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 アンドウ家の行方 その2.3

 備中 松山

 

 藩の名前

松山藩、備中松山藩板倉周防守など。
全国各地のほかの松山(特に伊予)とまぎらわしいうえに、朝敵になったので、明治2年(1869年)10月だか11月2日だかに、
高梁藩(たかはしはん)と改称した。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

池田家は、外様、城主。6万3千石。『諸国城主記』では6万5千石。

水谷家は、外様、貞亨元年(1684年)から譜代、帝鑑間詰、城主。
 5万石。
 寛文4年(1664年)7月18日、弟に2千石わけたので4万8千石。
 延宝5年(1677年)閏12月27日、新田で補ったので、ふたたび5万石。

安藤家は、譜代、雁間詰、城主。6万5千石。

石川家は、譜代、帝鑑間詰、城主。6万石。

板倉家は、譜代、雁間詰、文久〜慶應年間は溜間詰、城主。
 5万石。
 官軍に刃向かったので、明治2年(1869年)2月から2万石。

 

 位置と、土地の性格

備中国上房郡そのほか。
現在の岡山県
高梁市付近。岡山県の中西部、岡山の北西、倉敷の北あたりに位置する。

備中の中心地であるばかりでなく、中国地方全体の戦略上の要となる場所。
しかも大物の強剛の大名の勢力がぶつかり合う境界の位置にあり、しかも中国地方の武士は汚い陰謀がとても得意だから、昔から争いが絶えず、領主がコロコロ入れ代わった。

名前のとおり、高い山の上に要塞を築いているのが特徴。
美濃岩村、大和高取と並んで、日本三大山城のひとつ。
天守が現存するものとしては日本で最も標高の高い城、というより唯一現存する山城天守。あまりにも険峻すぎて取り壊すこともできず、貴重な遺構が後世に残った。重文。

現在は野生の猿に占拠されており、電流柵による攻防戦が繰り広げられているという。

遅くとも天正3年(1575年)までには、ふもとに「御根小屋」という別館がすでにあり、こちらを住居や政庁にしていた。
その後、(おそらく同じ場所に)小堀政一殿も御根小屋を整備して、それを水谷家も補修している。その跡地は現在、県立高梁高等学校。
山城とは名ばかりで、実際には、平時に登り降りしたくないのである(笠間藩も同様)。

池田家の時は、備中国上方(房)郡ほか。

水谷家の時は、備中国上方(房)郡・英賀郡・哲多郡・河(川)上郡・下道郡・賀夜郡・浅口郡。

安藤家の時は、備中国上房郡・川上郡・賀陽郡・下道郡・哲多郡・阿賀郡・浅口郡。

石川家の時は、備中国上房郡・阿賀郡ほか。

板倉家の時は、備中国上房郡・川上郡・賀陽郡・下道郡・哲多郡・阿賀郡・浅口郡。
明治2年(1869年)9月2日からは、備中国上房郡・賀陽郡・川上郡。

浅口郡の玉島(高梁川の河口付近。現在の新倉敷付近)は、飛び地。
水谷家の普請奉行、大森元直殿による新田開発がおこなわれ、閘門を備えた運河「高瀬通し」を作ってあった。
備中松山は教育水準が非常に高い地域であるにもかかわらず、13世紀末の中国で通恵河が作られたことが全く知られておらず、「世界初の閘門式運河は、高瀬通しだ!」と誰もが思い込んでいたという。

現在の備中松山は過疎化が進んでいるが、吉備国際大学があるので学生街になっているという。

 

 藩主と、藩の性格

  三浦秋庭家、5代

鎌倉幕府は、将軍家(源氏本家)が絶えたところを、後鳥羽上皇の倒幕軍に攻められたが、コテンパンに返り討ちにした。
この時の恩賞として、相模の豪族の
秋庭重信侯が、備中国有漢郷の地頭に任じられる。
最初は有漢郷に台ガ鼻城を築いた。

臥牛山の4つの峰、大松山・天神丸・小松山・前山のうち、大松山に、備中松山城の前身となる砦を築き、本拠を移す。延応2年-仁治元年(1240年)。

  三好高橋家、4代または3代

備中の守護は高橋氏に代わる。高梁というのは、この高橋。
元弘元年/元徳3年(1331年)、
高橋宗康侯が入城。

その息子の範時侯が、地名も松山、城も松山城と名付けたらしい。

この高橋氏の時に、備中松山城を小松山まで拡張する大規模工事をおこない、宗康侯の弟を小松山に配置していたというのだが、それにしては高橋氏はすぐに去ることになる。

北条仲時侯の六波羅探題軍に参加して惨敗、宗康侯も範時侯も亡くなる。元弘3年/正慶2年(1333年)。
鎌倉幕府は終わり、高橋家は窪屋郡(倉敷)の流山城へ移る。

  高階高家

正平10年/文和4年(1355年)、高師秀侯が、備中松山城の城主になる。
高氏は、尊氏公の執事など、室町幕府の重職をつとめた一族だが、足利直義侯の裏切りでほとんどが討ち死にし、師秀侯はその忘れ形見。

しかし秋庭家にすぐ下克上される。

  三浦秋庭家、2回目、7代

秋庭家は高家の執事になっていたが、秋庭重明侯は師秀侯に対し謀反。
山陰地方の守護の山名氏から支援を得て、師秀侯を追い払い、備中松山城を取り戻して復活をはたす。正平17年/安安2年-貞治元年(1362年)。

備中の守護はだいたい細川氏が世襲していたが、細川氏同士でも対立があり、室町幕府の守護大名なんてたいしたことないので、だんだん群雄割拠になってくる。

しかも秋庭氏は、赤松満祐侯の反乱を討伐したり、応仁の乱でも細川勝元侯に味方したり、中央寄りで活躍したので、元明侯の時にはもう京都に住んでいて、松山にいなかったらしい。

元重侯のとき、備中松山城を捨てて有漢郷に戻り、帰農して庄屋になってしまった。
子孫は、のちに板倉家の家臣になった者もいた。

  備中上野家、3代(実質的には2代)

永正6年(1509年)頃から、足利氏の庶流の上野信孝侯が、一応、備中をまかされたが、この人もほとんど留守がちで、中央にいて室町幕府に直接仕えており、長男も同様。
備中松山の実際の守護代や城主は、次男の
上野頼久侯がやっていた。
このころ、城をだいぶ整備したらしいが、やはり大松山が本丸で、小松山に弟を配置していたらしい。

その息子の頼氏侯が継いだが、周防の大内氏の影響下に組み込まれる。
さらに、庄家に攻め込まれて討死にした。天文2年(1533年)。

子孫は大友家に拾われたり、帰農して庄屋になった者もいたという。

  児玉庄家

庄家は、小田郡の猿掛城(猿懸城)の城主。荘とも書く。備中の守護代を勤める家のひとつ。
平安末期に、武蔵の児玉七党の旗頭、庄氏が、備中の地頭に任じられて、はるばる関東からこの地に来たのだが、その後あまりパッとしていなかった。

庄為資侯は、守護の細川家の御威光と、出雲の尼子家の軍事力を後楯にして、勢力を拡大。
天文2年(1533年)、上野家を滅ぼして、猿掛城から備中松山城へ本拠を移した。
備中半国1万貫、3郡を支配下におさめ、全盛期を迎える。

猿掛城には、同族の庄実近侯(穂井田実近、穂田実近とも)を配置。

これ以降も、一応、庄為資侯が備中松山をずっと統治していたらしいのだが…。
尼子家に臣従させられていたり、尼子家から出向してきた監視役だか外部顧問だかが貼り付いていたり、石川氏など他の守護代に圧迫されたりして、庄家にはあまり実権がなかった時期が少なからずあったらしい。

16世紀なかばから後半にかけての備中は、正確なところは全然わからないが、以下だいたいの流れだけ書いておくことにする。
実際には、もっとこまかく、圧迫されたり盛り返したりを繰り返していたはず

「表向きだけ和睦しているが、堂々と謀反の準備をしていて、ちっとも臣従していなかった」とか、「盟主におさまっているが形ばかりで、国人たちはバラバラに動いていて、全然まとめきれていない」とか、いろんなことがあったと思われる。

  京極尼子家

尼子家の支援で備中松山城主になった為資侯だが、結局のところ尼子家も備中が欲しいわけで。
天文5年(1536年)から
尼子詮久侯(のち晴久)が備中に攻め込む。

尼子家は、出雲の守護代をクビになって落ちぶれたのを、見事に返り咲いた、尼子経久侯の家。詮久侯はその孫。

天文7年(1538年)頃には、備中の国人ほとんどが尼子家の配下におさまってしまう。

  児玉庄家、2回目

天文9年(1540年)、尼子詮久侯は、毛利元就公の本拠を攻めに行く。
毛利家は、かつて尼子家の子分だったのが、大内家に寝返った家。
圧倒的な兵力差だったにもかかわらず、尼子家は負けて、追い返された。

これで尼子家は評判ガタ落ちになり、今まで尼子家を恐れて服従していた人々がいっせいに独立したり、大内家に寝返ったりした。
天文10年(1541年)、すでに隠居とはいえ実質最高指揮官の尼子経久侯が、なぜか急死する。

備中でも尼子家の影響力が薄れ、庄為資侯とその一族が勢いを盛り返したらしい。

庄氏に圧迫された三村家親侯は、毛利氏に応援を要請したため、このあと備中に毛利氏が介入することになり、のちに毛利氏に全部持っていかれる原因になる。

天文21年(1552年)、尼子詮久あらため晴久侯は、出雲・隠岐・備後・伯耆・備中・備前・美作・因幡と、中国地方東側ほとんどの守護を兼任。

天文22年(1553年)、三村家が、毛利家の支援のもとに、庄家を攻める。
というより、毛利軍本隊による本格的な備中侵攻。
三村家の長男の元祐君を、庄一族に養子に迎え、庄元資(穂井田元資)と名乗らせ、猿掛城の城主に据えるという条件で和睦になった。

そのあと、どういうわけか為資侯が亡くなる。
毛利元就公にとって都合悪い人間は、たいてい、都合良く死ぬのである。

のちに、元就公の四男(毛利元清侯)が送り込まれて、元資侯の養子になり、「穂井田元清」になる。吉川家や小早川家の時とだいたい同じパターン。

  京極尼子家、2回目

赤の他人の三村氏が、庄(穂井田)を名乗って、庄一族の故郷の猿掛城で城主をやっている。
この状況は、本家を乗っ取られたようなもので。

為資侯の実子の高資侯は、不愉快だから、元資侯と対立。尼子家に応援を頼んだ。

そしたら、尼子家から吉田義辰侯という武将が出向してきて備中松山の城代におさまり、元資侯を監視、というより高資侯を駆逐。
高資侯は猿掛城に逃げ込んで、大嫌いな元資侯の御世話になる。

永禄2年(1560年)、尼子晴久侯は、三村家親侯と戦って勝利。

  児玉庄家、3回目

永禄3年(1561年)、なぜか尼子晴久侯が急死。脳溢血か何かだというが。
永禄4年(1561年)、三村家と毛利家が、備中松山城を落とす。吉田義辰侯は自害。

尼子家の影響力を消してもらったので、ふたたび備中松山は庄高資侯のものになり、備中松山城に戻った。ところが…。

  備中三村家、2代

今度は三村家親侯が備中松山城に入り浸って、またまた庄高資侯は監視下に置かれ、傀儡にされてしまったらしい。

三村氏も地元の人ではなく、赴任してきた小役人の末裔。川上郡の鶴首城(成羽城)の城主。
かつて大内家に仕えていたが、大内家が滅びた後は毛利家の手先として活躍した。

永禄5年(1562年)、毛利隆元公が、備中と長門の守護に就任(この前年に安芸、翌年に周防も)。
尼子氏の時代は終わり、毛利氏が中国の覇者になりつつあった。

家親侯は、となりの美作国へ領地を広げようとして、宇喜多家と対立。
永禄6年(1563年)頃から戦闘状態に入る。
永禄8年(1565年)、家親侯は美作へ侵攻したが、宇喜多家に撃退されて敗走。

宇喜多直家侯は暗殺の達人だった。
永禄9年(1566年)2月、家親侯はふたたび美作へ侵攻したが、夜中に会議をしていたところを2人組の刺客に襲われ、鉄砲による狙撃という珍しい方法で消されてしまう。

このころ、尼子家はひとまず滅びて、山中幸盛殿の七難八苦が始まる。
剣術史の穴場中の穴場、ものすごく重要な人物なのだが、話がややこしいうえに異様に長いので1.4Gで。

三村家は、次男の元親侯が継ぐ。
毛利家に応援を要請したが、宇喜多家と毛利家は同盟してしまった。

三村家にしてみれば、味方してくれるはずのボスが、親の仇とラブラブになってしまった。
せっかく今まで、毛利家のために、がんばって働いたのに。

永禄10年(1567年)、元親侯は親のカタキを取ろうと2万の大軍で攻めたが、宇喜多軍5千に敗れる。
いつも二枚舌だの日和見だの毒殺だの公文書偽造だの、宇喜多家は卑怯な陰謀ばかりやってるから、正々堂々と戦うのが弱いのかと思ったら、普通の合戦もめちゃくちゃ強かった。

  児玉庄家、4回目

このころになっても、まだ一応は、庄高資侯が備中松山城を管理していた。
三村家が落ち目になったので、少し身軽になれたらしい。

  宇喜多家

毛利家は豊後の大友家と戦うのが忙しくなり、備中の武士はその手伝いで北九州に出かけ、手薄になった。
そこへ、宇喜多家が攻めてくる。

高資侯をはじめ備中の国人たちは、降伏したんだか寝返ったんだかして、本領安堵される。
永禄11年(1568年)、庄家は、宇喜多軍の一員になった。

この年、宇喜多家は毛利家を裏切って、尼子家と同盟。

宇喜多直家侯は、先祖が何だかよくわからない家。例によって、自称百済の王族の末裔とか、そのたぐい。
「外道大名」、「佞智の邪将」、「勝てれば何でもいい主義」、「虚偽第一」、「心もケツも腐ってる」などと、汚い手口が抜群にうまくて天才的策略家だった。
尼子経久侯・毛利元就公と並んで「中国三大謀将」、斉藤道三侯・松永久秀侯と並んで「日本三大悪人」などと呼ばれている。

同時代のほかの戦国武将は、もう少し、武士の誇りを汚さずに生きたのだから、「戦国時代だったからしょうがない」という言い訳は通用しない。
それを言うなら「中国地方だったからしょうがない」である。
尼子家も毛利家も宇喜多家も、となりの奴が卑怯者なので、自分だけバカ正直をやっていては維持できなかったものと思われる。もし正々堂々と戦いたかったとしても状況が許さないという、謀将の巣窟が中国地方なのである。

  備中三村家、2回目

永禄12年(1569年)、毛利元清侯ひきいる毛利軍が、備中を取り戻しに来て、毛利三村連合軍VS宇喜多軍の戦いになり、宇喜多家が勝つ。
この時点で備中松山城を落として高資侯を駆逐したとかいう説もあるらしいが。

永禄13年-元亀元年(1570年)、宇喜多家はさらに備中侵略。
元亀2年(1571年)、出撃していて手薄になっていた備中松山城を、三村元親侯が乗っ取り、高資侯は死亡。

毛利家は三村元親侯に備中松山をまかせる。
元亀3年(1572年)、鶴首城から備中松山城へ本拠を移し、ついに三村家は念願の備中松山の支配者になった。と思いきや、しょせん三村家は毛利家の道具にすぎないのだった。

宇喜多家は、備前の浦上家(弟のほう。宗景侯)にゆるく従属させられており、永禄12年(1569年)に一度は挙兵したが失敗して浦上家の傘下に戻っていた。もう一度、下克上したい。

毛利家は、元亀2年(1571年)に元就公が亡くなったばかりで、天下取りの正念場でもあった。
かつて浦上家の兄弟が、尼子氏に従う従わないで対立した時、尼子氏を倒したい毛利家が手伝ってやって、おかげで浦上家は備前国を手に入れたのに、今では織田家の手先になって毛利家の敵になってやがるから、毛利家から見れば浦上家は裏切り者。

将軍家、足利義昭公は、信長公の傀儡にされていることに気付き、織田家を敵に回したが勝てるわけがなく、京都を追放されてしまった。織田家以外の大名にがんばってもらいたい。

敵の敵と仲良くしよう、という思惑で一致。
元亀3年(1572年)だか天正2年(1574年)だか、義昭公の仲立ちによって、宇喜多家と毛利家がふたたび同盟。

三村家は、敵の敵と仲良くすることに決めて、織田家と同盟、浦上家を支援。
このことを、たいていの本では、「三村家が毛利家から離反」「三村氏が反旗を翻し」などと書いてあるが、敵側に寝返ったのは毛利家である。
陰でコソコソいつも卑怯な宇喜多家なんぞと手を組んだって、すぐ裏切られるに決まっている、なぜ忠義の三村家を見捨てるのか、と吉川元春侯が猛反対したが、山陽方面担当の小早川隆景公が聞き入れなかったのだという。
のちに宇喜多家は、裏切って織田家に仕え、毛利家を攻めるようになり、それみたことかという話になる。

庄家が長年、手を加えて、小松山を中心にあちこちに砦や出丸を築いて、山全体が大要塞になっていたようだが、三村家の時に、特に本気で備中松山城を強化したらしい。
時代的にも築城技術の高さ、必然的にも山城に籠って滅亡を防ぐという切実さ、なにしろ宇喜多家や毛利家は強剛なので。

織田家をバックにつけておけば、簡単には手が出せないだろう、と三村家は思っていたが、かえって毛利家は危機感を持って、本気で三村家をつぶしにかかる。
もともと毛利家が三村家に協力したのは、備中が欲しかっただけ。
三村家は籠城したが、毛利家は8万の大軍を率いて支城を次々に落とすだけでなく、毛利家の御家芸の調略によって、三村軍から内通や投降が続出。
天正3年(1575年)5月、小早川隆景公に備中松山城を落とされ、元親侯は落ち延びたが6月に切腹。息子も処刑されて三村家は滅ぶ。

  大江毛利家

備中はだいたい宇喜多家と毛利家で山分けになった。
つまり、備中松山は毛利家の領地の東の最前線であり、重要な戦略拠点になる。
元就公も隆元公もすでに亡く、
毛利輝元公を両川が補佐していた。

備中松山城の城代は、天野五郎右衛門殿と、桂民部大輔殿。
『諸国城主記』では、どういうわけか、備中松山城の城主を『天正十年 杉原七郎左衛門家次』から書き始めている。
この人は備中高松城の城代か、丹波福知山の城主のはず。

毛利氏については、徳山のページ。
そして関ヶ原の戦いが終わる。

  (徳川家直轄領〜幕府領)

江戸幕府の代官、小堀正次殿が、備中松山を預かることになった。
備中国内に自分の領地もあるが、それとは別に、『備中一国の代官として政務を執った。』(『藩と城下町の事典』)

『諸国城主記』は、備中松山城主のリストに小堀家の名は無い。城主ではないから。

小堀家は、税金の取り立てがうまくて起用され、公金横領で滅びたという、典型的な官僚の家。

正次殿は検地の達人で、秀長公のもとで郡代を勤めて3千石、その後、秀吉公には5千石で召し抱えられていた。
この6代あとに、御用金11万両を着服して、潔癖日本一の松平定信侯に成敗される。

『日本歴史人名辭典』に、『關ヶ原の役起るや、徳川家康に款を送りて備中松山城を守り、功を以て一萬石を賜ふ。』とあるが、実際には、関ヶ原の時は家康公と一緒に移動していたようで。
1万石加増されたのは慶長5年(1600年)12月18日、
備中松山を管理するのは関ヶ原が終わってから。

『慶長五年東照宮上杉景勝を征したまふのとき供奉し、下野國小山にいたる。これより御麾下に列し、九月關原の役にもしたがひたてまつり、十二月舊領を賜ひ、備中國のうちにをいて一萬石を加増あり。すべて一萬四千四百六十石餘を領し、台命によりて備中の國務をつかさどり、松山城を守り、大久保石見守長安、板倉伊賀守勝重とおなじく五畿七道の政務を相議し、事ごとに連判を加ふ。六年伏見城作事の奉行をつとめ、七年仰をうけたまはりて近江國檢地のことをつかさどり、八年備前國におもむき、制法を沙汰す。』(『寛政重修諸家譜』)

慶長9年(1604年)正次殿が亡くなり、長男の政一殿が継いだ。
『慶長九年遺領を繼、一萬二千四百六十石餘を領し、その餘二千石の地を弟次左衛門正行にわかちあたへ、仰によりて父が例のごとく備中の国務をつかさどり、松山城をあづかる。』(『寛政重修諸家譜』)
これも父と同様、
藩主とか大名ではない。

ところが、歴史書ではなく偉人伝の場合、『藩主』という扱いになっていることもある。
『関ヶ原の戦いでは徳川家康に属し、戦後、備中松山藩(一万四千余石)主に抜擢され、備中(岡山県西部)の幕府直轄領(天領)の支配も担当。』
(川口素生著『江戸諸藩中興の祖』河出書房新社2005)

備中松山藩が1万4千石ぽっちというのも奇妙な話だが、しかし、この著者は岡山県の御出身で、間違えて書くわけがないから、地元の方には、なにかほかの根拠がおありなのかもしれない。

『日本歴史人名辭典』に、『はじめ豐臣秀吉に仕へ、ついで徳川家康に召されて遠江の田一萬石を賜ひ、』とあるが、遠江は領地ではなく受領名。
『十三年さきに駿府城火災にかゝるにより、仰をうけたまはりて普請の奉行をつとむ。この年従五位下遠江守に叙任す。』(『寛政重修諸家譜』)
従五位下は大名クラスであり、すでに1万石以上もらっているのだし、どうしてこれが大名でないのか奇妙。
あるいは、優秀すぎて、家康公が手放したくなかったとか?
大名にしてしまうと、この人は外様だから幕政に参加できないので、代官のほうが使いやすかったのかもしれない。

遠江守だったことから、小堀遠州と呼ばれ、この名前のほうが通りがいい。
茶道家として有名であり、古田重然侯の弟子にあたる。

古田重然侯(織部)は、利休先生なき後の茶道界をリードしていた人。
関ヶ原の時、佐竹家の参戦を思いとどまらせるよう外交したことから、1万石もらって大名になった。
大坂冬の陣では、鉄砲避けに設置した竹束の中に、茶杓に使えそうな竹がないかと思って、戦闘中に夢中になっていたところ、ハゲ頭が月光を反射したため、不審に思った佐竹軍から狙撃され、「ぎゃっ」と叫んで頭をかかえ、ふくさで出血を押さえたので、「数寄者にあった拭い物よ」と、みんなに笑われたという。
織部流は、無為自然よりも人工的作為的、静寂や調和よりも躍動や変化を求める、創造的で華麗な茶道。
また、陶芸・建築・造園などの分野にも及んで、総合的に茶道の新境地を開拓した。

小堀流とか遠州流とか呼ばれる茶道も、織部流と同様、とかく派手なのが特徴で、枯れたネクラなことを言わず、お茶を飲む人が明るく元気になれるような、小ジャレた雰囲気の茶道。
政一殿は、師と同様、和歌・書道・華道・骨董古美術鑑定・造園など幅広い分野において、この時代のトップクラスの達人であり、総合的なデザイナーだった。

西ケ谷恭弘・光武敏郎編『城郭みどころ事典 西国編』東京堂出版2003に、
『御根小屋が建てられたのは関ヶ原合戦後に、小堀正次が備中国奉行として幕府直轄領の当地に入ってからだ。
 このとき山上の中世松山城のうち、大松山を放棄し、小松山を修築したとされる。』
とあるが、すでに天正年間に御根小屋のような建物は存在していたらしく、また、小堀家はずっと頼久寺に間借りしていて、御根小屋に移り住んだのは慶長10年(1604年)頃らしい。

『当時松山城は荒れるにまかされていたので、正次はやむなく城下の頼久寺を仮の住居とした。着任早々の慶長六年から、いわゆる慶長検地を実施している。』(『三百藩藩主人名事典』)

つまり、御根小屋の再建は、正次殿ではなく政一殿がおこなったようで。
親の代から、すでに手をつけていたのかもしれないが。
『政一は、荒廃していた山上の松山城を修築するとともに、その麓に陣屋を再建する。新町・本町などを建設して近世城下町としての基礎をつくる。』(『三百藩藩主人名事典』)

元和5年(1619年)、領地を備中から近江に移して、ついに小堀家は大名になり、近江小室藩を始める。6代で改易になるが。
『元和三年二月、池田長幸が因幡鳥取より入封して松山城主となるが、備中国の領地を近江国浅井郡の内に移されたのは、元和五年九月のことである。』(『三百藩藩主人名事典』)

一説には、元和2年だか3年だかに小堀家に対し朱印状が発行されているらしいが、小堀家に加増された備中国内1万石というのは小田郡かなにかだったので、
小堀家が元和5年まで備中に領地を持ち続けていても、池田家は元和3年に備中松山藩をスタートしても問題なかったらしい。

  池田家(長吉系)、2代

元和3年(1617年)2月10日、因幡鳥取から池田長幸侯が入封。『諸国城主記』では10月5日。

『元和偃武以来、大名として松山に来た最初の大名であり、ここに松山藩の成立をみた。』(『藩史大事典』)
ここからが
備中松山藩のスタート。

この家は三男家で、池田輝政公の弟の長吉侯の家。
長吉侯は、長束正家侯が水口岡山城にこもっていたのを、本領安堵するとウソをついておびき出し、捕まえて切腹させ、城内の金目の物をまきあげるという、やり手の武将。
長幸侯は、その長男。

長幸侯のあとは、長男の長常君が病弱だったので、次男の長純(長教とも)君と半分ずつ相続、と長幸侯が決めた。
欲深い血筋の家で、こんな遺言したのが不幸の元。
寛永9年(1632年)4月4日、長幸侯の弟の長頼殿(旗本3千石)が異議を唱えて、親族会議の席から外されて激怒、抜刀。
長純君は負傷。
長純君の正室の父、伊予大洲藩主、脇坂安信侯は、負傷、幕府に叱られて同7日に改易。
安信侯の弟の脇坂安経君(信濃飯田藩の脇坂安元侯の養子、世嗣)は、死亡。
長頼殿は同6日に切腹。

結局、長常君が、おとがめ無しで全部を相続した。

ところが、長常侯の長男は早死に。あとは女児しかいない。
寛永18年(1641年)9月6日、跡継ぎがないまま長常侯は亡くなり(33歳)、お取り潰し。

長常侯の弟(次男または三男)の長信君が、1千石を与えられ、旗本として家名存続した。

婿養子を入れようとしたが、許可が降りる前に長常侯が亡くなってしまったのだという。
なぜ、もっと早く養子を検討しなかったのか。よほど急死だったか。
ここで何か騒動があったようなフシもあり、改易はもっと早い時期とする資料もある。

『諸国城主記』では、『寛永十五年家中より公事おこり達上聞依而長常流罪』。
『日本系譜綜覽』では、『寛永十六、九』『無嗣』。

  (幕府領)

備後福山藩の水野勝俊侯が、備中松山城の城番を勤めた。
熊本藩加藤家の改易処理もやった人で、武将としても優れ、ものすごい善政をやった名君。

松山城の受け取りに来た福山藩士たちが、いずれも質素で、地味な木綿なんか着ていたので、こんなに欲のない御侍様もあったのか、池田のバカ野郎は何だったのかと、松山の領民たちはカルチャーショックを受けたという。

  常陸水谷家、3代

寛永19年(1642年)7月28日、備中成羽から水谷勝隆侯が入封。
『諸国城主記』では、寛永16年7月28日。

みずのや、と読む。藤原秀郷公の末裔。かつて下館城主をやってた家。
もともと結城家の家老を勤める家であり、
笠間の笠間氏を攻めたことがある。
結城氏は跡継ぎがなくて家康公の次男が継いで松平家のひとつになってしまうが、かえって水谷家は独立した大名になれた。
笠間藩の小笠原家が改易になった時に、
笠間城を預かったのも、この水谷家。

長男の勝宗君が継いで、このとき弟の勝能君に2千石分けた。
勝宗侯のとき、水谷家は譜代扱いに昇格する。
備中松山藩のインフラを築いたのは水谷家だが、特に、この勝宗侯の時に藩が整った。
城の天守も、このころ、現在の姿になった。

勝宗侯の次男の勝美君が継いだが、病弱で。
元禄6年(1693年)10月6日、跡継ぎがないまま31歳で亡くなる。
『諸国城主記』では勝賢、死亡日は11月6日、33歳とする。

遺言によって、勝能殿の孫の勝晴君12歳を養子に入れたものの、まだ藩主になってないうちに11月27日に急死。天然痘。

さらに勝美君の弟の勝時君を養子を入れようとしたが、お取り潰し。
由井正雪先生が幕府転覆に失敗して以降、末期養子の禁止は緩和されていたが、幼君の末期養子の末期養子なんてものは、認可されなかった。こんな大名では、いてもいなくても諸役が勤まらないから。
勝時君は3千石の旗本として家名存続になった。

  (幕府領)

赤穂藩の浅野家が、備中松山城の受け取りに派遣された。

城番を勤めたのは浅野長矩侯のはずだが、ものの本では、しばしば、大石良雄先生が城番と書いてある。名代として実務をおこなったのが大石先生という意味? このへんは忠臣蔵がらみの俗説が混ざっていて、ようわからん。
正保2年(1645年)に、池田輝興侯が改易になった時、赤穂城の受け取りを担当したのが、この水谷家なのである。
今度は水谷家がつぶれるのだが、水谷家の城代家老の鶴見良直殿も内蔵助といい、城を受け渡さずに抵抗しそうな動きがあったのを、大石先生が説き伏せた。
この因縁めいたところが、忠臣蔵の序盤の伏線として、ネタになりやすいらしい。

この時に出張した赤穂藩の藩士たちは、1年半も備中松山に滞在した人もいる(大石先生も)。
そして、このあと備中松山藩主になる
安藤家は、のちに磐城平藩主になる家。

ここで浅野家と安藤家の藩士たちは接触があったわけで、貴殿の剣の御流儀は?みたいな話は当然おこなわれている。
中山先生の話は、磐城平藩のページ。

  三河安藤家(重信系)、2代

元禄8年(1695年)5月1日、上野高崎から安藤重博侯が入封。
『過酷な検地をおこなって備中松山の領民を苦しめたと言われている』とか言われるが、誰に言われているんだか、とんでもないデマらしい。

『 水谷氏の除封後、幕府はただちに播磨国姫路藩主本多中務大輔に領内の検地を命じた。この検地により表高五万石の旧水谷領は、一一万六一九石余となるという過酷なもので、以後、松山領の百姓は困窮と疲弊を子孫に伝えることとなった。』(『藩史大事典』)

水谷家が新田開発を進めておいたので、公称よりも米が採れると思って、思いっきり厳しい設定にしちゃったわけだが、それは姫路の本多侯がやったこと。
安藤家は、そのあとに松山に来たのである。
安藤家が重税をしぼって豪奢にふけるのは、2代あとの信尹侯の時、加納藩に於いてであり、そっちの話とごっちゃになってしまったのではあるまいか。
また、重博侯は老中への出世にともない松山に栄転したので、妬みも受けたのかもしれない。

長男(一説には庶子)の信友君が継いだ。
『諸国城主記』では重興、『重行改』と書き添えてある。
この人も、のちに老中をやった。御家流茶道の開祖、俳句は宝井其角門下。
正室は長岡藩2代目藩主の牧野忠成侯の娘。
宝永8年(1711年)2月15日、美濃加納へ移封。

  三河石川家(家成系本家)

同日付で、山城淀から石川総慶侯が入封。かつて大垣藩をやっていた家。

重税による一揆や強訴を、幼君が処理できるわけがなく、たいして活躍もないまま移封。
延亨元年(1744年)3月、伊勢亀山へ。

この家は伊勢亀山に定着して明治を迎えることになる。

  三河板倉家(本家)、7代

入れ代わりで伊勢亀山から板倉勝澄侯が入封。以後、明治まで板倉家が統治。

この板倉家は、かつて関宿藩をやっていた家。
美濃加納の戸田家とは親戚で、何度か戸田家から正室を迎えている。

陽明学の学者で、藩校の学頭でもある、山田方谷先生が、元締役兼吟味役として活躍し、藩の借金10万両を完済、さらに10万両の蓄財をなしとげる。
幕末には、ほとんど、この人が実質的に領主だったようなもので。
『藩史大事典』に、『幕末期に、鉄器および農具・稲扱・釘などを製造して、江戸で販売する。』とあり、備中鉄を使った鍛冶を専売にして、いい財源だった様子。

6代目藩主の勝職侯はバカ殿で、短気な暴君。男児がすべて早死にだった。

陸奥白河藩の久松松平家から八男をもらってきて婿養子に入れ、7代目藩主、勝静侯にした。
あの松平定信侯の孫、吉宗公の玄孫にあたる。
井伊直弼侯にむかって堂々と反対意見を言ったため失脚、安政の大獄にひっかかったが、のちに、かえって評価され、老中を2度勤めた。

もちろんガッチガチに佐幕であり、勝静侯はまじめに戊辰戦争を戦い抜いて、とうとう函館五稜郭まで行ってしまう。
奥羽同盟に加わる事が徳川家の利益になるかどうかはともかくとして、ゆるぎない忠誠心に関しては日本国どこの誰にもひけをとらない人であり、海舟先生なども大絶賛している。

  (明治政府、岡山藩占領下)

朝敵になったので、新政府からは叱られたが、悪気はない。忠誠心だから。

備中松山の街と民衆を戦火から守るため、主家を存続させるため、方谷先生は藩主の留守中に独断で、降伏と、勝静侯の隠居を決定してしまう。

慶応4年(1868年)1月18日、備前松山城は無血開城し、官軍(岡山藩)の占領下に置かれた。
このころ岡山藩の藩主は、まだ池田茂政公。慶喜公の実弟だったため官軍をやりにくいので、このあと隠居して、岡山藩主は交代になる。

板倉勝静侯は藩士たちの手で江戸に連行され、自首するよう藩士たちに迫られ、謹慎、禁固刑。
『自訴して禁固(分家の安中藩主板倉家に永預)に処せられた。』(『藩史大事典』)

慶応4年(1868年)1月29日、勝静侯は備中松山藩主ではなくなる(『藩史大事典』)。
備中松山藩は、いったん消滅。以後19ケ月間、存在していなかった。

  (明治政府下の藩主・知藩事、三河板倉家(本家))

方谷先生が奔走して、4代目藩主の十一男の四男というのを養子に入れて、8代目藩主、勝弼侯にして、2万石とはいえ藩の存続が許された。
誰に許されたかというと、徳川幕府ではなく明治政府が、藩を運営してよいと認めたということ。

明治2年(1869年)9月2日から、勝弼侯は、備中松山藩主(『藩史大事典』)。
備中松山藩は見事に復活。9月17日に備中松山城も返還してもらえた。

8月だか9月だかに、勝静侯の謹慎も解けたという。
11月2日、版籍奉還。

このあと廃藩置県。板倉氏の血筋に戻って終焉を迎えたということ。

 

 江戸屋敷

  水谷勝宗侯(願い譜代に昇格後)
桜田。
なお、旗本の水谷勝時殿の屋敷は三田新堀。

  板倉家
   上屋敷
外桜田。現在の千代田区内幸町一丁目、帝国ホテル。
北は道と濠を挟んで牧野越中守邸(
常陸笠間藩上屋敷)。東は道と濠を挟んで町屋。南は薩州殿(薩摩藩島津家中屋敷。いわゆる装束屋敷)。西は、道を挟んで丹羽長門守邸(播磨三草藩上屋敷)、濠と道を挟んで松平肥前守邸(佐賀藩鍋島家上屋敷)。
   中屋敷
木挽丁。現在の銀座三丁目、ホテル銀座ダイエーの周辺一帯。
北は堀田嶋之丞邸。東は濠。南は西尾隠岐守邸(遠江横須賀藩中屋敷。この家は
小諸藩をやっていたことがある)。西は町屋。
   下屋敷
市谷。現在の市谷台町、台町坂の両側周辺一帯。
北は道を挟んで御先手組。北東に安養寺。東は町屋。南東は御先手組。南西は道を挟んで修行寺と修法寺。北西は米倉丹後守邸(武蔵金沢藩下屋敷)。

 

 藩校

延亨3年(1746年)、本丁(現在の内山下。御殿坂の南)に、「学問所」を設置。詳細不明。

寛政年間(18世紀末)、藩校「有終館」を設立。
『藩史大事典』では、学問所を『改称』したというような口ぶりだが、ほとんど新設に近い、本格的に藩校らしい藩校の始まり。
要するに寛政の改革であり、藩主はあまり乗り気でなかったが、野村必明殿(号、竹軒)という学者の進言により、しかたなく設置したということらしい。
このあと廃止が検討されたこともある。学風は実学寄りだという。
『経費はすべて藩費より支出された。』
『藩士の教育を目標とし、文武両道の兼修。』
『漢学を主とし、『日本外史』などの素読、講義、
剣、槍、弓、馬、砲。』(『藩史大事典』)
備中松山には柔術も水術も伝承があったが、藩校で扱ったかどうかは不明。

校名は、初代学頭の芦田君徳殿(号、黙翁、北溟とも)が、「日知」と「有終」を候補に出し、勝政侯が選んだという。
おそらく『詩経』の、有終の美云々に由来すると思われるが、まさに板倉家の忠節を予言するような校名だ。

天保3年(1832年)、類焼。
その後、学頭の奥田盛香殿(号、楽山)の進言により、中之町に移転で再建。規模は拡張。

天保10年(1839年)、ふたたび焼失。

嘉永4年(1851年)、学頭の山田球殿(号、方谷)による再建。
このころ藩主は名君の勝静侯で、学問おおいに奨励される。
どこの藩でもたいていそうだが、藩士の子弟には入学をほとんど義務化していた。有終館の場合、6歳くらいで入学。寄宿生もいたらしい。

文久元年(1861年)、学頭の三島毅殿(号、中洲)による改革。『西洋の学術を兼採、』(『藩史大事典』)

講師陣は、校長の「学頭」1名、偉い指導者「会頭」10名、素読を教える「句読師」20名、ほかに「督学」「文武目付」などの役職があった様子。

慶應3年(1867年)、改革。『洋制を参酌して文武の諸制を釐革する。』(『藩史大事典』)
明治4年(1871年)、廃校。跡地は現在、高梁幼稚園。
明治12年(1879年)9月14日、民間の手で再興。館長は荘田子栗氏(号、霜渓)。
明治20年(1887年)2月1日、荘田子栗氏の逝去にともない廃校。

そのほか。
江戸屋敷にも学問所があり、川田毅卿殿(号、甕江)などが教えていた。

嘉永6年(1853年)、玉島に、郷校(藩校の分校のようなもの)が設置され、慶應2年(1866年)まで存在していた。
同様の郷校が、ほかに、野山・鍛冶町・八田部にもあった。

藩校学頭から名もなき藩士まで、儒学から単なる読み書きまで、現役中から隠居後まで、自宅に家塾を開設することおびただしく、藩内には俳人や詩人も多くて、大変に文教の藩だったという。

 

 唯心一刀流継承者

いたという話を聞かない。

 

 他の剣術の主なところ

  おそらく藩に正式採用されていた剣術

   直心影流
御存知のとおり。赤羽永蔵先生、幾田伊俊先生、中村鷲峰先生など。

   直心流
『藩史大事典』には、この流派名で、赤羽永蔵先生と石川一郎先生を掲載している。
直心影流は改称と異説が多いので、念のため書き分けておく。

   神陰流
熊田恰矩芳先生、磯村源五左衛門先生。
一説には
神影流だともいうが、宇和島伝だから陰のはず。

   新影流
『藩史大事典』は、神陰流のことをこう表記して、熊田磯村両先生の名を挙げている。
シンカゲ流は替字が多いので、念のため書き分けておく。
伊予松山に真影流があり、いろいろと話が混乱しているおそれがある。

  やってた人は藩士だが、流派が藩に正式採用されていたかどうか

   斎藤派無念流
桑野武彦先生は、まず熊田先生から神陰流を習ったあと、井汲唯一先生(練兵館塾頭、津山藩)から
神道無念流も習ってらっしゃる。
そして、そのあと、藩校の剣術師範に就任なさっているのである。
神道無念流の斎藤系は、強打を専らとするから、「斎藤派無念流の影響を受けた神陰流」だけでも、神陰流とはだいぶ違う可能性がある。

   神妙流
   加藤田神陰流

板倉杢先生、清水壽助先生、団藤善平先生。
この人たちは、津藩の渡辺内膳先生から神妙流を、久留米藩の加藤田家から神陰流(おそらく秀重先生から加藤田神陰流)を学ばれたのだが、これは、一説には勝静侯が命じて遊学させたのだという。
しかも、帰参後には、備中松山藩内で剣術を指導なさっているのである。

備中松山藩では、槍や砲も、津藩や柳川藩や江戸へ留学させている例がある。

   神明流?
谷三十郎先生は、新選組七番組長にして原田先生の槍の師匠であり、剣は直心影流ということになっているが、じつは槍なんて全然おやりにならない剣術家であり、直心影流というのも父親がそうだったから父親から習ったことは習ったらしいが、御自分が指導なさっていたのは神明流だったという説もある。
神妙流の替字だとすれば、もしかすると神明もシンミョウと読むか。
じつは武蔵先生の系統(と称するもの)に円明ならぬ神明と冠した流派がかなりあり、また、武蔵玄信先生がおっしゃるところの円明流はエンミョウだったらしいのだが、このへんの話は「文庫」で今後やっていく予定。

   電撃流
   天与剣術

端山郷右衛門尉惟貞先生、水谷家のちに安藤家の家臣。
電撃流を習い、天啓を得るところあって「天与剣術」と称してらっしゃったのが、流派名だった様子。

  藩には採用されていないが、領内でおこなわれていた剣術

   神道流
どの神道流か不明。伊予松山の新當流と話が混乱しているおそれがある。

   東軍流
詳細不明。東軍流の伝系の中でも特に不明な系統。

 

 現在の状況

不明。
修学旅行で倉敷に寄ったのがせいぜいであり、この地域は全く手が届かないです。
中国地方はマニアックな流派が多くて、いずれ本気で調べに行こうとは思っているのですが、これをやり出すと、山陽東半分だけでも数年間はかかりっきりになると思う。
そのくらい中国地方は濃い所なので、どなたか現地の篤志の方が本気出してライフワークにしてくださるとありがたいんですが。

 

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