これだけ絶えているのだから、血筋が絶えるっていうのは普通に世の中にあることで、100石くらいの藩士も、なにかの縁で遠くの藩の藩士から次三男をもらってくることは普通にあったようで。
それはもちろん、大名が養子を入れるよりも簡単に認可されうる。藩主の一存だから。
これでは、
藩ごとに武術を調べてもあんまり意味がないんじゃないかという気がするが…。

とにかく浅野家は笠間にいたのだから、浅野家からアプローチしていくと、なにか突破口になる手がかりがあるかもしれない。

特に、四十七士のひとり、『剣術系図』の編者、天流の間喜兵衛光延先生は重要である。
なんと、この人、大垣藩をやる前の戸田家に仕えていたことがある。
戸田一西侯(氏鉄侯の父)が、近江膳所藩をやっていた時に、現地採用した家臣らしいのだが、なにか私闘のようなことをやらかして、同輩を斬ったので戸田家にいられなくなり、浅野家に駆け込んで匿ってもらい(当時は長直侯。長矩侯の祖父)、そのまま家臣に取り立てられたのだという。
つまり高齢なのだが(69歳)、討ち入りでは敵を殺しているし、『都鳥いざ言問わん武士の恥ある世とは知るや知らずや』などと痛烈なことを書いて槍に吊るしていたという。
仇討後にその身柄を預かった細川家が見たところでは、無口で、皆と打ち解けない人物だったという。
いいかげんな系図を後世に残す人とは思えない。ひとに笑われるということが、おそらく堪え難いのである。

光延先生は正妻をお持ちにならなかったが妾があり、そのお子さんがあった。
長男の十次郎光興先生は、吉良邸突入一番乗りのひとり、そして吉良殿に一番槍をつけたので、討入後の墓前報告においても焼香順位が第一位だった。
次男の新六郎光風先生は、他家へ養子に出され出奔して浪人していたにもかかわらず、参加を願い出て、大石先生に却下されてもねばって加盟を許され、そして討入後は扇子腹ではなく本当に自力で切腹(あっという間にかっさばいてしまったので、介錯人のほうがうろたえた)。
光延先生の娘さんは、磐城平藩安藤家の唯心一刀流師範中山八左衛門正元先生に嫁いでらっしゃる!

『家老の大石内蔵助良雄は主家再興を計るため、たびたび大垣を訪れて支援を頼んだという。』(『藩と城下町の事典』)

もう一人。
四十七士のひとり大高源五忠雄先生は、
宍戸藩・三春藩の秋田家と同族!
秋田安東家の傍流に、大高を苗字とするものがあり、大高館を本拠とした一族だから大高で、傍流だから本家の秋田安東家に仕えたが、主君同様「秋田」を名乗る権利を持っていたという。
大高忠晴殿は庶子なので、傍流のそのまた傍流だから、秋田を名乗らず、寛永16年(1639年)頃、浅野家に仕官。
忠晴殿の息子が忠雄先生、『年の瀬や水の流れと人の身は/明日待たるるその宝船』でおなじみの俳諧義士である。

 

 現在の状況

不明。
四十七士は足軽1人を除いて切腹。
幼くて討ち入りに参加できなかった遺児たちは、連座で伊豆大島へ流され、そのあと赤穂浪士の人気が高まって、宝永6年(1709年)までに大赦されたが、僧侶になった人が多い。

赤穂浪士については、討ち入り直後から今日まで、たくさんの人々が興味を持って調べ続けてきたので、資料は出尽くした感があるが、まだ知られていない情報を掘り出す穴場があるとすれば、それは讃岐高松かもしれない。
『赤穂藩士の親族には、高松居住の者が少なくない。大石内蔵助の縁者をはじめ、
間喜兵衛、小野寺幸右衛門、不破数右衛門の縁者も高松にいた。』(『江戸三◯◯藩武芸流派総覧』)

 

 ←戻る 

 

広告 [PR]  再就職支援 冷え対策 わけあり商品 無料レンタルサーバー