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 唯心一刀流の手がかりの、本命中の本命

 常陸 笠間

 

 藩の名前

笠間藩、常陸笠間藩。牧野越中守など。

宗矩先生のお弟子さんに笠間さんという人がいらして、笠間流剣術を創始してらっしゃるので注意。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

松井松平家は、譜代、帝鑑間詰、城主。3万石。
小笠原家
は、譜代、城主。3万石。
戸田松平家
は、譜代、帝鑑間詰?、城主。3万石。
永井家
は、譜代、城主。3万2千石、元和5年(1619年)から5万2千石。『諸国城主記』では7万石。
浅野家
は、外様、柳間詰、城主。5万3千石。『諸国城主記』では5万5千石余。
井上家
は、譜代、雁間詰、城主。5万石。
本庄松平家
は、譜代、雁間詰、城主。4万石、元禄7年(1694年)4月1日から5万石。
井上家(2回目)
は同じ。亨保3年(1718年)3月3日から6万石。
牧野家
は、譜代、雁間詰、城主。8万石。

笠間城は、古いタイプの実戦的な山城であり、険しい狭い所に石垣を多用して、まったくの要塞として作ってあったから、日常生活には不便だった。
寛永20年(1643年)、浅野家が、佐白山のふもとに「下屋敷」という別館を建てて、藩庁機能を移したらしい。
城跡を見学するなら、つつじの季節がいい。

 

 位置と、土地の性格

常陸国笠間付近。

戸田松平家までは、常陸国茨城郡・那珂郡。

永井家は、常陸国茨城郡・那珂郡。
元和5年(1619年)、常陸国新治郡2万石加増。

浅野家は、常陸国茨城郡・那珂郡・真壁郡。

井上家は、常陸国茨城郡・那珂郡・真壁郡、下野国芳賀郡。

本庄松平家は、常陸国茨城郡・那珂郡・真壁郡、下野国芳賀郡・都賀郡・足利郡。
元禄15年(1702年)ごろ、西那珂郡は茨城郡に併合されている。

井上家(2回目)は、常陸国茨城郡・真壁郡。
亨保3年(1718年)3月3日、下野国芳賀郡1万石加増。

牧野貞通侯は、常陸国茨城郡・真壁郡、河内国茨田郡、近江国蒲生郡・野洲郡・栗太郡・甲賀郡、丹波国桑田郡・船井郡・天田郡・何鹿郡、美濃国不破郡。
この人は京都所司代で、ずっと京都にいたから、一度も笠間城に入らなかった。

牧野貞長侯は、常陸国茨城郡・真壁郡、陸奥国磐前郡・田村郡・磐城郡、そのほか時期によって変化。
和泉国日根郡・南郡、河内国丹南郡・丹北郡・石川郡・渋川郡・茨田郡、播磨国神東郡・加東郡・加西郡・多可郡に、合計3万石。
河内国石川郡・古市郡、播磨国加古郡・赤穂郡、美作国大庭郡に、合計1万5千石。
この人も、大坂城代や京都所司代をやっていたため、西の土地を持っていた。
寛延2年(1749年)12月15日、領地のうち3万石は陸奥国になったので、翌年、磐城郡中神谷に陣屋を置く。

牧野貞喜侯以降は、常陸国茨城郡・真壁郡、陸奥国磐前郡・田村郡・磐城郡。

現在の茨城県笠間市の北西部一帯。茨城県の中央西部に位置する。
トップハットにたとえられる茨城県の、後頭部寄りクラウン最下部に相当する。

神奈川県横浜市栄区、石川県白山市に、笠間町があり、いずれも学校名などに笠間と付けているので注意。

東どなりが水戸藩というのが意識するところだったらしく、「あえて水戸にひけはとらず」という常套句があって、水戸藩をライバル視していたらしい。
このことが、熱心な剣術の鍛練と、古い伝統の保存に、良い結果をもたらしたものと思われる。
水戸で北辰一刀流がめざましい隆盛をとげたことも、かえって、笠間の唯心一刀流が昭和まで古色を墨守し続けた遠因になったのかもしれない。

面白いことに、山本鉄之丞先生は水戸藩士の次男で、笠間藩士の養子になってらっしゃる。

都内から行くなら、まず宍戸で歴史民俗資料館を観てからのほうがいい。

笠間といえば、植芝先生の神技がとうとう神様の域にまで達してしまったという、「合気神社」がある。
坂本九さんが戦時中に疎開なさっていたことから、「九ちゃんの家」なるものが保存されている。

城の瓦を作るために始めたという陶芸「笠間焼」が名産で、いったん衰退したが現在ふたたび力を入れている。
信楽焼(狸の置物で有名)から笠間焼が生まれ、笠間焼から益子焼(峠の釜飯の容器で有名)が生まれている。
陶芸に興味があるなら、友部駅から、水戸線に乗らずに一日乗車券で周遊バスに乗り、美術館をハシゴするのがよい。

笠間稲荷様は、日本三大稲荷のひとつ。御本殿が重文のほか、手水舎など各所に施された彫刻が面白い。
笠間駅から少し距離があるので、女性の方は駅前からバスか貸自転車がいいかもしれない(ただし、笠間城址はチャリでは無理)。歩くなら、左の大通りのほうが歩道が綺麗。

ここの神職さんは、本当に神にお仕えする人々。そんじょそこらの世襲のサラリーマン神主や、バカ女がコスプレしたグッズ販売員とは、全然違う。立居振舞、顔つき、口のきき方から何から、シロート目にも一目でわかる。心が洗われる。

稲荷神社を訪問させて頂いた時は、御賽銭を多め多めに投げ込み、土産を買って門前を活性化すること!
稲荷神は人なつっこくゲンキンな神様なので、誠実に好意を示す者には、たちまち、ハッキリとしたゴリヤクをくださる。
ただし、御稲荷様を自宅にお祭りするのは、いろいろと作法が面倒なので、お札を買うのはよしたほうがいい。それよりも、マメに参拝することである。

仲見世に、焼きたての煎餅を1枚から売ってくれる店がある。どこで買っても同じような土産物は、全部この店で買うとよい。というのは、ある程度の買い物をしてから、焼きたて煎餅を買うと、お茶を出してくださり、緋毛氈のベンチで頂戴できる。

門前は、観光地らしい観光地になっていて、駅前よりも賑やか。

稲荷寿司を新しい名物にしており、店によってレシピが違う。頭クラクラするくらい甘いもの、見た目がかわいらしいもの、テイクアウトだけの店、マスコミで紹介されたということをことさら強調している店などがあり、まずは端から端まで、ざっと見て歩くことをおすすめする。
だいたいの傾向として、客引きがしつこい店は閑古鳥。
端のほうに、輸入雑貨を兼ねた、いい喫茶店もある。店名を失念したが、クッキー類がすばらしい。

神社の目の前に笹目宗兵衛商店さんという酒蔵があり、「松緑」という銘柄を、見学と試飲と購入できる。
ここに寄るのは最後にしないと、酒を担いで軽登山するハメになる。かといって、夕方には閉店してしまう。

納豆を乾燥させた菓子のような酒肴のようなものは、値段が手頃なのでつい一度は買ってしまうが、硬いやら臭いやら、それほどうまいものではない。
納豆を土産にするなら、水戸納豆5本束という赤いパッケージのやつが手に入りやすいが、極小粒なのが特徴だという。

 

 藩主と、藩の性格

  佐志能山観世音寺僧兵団

笠間盆地の東、佐白山(佐志能山、佐城山、三白山とも)に、古くから佐志能神社があった。
白雉3年(652年)、佐志能神社の別当寺として
観世音寺(のちの正福寺)が創建される。

神仏ごっちゃの山岳信仰の聖地として、佐白山には僧坊100余が建ち並び、鎌倉時代には僧兵が要塞化していた。

  宇都宮塩谷笠間家、代々

佐白山の北に八瓶山があり、布引山徳蔵寺というのが僧坊300を構え、八岐大蛇伝説と大師信仰のような宗教をやっていた。

元久2年(1205年)、佐白山と徳蔵寺は、寺領をめぐって対立。

劣勢の佐白山側から援軍要請されたことから、地元の宇都宮氏が軍事介入。
宇都宮頼綱侯の甥にあたる、塩谷家の次男、
塩谷時朝侯が、このドサクサに佐白山と徳蔵寺を両方とも滅ぼして、全部かっぱらう。建保2年(1214年)。

『時朝は佐白山南麓に戦陣を据え、徳蔵寺三百坊を攻め滅ぼした。ところが時朝の勇猛な戦いぶりはかえって正福寺方の不安をかきたて、秘かに謀殺が企てられた。これを知った時朝は激怒し、正福寺百坊をも滅亡に追いやったのである。』(『日本の城ハンドブック新版』)
助けてやったのに、殺そうとしてきたから、やむをえず滅ぼした、つまり、時朝侯は悪くないというニュアンス。

しかし、僧侶が武装して年貢米を押さえてるのは、武士から見れば面白くないから、いずれは滅ぼしたかったはずで、大義名分は何でもよかったのだろうし、ことによると、でっちあげかもしれない。
信玄公や信長公の時でさえ抵抗があったのだから、迷信深い中世なら、寺を攻めて僧侶を殺すというのは、世間体に対する口実が絶対必要なのである。

承久元年(1219年)から佐白山に城を作り始め、嘉禎元年(1235年)に完成。笠間城。

後ろめたいので、時朝侯は佐白山に寺も再興した。正福寺と名付けたのは、この時だという。
現在、笠間城といえば心霊スポットとしてその筋では大変有名で、僧兵や落武者や、一揆を起こして処刑された農民など、無念の死をとげた人々が幽霊になって昼間から出まくるので、大いに観光名物になっているそうな。
山全体が花崗岩なので、たぶん磁力で頭がおかしくなって幻覚を見てるんだよという仮説で、テレビが取材に来たという。

時朝侯は笠間氏を名乗り、以後400年ちかく、この地は笠間氏が支配。
となりの益子氏と戦ったりもしたが、笠間氏は外交が下手で、主君の宇都宮氏のそのまた主君にあたる佐竹氏を敵に回したり、結城氏に圧迫されたりした。

北条家に圧迫されていた宇都宮家は秀吉公に従ったが、笠間綱家侯は従わなかったので、天正18年(1590年)の小田原征伐のついでに、宇都宮国綱侯につぶされる。

  下野宇都宮家

そのあとは、宇都宮国綱侯が笠間を領有していた。
名門宇都宮氏の22代目であり、豊臣姓をもらっていたほどの人で、下野に18万石ほど領地があって、その一部に笠間も組み込まれていた。

笠間城と周辺3万石は、宇都宮家の家老の玉生高宗侯が管理。

国綱侯には跡継ぎがなかったので、浅野家の三男を養子に迎えるよう、宇都宮家の家臣の今泉某が話を進めていた。
ところが、国綱侯には芳賀高武侯という弟がいて、家臣の芳賀家に養子に出ていたとはいえ、真岡城主として宇都宮家の統治の中心人物であり、順番からいけば家督を継ぐべき血筋なので、面白くない。
高武侯は今泉殿を殺害し、養子縁組の話を破談に追い込む。
恥をかかされた浅野家は怒ってしまい、国綱侯は豊臣政権下での立場がまずくなったらしい。
その浅野家の三男坊というのが、のちに真壁藩主になる長重侯。
国綱侯と高武侯は、改易。慶長2年(1597年)10月13日。

国綱侯にはその後、男子が生まれ、水戸藩の家老(1千石)の家として明治まで続いた。
火術と救急法の家伝があり、御子孫が継承なさっている。詳細は1Gにて。

  (預かり、土岐浅野家)

宇都宮家がつぶれたあと、浅野長政侯が5か月間ほど、宇都宮家旧領を管理した。

  近江蒲生家

そのあと笠間3万石は、これまた失脚した人、蒲生秀行侯の領地の一部になった。慶長3年(1598年)から。

これまた下野12万石(一説には18万石)の一部。
笠間は下野ではないのだが、宇都宮の南東にあって、下野国が東へ出っぱった先に位置しているので、国境を越えればすぐ近所。

蒲生家の家老、蒲生郷成侯(源左衛門。蒲生姓を許されている)が、笠間城主を勤め、周辺3万石を支配した。
『諸国城主記』では2万石、『築之城主たり』とある。

関ヶ原の戦いの時は、秀行侯は宇都宮城外郭を、郷成侯は笠間城を担当し、上杉・佐竹家を押さえた。
戦後、蒲生秀行侯は会津60万石に返り咲く。

郷成侯は二本松城主をやったことがあり、このあと三春城代(三春3万石)もやっている。のちに藤堂高虎侯に再就職している。

  三河松井松平家

慶長6年(1601年)2月1日、武蔵騎西から、松平康重侯が笠間に入封。
江戸幕府が始まって
笠間藩がスタート。

この松平家は、もともとは松井家といい、今川家や吉良家に仕えていた。
東条松平家に仕えて三河一向一揆を鎮圧したり、能見松平家と親戚になったりして、松平姓をもらった。
江戸時代を通じて、ずーっと引っ越しばかりさせられていた家。

この人は、関ヶ原の合戦の直後の大垣城の城番を務めたことがある。
笠間藩主の時は、水戸城の在番でもあった。水戸城で佐竹家の旧臣の一部が抵抗した車丹波一揆も、康重侯が鎮圧している。

慶長13年(1608年)秋、丹波篠山へ移封。

  府中小笠原家(長隆系)

9月、下総佐倉から、小笠原吉次侯が入封。

小笠原家は信玄公に駆逐された信濃の名門。
吉次侯は、小笠原の中でも主流の府中系の、本家の長男の長男だが、父が祖父より早く亡くなったため、叔父に持っていかれて本家を継ぎそびれた人。

尾張藩時代の松平忠吉公に付家老として仕え、犬山城主を務め、のちに国宝になる犬山城と城下を整備したが、その時にやった横領が今ごろになってバレた。
一説には、佐倉藩時代にやらかした不正が、改易理由だともいう。
『藩と城下町の事典』では、『佐倉在藩中の罪を咎められて』とある。

慶長14年(1609年)3月26日、改易。

  (幕府領)

代官は大河内金兵衛秀綱殿。
笠間城は預かり。慶長14年は西隣りの下館藩の
水谷勝隆侯、同15年からは志筑知行所の旗本本堂茂親殿が、城番を勤めた。
この水谷家は、のちに備中松山藩主になり、浅野家や安藤家と接触がある。

  仁連木戸田松平家

慶長17年(1612年)7月、下総古河から、松平康長侯が入封。『諸国城主記』では6月。

この家は、戸田家の本家。
曾祖父が家康公の外祖父、正室が家康公の異父妹であり、元服時に松平姓と「康」の文字をもらっている。

大垣藩の戸田家とは同族であり、さらに、娘は戸田氏鉄侯の正室になっている。
しかも、関ヶ原の時に大垣城を攻め落としたのも、この人だった。

引越大名であり、康長侯の一代だけで5回も国替えさせられている。
元和2年(1616年)、
上野高崎へ移封。

  長田永井家

元和3年(1617年)10月13日、上野小幡から、永井直勝侯が入封。『諸国城主記』では5日。
永井荷風さんや三島由紀夫さんは、この人の子孫。

もともとは長田氏だったが、平氏なので、縁起でもないというんで家康公が改名させた。
「長田」は、武士にとって最低のバカ野郎の名前。
平治の乱に負けた源義朝公が落ち延びてきて風呂に入っていたところを、長田忠致という武将が暗殺して、生首を清盛公に届け、褒美をもらい、しかも、褒美が少ないと抗議したので、さすがに清盛公もドン引きした。
義朝公は、頼朝公や義経公の御父上。
恩賞に目がくらんで、自分の主君をだまして殺して、敵に売り払って、褒美をもっとよこせとダダをこねるというのは、源氏以外の人から見ても倫理的に通用しないが、よりによって源氏の棟梁を殺したとあっては。

直勝侯は、家康公の長男の信康公に仕えていた人。
信康公は武田家に内通したため信長公の命令で切腹させられたとかなんとかいうが、とっくに長篠戦も終わって、家臣が離反し続けている武田家に、今さら内通してもメリットないだろう。
信康公の母、つまり家康公の最初の正妻は、家康公が今川家で人質になっていた時の結婚で、今川義元侯の妹の娘。すでに価値のなくなった政略結婚、しかも悪妻で有名な人だった。
信康公は家臣たちから人望があり、服部正成侯などは涙が止まらなくて介錯できず、別の人に代わってもらったとかなんとか。
直勝侯は、信康公が亡くなって失望したらしく、戦国武将を廃業していたのを、家康公に呼び戻され、その後、小牧長久手戦などで活躍、少しずつ出世して大名になった。

元和8年(1622年)12月7日、下総古河へ移封。

  土岐浅野家(長重系)、2代

同年(月日は不明、おそらく秀忠公あたりのおぼしめしで決まったことなので)、浅野長重侯の真壁藩を拡張して、笠間藩にする。『諸国城主記』では10月。
詳細は真壁藩のページ。

長男の長直侯が継いだ。『諸国城主記』では長尚。
正保2年(1645年)6月22日、播磨赤穂へ移封。
『諸国城主記』では『正保二(元)年』とある。

『城と城下町の事典』には、『長直は要害堅固の佐白山から山麓に藩庁を移したが、これが新城建築と疑われたといわれ、正保二年(一六四五)、播磨国赤穂へ転封となった。』などと書いてあるが…。
それにしちゃあ、長直侯は幕府の諸役を次々に勤めており、御褒美に加増してもいいくらいだし、あんな巨大で実戦的な赤穂城を新たに築いている、しかも築城を幕府に申請して異例の即日認可というのはどういうこっちゃ?

  三河井上家、2代

6月27日、遠江横須賀から、下手三味線こと井上正利侯が入封。
『諸国城主記』では『正保二年(元年正月十一日)より』とある。意味不明。

先代は殺されている。
一度は決めた息子の縁談を、春日局にそそのかされて一方的に破談にし、何の落ち度もない先方の娘に一生の恥をかかせ(娘の父親はのちに自殺)、「武士に二言はない」とののしられながら仲人に斬られて死んだという、あんまり評判よくない大名。
その問題の花婿、正利侯が、なんのおとがめもなく継いでいたのが、笠間に移封になった。

どちらかといえば領民が喜ばないことをおこなった。
天守を板屋から白壁に改装したり、笠間藩の最終的な全領検地をおこなったり。

笠間城は、もともと寺の跡地だから、笠間氏も城内に宝塔を作ったりして、その後も観音信仰の聖地として城内に庶民が出入りして参拝していた。
それを禁止したのが正利侯。明暦大火が理由だという。

この井上家は、昔は安倍氏だったが、外戚が信濃源氏の井上氏だったことから、名前をかっぱらったもの。
秀忠公の乳兄弟というコネで成り上がり、老中を輩出する家になった。

長男の正任侯が継いで、元禄5年(1692年)11月12日、美濃郡上八幡へ移封。

  自称高富本庄家(のち本庄松平家)、2代

13日、下野足利から本庄宗資侯が入封。『諸国城主記』では11日。
この人は将軍の叔父様!

公家の二条家に仕えていた北大路宗正侯が、得体の知れない高麗人の女をはらませ、産まれた娘「お玉」は、ゲテモノ好きの家光公に気に入られて妾になった。
家光公の次の将軍、家綱公には子がなかったので、お玉が産んだ綱吉公が将軍に成り上がった。
当然、お玉の一族は自動的に大名に成り上がるわけだが、どこの誰ともわからぬ高麗人なので、家系図をでっちあげて、武蔵児玉党の本庄氏の子孫ということにした。

本庄家は、笠間に2代いたといっても10年間ほど。
寺社を厚く庇護し、寄進したり、井上家が禁止した正福寺参拝を解禁したりした。

江戸時代に入ってから勝福寺と表記していたが、貞亨3年(1686年)から
正福寺になり、元禄年間に建物を整備したらしい。

宗資侯は、かつて真壁に領地を持っていたことがある。
そして、
五男は輿板藩牧野家に養子に入って、小諸藩牧野家になる。

宗資侯は、なんの功績もないが、元禄7年(1694年)4月1日1万石加増。

次男の資俊侯が継いで、なんの功績もないが松平姓になり、なんの功績もないが元禄15年(1702年)9月12日、遠江浜松へ栄転。

  三河井上家、2回目、3代

28日、常陸下館から、評判悪い井上家がまた来る。井上正岑侯。若年寄。
9月1日に下館藩主になったばかりだが、狭くてイヤだとダダをこねて、ただちに笠間藩に移転になった。

このころになっても、井上と言えばバカ殿として有名で、「死んでも惜しくないもの、鼠とらぬ猫と井上河内守」と言われた。
のちに老中まで出世したが、君主の器ではないうえに、まず武士として出来が悪く、政治家としても無能で、新井白石先生がどんだけ止めても止められず、幕府は完全に破産してしまい、このへんで江戸時代は終わっても不思議はなかったのだが、そこへ吉宗公が颯爽と登場して抜本的な大改革をして建て直した、…ということになっている。

つまり、吉宗公を美化するための悪役として、ことさらに悪く言われている様子。

しかし、この人は吉宗公のイトコを正室にしており、吉宗公が将軍になれるよう支援したという説があるくらい。
『老中在職十八年の長きにわたるが終始律儀で能吏としてその任に当たった。たとえば将軍吉宗が退出途中の正岑を呼び止める使者を出したが、そのまま帰宅した。翌日天下の重大事かと疑いがかかるのを避けたためと為政者の心得を言上したと伝えている。また理由のない贈物は受理しないよう心がけたとのことである』(『三百藩藩主人名事典』)
理由をつければ受け取ったわけだ。

現代でもそうだが、閣僚の評価に賛否両論あるのは当然だと思う。

正任侯の五男が旗本酒井家になっていたが、その長男が養子に入って継いだ。正之侯。
『諸国城主記』では正仲として『改正之』と書き添えてある。井上家も改名が多い。出世するから。

その長男の正経侯が継いだ。『諸国城主記』では正賢。
延亨4年(1747年)3月19日、
陸奥磐城平へ移封。

このあと文化年間にも、井上河内守はバカの代名詞になる。
井上正甫侯が、農民の妻をレイプしようとして夫に見つかり、殴られて抜刀、腕を斬り落とし、これが日本中に知れわたって恥をかきかき、左遷大名の捨て場所のひとつ陸奥棚倉藩に飛ばされたりした。

  牛久保牧野家(儀成系)、9代

同日、日向延岡から牧野貞通侯が入封。
以後は牧野家の統治で明治まで続く。

この牧野家は、かつて関宿藩をやっていた家。
長岡の牧野家の甥が、将軍綱吉公に乗っかって大名に成り上がったものだが、そのせいで、実子に継がせることが許されず、得体の知れない大戸家から養子を入れるよう命じられる。成春侯。
ところが成春侯は26歳で死亡。
息子の成央侯が継いだが、まだ9歳。
将軍も家宣公に交代し、前政権の残骸である牧野家は、自動的に失脚。
藩主が幼いとかなんとか適当な理由で、日向延岡へ左遷されていた。
しかも、成央侯も21歳で死亡。

牧野家のいつもの手口、暗殺だろう、毒でも盛って弱らせたのだろう、とか言い出せばキリがないが、成春侯も成央侯も病弱だったという。
とにかく、よそ者の血筋は都合よく絶えた。
本来この家を継ぐはずだった貞通君が継いで、牧野氏の血筋に戻り、笠間に来た。

すると長岡牧野家が絶えたので、長男の忠敬君を、長岡へ養子に持っていかれる。
次男は早死にして、三男の
貞長君が笠間牧野家を継いだ。
しかも、
笠間藩は長岡藩の支藩ということにさせられ、うるさい長岡藩の支配を受けるはめになる。
笠間の牧野家は、別家の、そのまた分家である次男が自力で稼ぎ出して大名になったから、養子縁組するまでは長岡藩の支藩ではなかった。

しかも、長岡へ持っていかれた忠敬侯は、20歳くらいで急死、子がないので、またまた笠間藩から養子を取ることになり、貞通侯の九男の忠利君が長岡藩主になった。
長岡の牧野家は、本家本家と威張りちらすばかりで、実際には笠間の牧野家が人材を供給していたのである。

幕末には、笠間藩は早めに官軍に恭順した。
鳥羽伏見の時は、藩主が大坂城代だったので幕府軍についていたが、将軍慶喜公は部下を見捨てて、愛人を連れて軍艦に乗って江戸へ逃げ帰り、牧野貞直侯は家臣3名だけ連れて陸路を逃げ帰ってきた。
そのあと笠間藩は勤王論でまとまり、576名が官軍の一員として出兵した。
『しかし、鎧兜に槍、火縄銃という装備で旧幕臣の草風隊と小山で戦い、散々な目に遭った。』(『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』)
ということは、古流が残りやすい雰囲気だったということらしい。

笠間藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月19日。

笠間城は山城で生活しにくいので、明治3年(1870年)8月、破却を申し出た。

 

 江戸屋敷

  松平宗資侯 元禄8年(1695年)
たかしょ町。と『藩史大事典』にある。市谷鷹匠町のことだとすれば、かなり狭い土地か。

  井上正利侯 寛文12年(1672年)
浜町。

  井上正任侯 天和元年(1615年)
神田橋。

  井上正岑侯 亨保3年(1718年)
上屋敷西郷丸下。中屋敷、染井。下屋敷、青山隠田。

  井上正之侯、亨保17年(1732年)、井上正経侯、元文6年(1741年)
   
上屋敷
数寄屋橋。このへんは入れ代わりが激しいので不明。
   
中屋敷
六軒掘。六間掘のこと。江東区常盤二丁目。
北と東は、道を挟んで町屋。南は小名木川を挟んで町屋。西は六間掘と道を挟んで紀伊殿(紀伊藩)。
   
下屋敷
青山隠田。おんでんと読む。現在の神宮前。

  牧野貞長侯、宝暦5年(1755年)
   
上屋敷
日比谷。現在の日生劇場・東京宝塚劇場の、北側あたり一帯。
北は松平阿波守邸(徳島藩蜂須賀家上屋敷)、道を挟んで遠山信濃守邸(美濃苗木藩上屋敷)。東は松平主殿頭邸(肥前島原藩上屋敷)。南は濠と道を挟んで板倉周防守邸(
備中松山藩上屋敷)。西は松平肥前守邸(佐賀藩鍋島家上屋敷)。
   
中屋敷
浜町。現在の日本橋浜町二丁目、浜町公園にかけて。
北は稲葉備後守邸(安房館山藩)。東は隅田川。南は津軽越中守邸(陸奥弘前藩)。西は浜町川。
ここには笠間稲荷様が勧請されている。
   
下屋敷
鉄砲洲。

  牧野貞直侯、万延2年(1861年)
上屋敷、日比谷。中屋敷、浜町。下屋敷、巣鴨・本所。
本所に牧野と称する屋敷がいくつかあるが、どれもかなり小さい。

 

 藩校

時習館。『論語』の『学びて時にこれを習う』に由来。
最もありふれた校名のひとつであり、同名の藩校・学校・塾は、全国に無数に存在する。

寛政5年(1793年)、秋元俊郊という人が、私塾「欽古塾」を開く。
文化14年(1817年)3月、欽古塾を公立化? 定書制定。これをもって藩校設立らしい。
文政6年(1823年)、拡張。「時習館功令学則」。この時に時習館と命名?
文政7年(1824年)、医学所「
博菜館」を設置。
文政9年(1826年)、武館「
講武館」を設置。
安政2年(1855年)、大和田という所に新校舎を建築。

安政6年(1859年)、文・医・武を統合。「時習館学校達書規則」。
これ以降、全体を総称して「
時習館」になったということらしい。

明治2年(1769年)、改革。
明治3年(1870年)、「
藩学寮小学校」と改称。

明治4年(1871年)7月14日、廃藩により廃校。

明治5年に廃校という説もあるが、すでに笠間藩はないのだから、藩の公営施設もない。
笠間県の学校として存続していたのが、この年に廃校したのかもしれないけれども。

その後、校舎は大和田小学校に流用。現在の笠間市立笠間小学校。
笠間小学校は、歴史を古く見せかける小細工をなさっておらず、明治6年の大和田小学校開校をもって創立としてらっしゃる。
しかし、笠間に小学校を設立するにあたっては、最後の藩主だった牧野貞邦侯(維新後は貞寧)も奔走なさっている。

ほかに、江戸屋敷にも、寛政元年(1789年)「忠誠館」なるものを設置したというが、これも藩校か。

 

 唯心一刀流継承者

まず、『藩史大事典』に掲載されているのは、この5名。

天保年間、杉浦与三兵衛先生、鈴木十内先生。
嘉永年間、
広田屯先生、山本鉄之丞先生。
元治年間、
杉浦繁先生。

杉浦与三兵衛は少なくとも5代いらっしゃるが、天保なら、景健先生と思われる。

そして、杉田幸三氏の『決定版日本剣客事典』河出書房新社2008には、山本鉄之丞先生と猪瀬虎之助先生が掲載されている。以下のとおり。

 山本鉄之丞良軌(一八一五〜五三)
□常陸、笠間藩士。山本猪三郎の子。
□唯心一刀流。
□文化十二(一八一五)〜嘉永六(一八五三)。歿年三十九。
(文化9〜嘉永3年7月21日という説もある。引用者注、以下同)
□笠間藩(茨城県笠間市)は剣士三百といわれるくらい剣術が盛んだった。ここの中心は唯心一刀流と示現流である。
 鉄之丞は父と、藩校講武館師範鈴木六郎治の子十内、杉浦与三兵衛らについて修行した。
 同じように武術の盛んな水戸藩へ他流試合に出かけたことがある。鉄之丞を敗れるものがない。烈公斉昭からT鬼鉄Uの渾名を貰った。以来この渾名は関東に鳴りひびいた。
「どうも面白くない」
 というのが水戸の剣士たち。そこで、名剣士金子健四郎
(神道無念流、斎藤派)を大将として九人の剣士が笠間に乗り込んだ。
 天保十三年のことで
(14年との説もあり)、鬼鉄は二十八歳。試合は講武館で行なわれた(原文ママ)。鬼鉄対健四郎の立ち合いは十回。七対三で鬼鉄の勝ちに終わった。

 猪瀬虎之助(一八一八〜九〇)
□笠間藩(茨城県笠間市)士。もと足軽。
□唯心一刀流。
□文政元(一八一八年)〜明治二十三(一八九〇)。歿年七十三。
□山本鉄之丞門下。小手取りの名人だった。起った瞬間、相手の右小手を打つ。と大声で、「ご無礼ッ」と烈声。相手が「何のッ」とでもいうと、「もう一本ッ」、と声を発して同じ場所を打つ。それが実に正確無比だった。将軍上覧試合で某と立ち合い、やはりその伝で快勝した。将軍家慶は、思わず、「笠間の奴
(やつこ、とフリガナ)、見事である」とほめた。喜んだのは虎之助だ。下城するや床屋へ飛びこみ、侍髷をやめ、さかやきを大きく剃りあげ、奴髷にしてもらった。六尺近くの大男である。これが笠間の講武館で、赤胴に虎を描いた見事な道具をつけて稽古する。その光景は圧巻だった。奴髷は死ぬまで通した。

『図説日本武道辞典』にも山本先生の項目があって、ほぼ同様のことが書いてあるが、『決定版日本剣客事典』のほうが詳しいので略す。

そのほかの先生方については、伝系のページ。

江戸後期には竹刀による他流試合ということが可能になっているから、諸国を旅して武者修行ということがあり、ノートを持っていて、自分と手合わせしてくださった方にサインをもらって記念にする。
稲垣史生先生によると、訪問して玄関先でノートをやりとりするだけで、実際の手合わせは省略していた例も少なくなかったらしいのだが、それにしても、その土地に何流の道場があって誰がいたということはわかる。
心明当流の福田義典先生が、天保9年(1838年)12月2日から20数年間それをおやりになった『剣術修行中諸大家姓名録』というのがあり、ここに記載されている332名を、植田俊夫先生が分類なさった表というのが、『野州流派剣術の研究』に付属している。
これによると、
『天保12年 水戸、笠間に一ケ月逗留し試合』というのが、示現流または唯心一刀流54、一刀流17、神道無念流12、直心影流9、唯心一刀流4、示現流3、合計99名という人数になっている。
『天保15年 約二ケ月間、駿州・遠州・三州・近江・信州の諸国を修行』というのが計86名だから、水戸・笠間には剣士がどんだけ多かったかということがわかる。
「鈴木十内」「杉浦与三兵ヱ」などの名が書いてあるという。

笠間藩の唯心一刀流の一部は、「杉浦一刀流」だったのではあるまいか、という話は、流派名のページ。

 

 他の剣術の主なところ

『藩史大事典』の年表に、安政元年(1854年)『一丁田で軍事訓練をする』、『この頃、笠間の剣、名声上がる。』とある。

  示現一刀流
植田先生の統計に出てくる「示現流または唯心一刀流」というのは、もしかするとコレか。
しかし伝書を見たことがないので、どのような内容の剣術か、俺にはわからない。
笠間藩校では、示現流と唯心一刀流の両方を学べる機会はあったかもしれない。

  示現流
牧野家が日向延岡から移封の際に持ち込み、笠間稲荷神社の神官(牧野家)が継承していた。
牧野貞通先生、牧野貞長先生、牧野貞喜先生、牧野貞幹先生、牧野貞一先生。
つまり、笠間でおこなわれたのは18世紀なかば以降、意外に遅い時期からということになるが、笠間では最も盛んな剣術だったような印象を受ける。
村上亘先生、村上義治先生。
笠間稲荷様の神職さんにおたずねしたところ、笠間の示現流は現在でも御健在とのこと。

  神道流
ただし、当時はどんな呼び方だったか不明。
天真正伝なになに、香取流などと言ったか。

  北辰一刀流
唯心一刀流もそうだが、単に一刀流と書いた資料がよくあるので、はなはだ注意を要する。
なお、長岡藩に北辰一刀流があったかどうかは未確認。

  神道無念流
これも単に無念流と書いた資料がよくある。
長岡藩でもおこなわれた。

 

 現在の状況

石岡久夫先生・岡田一男先生・加藤寛先生の『日本の古武術』(新人物往来社1980)、83ページに、『この流派は俊定の高弟杉浦三郎太夫正景が笠間藩士であったことから、常陸(茨城県)の笠間藩において行われるようになり、現在も同町の「古武道振興会」によって保存継承されている。』とある
(「景正」か「正景」か、本当に笠間藩士なのか、という話は、景正先生のページに別記)

この本が発行された時(昭和55年10月1日第一刷)には、御健在だったのだろうけれども。
調査なさっている方から、笠間では
すでに失伝しているとのメールを頂きました、ありがとうございました。

笠間稲荷様の絵馬堂に、奉納額がだいぶあり、暗くてよくわからなかったが、剣術関連のものは見当たらず。

 

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