←戻る 

 

 アンドウ家の行方 その2.2

 上野 高崎

 

 藩の名前

高崎藩、上野高崎藩。松平右京亮など。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

酒井家は、譜代、帝鑑間詰、城主。5万石。

戸田松平家は、譜代、城主。5万石。

藤井松平家は、譜代、雁間詰、城主。5万石。

安藤家は、譜代、雁間詰?、城主。5万6600石。
 寛永10年(1633年)6月27日、加増により6万6600石。
 明暦3年(1657年)11月21日、6万石。『総社領の六六◯◯石分与』(『藩史大事典』)
 寛文4年(1664年)5月28日、碓氷関、杢ヶ橋関を預かる。

大河内長沢松平家は、譜代、雁間詰、亨保2年1月から黒書院詰、城主。
 5万2千石。
 元禄14年(1701年)3月18日、6万2千石。
 宝永2年(1705年)4月29日、一説には宝永元年(1704年)12月26日、7万2千石。

間部家は、譜代、側用人のち雁間詰、亨保元年5月から溜間詰、城主。5万石。

大河内長沢松平家(2回目)は、譜代、
 天明元年11月から雁間詰、
 文政元年から溜間詰、
 文政5年から雁間詰、城主。
 7万2千石、老中首座に出世したため明和8年(1771年)12月15日から8万2千石。

石高は異説が多いが、ここではおおむね『藩史大事典』に従う。

 

 位置と、土地の性格

現在の群馬県高崎市付近。群馬県の南部に位置する。
群馬県の特徴を盛り込んだ御当地名物『上毛カルタ』に、「鶴舞う形の群馬県」と言われているところの、南側の翼の根元に相当する。

酒井家、戸田家、藤井松平家の時は、上野国群馬郡・片岡郡。

安藤家の時は、上野国群馬郡・片岡郡、近江国神崎郡・高島郡。
寛永10年(1633年)6月27日、上野国群馬郡総社を加増。

近江国の部分は、「高崎藩の飛び地」ということだが、のちに幕府領になり、元禄時代には稲垣家に与えられて山上藩になった。
ところが、どういうわけか、山上藩の最初の藩主は安藤重信侯ということになっている。
小藩で、なにも自慢するものがないので、安藤重信侯は有名な名君だから、山上藩の領民たちがあやかろうとして、2つの藩を同時にやっていたかのように歴史捏造しているだけなのか。
それとも、江戸時代初期の制度確立過渡期には、そんな変則的なこともあったのか。
『藩史大事典』の山上藩の歴代藩主年表には、安藤家を並べてあるが、欄外に『*原則として居城地を藩名としているので、正確には
安藤家は山上藩主ではないが参考のため付した(高崎藩参照)。』とある。

大河内長沢松平家の時は、上野国群馬郡・片岡郡、武蔵国児玉郡。
元禄14年(1701年)3月18日、上野国群馬郡・片岡郡・碓氷郡、河内国丹北郡・八上郡・若江郡・讃良郡・河内郡・丹南郡。
宝永2年(1705年)4月29日、上野国群馬郡・片岡郡・碓氷郡、武蔵国児玉郡・新座郡、下野国都賀郡・河内郡、下総国結城郡・猿島郡、河内国丹北郡・八上郡・若江郡・讃良郡・河内郡・丹南郡、摂津国住吉郡・豊島郡・川辺郡。

間部家の時は、上野国群馬郡・片岡郡・碓氷郡、摂津国西成郡、下総国海上郡、相模国の内。

大河内長沢松平家(2回目)の時は、上野国群馬郡・片岡郡・碓氷郡、下総国海上郡、越後国蒲原郡。
延亨4年(1747年)、群馬郡の一部を、上野国那波郡と越後国蒲原郡に移す。
宝暦2年(1752年)4月、蒲原郡の2万石を摂津国有馬郡・豊島郡・川辺郡、播磨国宍粟郡・加西郡、河内国茨田郡に移す。
宝暦13年(1763年)2月、播磨国と河内国の1万石余を蒲原郡に戻す。
明和8年(1771年)12月、上野国群馬郡・片岡郡・緑野郡に合計1万石を加増。

『未開の地』『秘境グンマー』などと呼ばれる群馬県は、古流武術の宝庫であり、有名なものも現存している。

高崎は昔も今も、上野国・群馬県の中心地。
群馬の県庁所在地は前橋だが、どう見ても高崎のほうが栄えており、前橋には新幹線も通らない。
ブラック企業として有名なヤマダ電機も、起業したのは前橋だが、本社は高崎に置いている。

じつは、もともと群馬県庁は高崎にあり、ちょっと一時的に仮移設とか言って前橋に移して、そのまま固定したので、うっかりだまされた高崎の人々は前橋に対して敵意を燃やしてらっしゃって、絶対に前橋には負けねえでござんすと思って努力を怠らないから、高崎の街はますます繁栄していくのだった。

上野国の平野の多い部分の中央に位置し、関東平野の奥まった所で、三方が山に囲まれ、軍事拠点でもある。

中山道と三国街道の分岐点であり、越後と信濃と江戸の連絡が、ここで一点集中する。
中山道は碓氷峠の関所で、三国街道は杢ヶ橋の関所で、いざという時に封鎖するのも高崎藩の役目なのである。
藩には必ず入口出口があり、街道や水運でどこかとつながっているから、どんな田舎の小藩でも「交通の要所」とかなんとか言い張るのが常だが、高崎こそは本当の本当に交通の要所であり、それは現在も変わらない。

老中や側用人の領地に使われ、幕府直轄に近い状態だった。

この付近を新幹線で通ると、「高崎名物ダルマ弁当」なるものを売りに来る。
高崎には少林山達磨寺があり、ダルマの生産量日本一で、正月にダルマ市が開催されて大量に叩き売るが、なぜか、弁当も高崎名物らしいのである。
「高崎名物ダルマ、…弁当」の意かとも思ったが、群馬県の特産のこんにゃくが入っている。
食べ終えた後は、容器が貯金箱になる。

駅の西側の山の上に、巨大な観音像がある。肩が展望台になっているらしい。

北朝鮮っぽい、何を言ってるのかてんで聞きとれない、と不評の『群馬県の歌』は、じつは良一先生の作編曲、しかも日本最古の部類に入る市民オーケストラ群響が演奏している(これも高崎の楽団)。

都内から行くなら、バイクで行くことをおすすめする。とても面白い道が多く、ちょっと寄り道すれば温泉や湖に寄ったり、うどんや釜飯を食べたり、見どころが多い。下道を行ってもたいして時間かからない。
ついでにライコランドさんに寄って、バイクの部品や用品を物色してる間に、無料で整備してもらえる。上野バイク街よりもよっぽどいい。上野は何でもあるが、あまり安くないし、あのへんを通ると白バイが難癖をつけてきてうるさい。

 

 藩主と、藩の性格

  杉本和田家、代々

地元の豪族の和田義信侯が、平安末期に和田城を築いたという。
以来、ずっとここの領主をやっていたらしい。

戦国時代の当主は業繁侯。上杉・武田・北条という強剛の間で翻弄されつつ、勢力を保った。
母の兄と、妻の父が、蓑輪城主の長野業正侯(信玄公の侵攻をたびたび追い返した名将)だったため、業繁侯も信玄公に敵対したが、降伏して武田家に仕えた。

和田城は、信玄公には落とせたが、謙信公には落とせなかった。
『輝虎一万三千の人数を以て攻けれども終に落去なかりき。』(『諸國廢城考』)

業繁侯は長篠で戦死。
武田家の家中で特に評判のよくない跡部家から養子が入って
信業侯といったが、秀吉公の小田原征伐のついでに滅ぼされる。

そして家康公が関東入り。

  遠江井伊家

天正18年(1590年)、井伊直政侯に上野蓑輪12万石が与えられた。
井伊家の話は、與板藩のページ。

蓑輪城はこの付近では最も本格的な城で、さらに補強改修した。
直政侯が蓑輪城主だったのは8年間くらいだが、ほとんど領地は留守にしていた。

というのは、1590年代には家康公もほとんど伏見や大坂にいて、豊臣政権の幹部をやっていたから。

そのあと、2年半ほど、高崎に本拠を移していた時期がある。
家康公がそうさせたらしいのだが、交通の監視には、街道寄りのほうが良かったのかも。
慶長3年(1598年)8月15日、移封。
領地は同じ12万石、群馬郡・片岡郡・碓氷郡を領有した。
蓑輪城を取り壊し、材料を流用して、和田城跡地に新しい城を築いた。

和田氏の影響を消すため、和田をやめて松崎と地名変更しようとしたが、松も枯れる時は枯れる、高みを極めてそのまま維持がいいなどと僧侶の意見で、高崎に決まる。
静岡県賀茂郡、熊本県八代市、福島県福島市東区、山口県防府市などに、「松崎」がある。
千葉県柏市、京都府京都市左京区、秋田県由利本荘市などに、「松ヶ崎」というのもある。
松崎しげるさんならいいのか?

関ヶ原の戦いが終わり、井伊家は石田三成侯の跡地を与えられる。
慶長5年(1600年)12月、近江佐和山へ移封。のちの彦根藩。
慶長6年(1601年)2月という異説もある。
『寛政家譜に6・2とある。井伊家の略系による』(『藩史大事典』)

家康公が天下を取る前に、井伊家は高崎を去る。
井伊家は高崎の祖ではあるが、
高崎藩の祖ではない。
この時は、豊臣政権の大老が、自分の領地を家来に分けているだけなのである。

  (徳川家直轄領〜幕府領)

ここで少し、間があく。
『信濃国から
諏訪五郎が城番となったが、』と『藩史大事典』にあるが、諏訪頼水侯のことか。

頼水侯は、上野総社2万7千石だったのが、慶長6年(1601年)10月から信濃高島2万7千石。

もし慶長5年12月に井伊家が移封になっていたとすれば、高崎を預かったのは高島藩ではなく、「高島藩を始める前の諏訪頼水侯」ということになる。

というのは、関ヶ原の時も、高崎城は、頼水侯が担当した。
井伊直政侯は主戦場にいたので、高崎の指揮権は一時的に諏訪家に移っていたのである(戦時編成)。

家康公が将軍になるのは慶長8年(1603年)2月12日。

  左衛門尉酒井家

慶長9年(1604年)12月、下総臼井から酒井家次侯が入封。
この時から、江戸幕府の幕藩体制の「藩」としての、
高崎藩がスタート。

この人は家康公の従兄弟。母が家康公の叔母。

新田源氏の支流に、得川(えがわ)という家が2代だけ存在した、ここまでは史実だが、その一族のひとりが徳阿弥という僧侶になって放浪してるうちに三河に来て、酒井家に婿養子に入って子をもうけ、その後、離婚なのか重婚なのか松平家にも婿養子に入って徳川になった、ということになっている(ウソだが)。

だから酒井家こそは、徳川家と同じ始祖から始まる同族の名家であり、四天王筆頭とか、石川家なき後は譜代筆頭とかいうような売り文句になる。

高崎に来た酒井家は、その本家。
のちに庄内藩になる、つまり10万石クラスの家のはずだが、この時期はあんまり恵まれていなかった。
ろくに信康侯をかばうことなく自刃させてしまったり、豊臣側に親しかったり、合戦でイマイチ手柄がなかったりするのが原因だったらしい。

大坂の陣では二度ともたいして活躍していないが、元和2年(1616年)10月15日、越後高田へ栄転。

  仁連木戸田松平家

12月、常陸笠間から、松本引っ越しセンターこと、さすらいの引越大名、戸田康長侯が入封。
ただちに信濃松本へ引っ越し、元和3年(1617年)3月。

  (預かり?)

この程度の期間は、近隣の大名が管理しなくても、戸田家と藤井松平家の家臣たちで受け渡し作業をやっていたか。

  藤井松平家

7月20日、一説には8月、常陸土浦から松平信吉侯が入封。
家康公の五男も松平信吉侯だが、それとは別人。

この人は家康公の甥。生母が久松俊勝侯の娘、つまり家康公の異父妹だった。
桜井松平家の次男の長男として生まれて、跡継ぎのない藤井松平家に婿養子に入った人。
娘は、出羽三春の秋田俊季侯の正室。

桜井も藤井も、家康公の曾祖父の弟たちが始めた分家松平のひとつ。
桜井松平家は、たびたび反乱を起こして、松平本家(のちの徳川家)の地位を横取りしようとして、そのたびに失敗した家。

桜井松平家では、長男が早死にしたので、長男の長男が成人するまでの間、次男が、長男の嫁を妻にして当主になっていたことがあり、その時に生まれたのが信吉侯ということになっているが、異説もある。

元和5年(1619年)、丹波篠山へ移封。
この人も典型的な引っ越し大名であり、国替えが多すぎて病気が悪化、このあと亡くなる。
まじめに御冥福を御祈りします。シャレにならない。

  三河安藤家(重信系)、3代

10月、下総小見川から安藤重信侯が入封。

重信侯には男子がないが、娘さんがいた。

内藤家が、磐城平藩の内藤家に至る途中で、古い時代に分かれた分家のひとつに、内藤忠郷殿の家があった。旗本。
忠郷殿の次男で
正成殿という弓の達人がいて、正室は山城守牧野家の牧野康成侯の娘。
正成殿の三男が、本多忠信侯の養子になって
本多正盛といい、ここへ、安藤重信侯の娘さんが嫁いでいた。
正盛殿は、元和2年(1616年)の日光東照宮造営のとき副奉行で、同僚の山城宮内という人物と意見が対立、刀の鞘で(おそらく鞘刀のことか)打擲したところ、相手は自害してしまった。
東照宮を完成させた後、元和3年(1617年)4月22日、正盛殿も切腹した。
正盛殿には、重長・重元・重矩という息子たちがいて、安藤重信侯が全部、養子に引き取った。

長男の重長君が、安藤家の家督を継いだ。外孫の養子相続。
重長侯の娘のひとりは、秋田盛季侯の正室になっている!

寛永21年(1644年)4月10日、松下家がつぶれ、三春城の受け取りを重長侯が担当する。
こんなことも、のちの唯心一刀流の伝播に、なにか関係あるのだろうか。
安藤家は、慶長19年(1614年)大久保家の小田原城受け取り、元和5年(1619年)福島家の広島城受け取り、寛永9年(1632年)徳川忠長公の身柄預かり、天和元年(旧暦12月だから1682年)真田分家の沼田城受け取りなど、つぶれた大名の後始末をよく担当している。

重長侯は、明暦3年(1657年)9月29日まで藩主、この日、亡くなる。

重長侯の長男(一説には次男)の重之君は、すでに亡くなっていた。
一世代飛ばして、重之君の長男の
重博君が継ぐ。11月21日から藩主。
正室は、美濃加納の戸田松平家、光重侯の娘。
景正先生が唯心一刀流を指導なさっていたのは、この時期のはず。

老中に出世したことにともない、元禄8年(1695年)5月1日、備中松山へ栄転。

  大河内長沢松平家(松平伊豆守家分家)

8月12日、一説には5月10日、下野壬生から松平輝貞侯が入封。

大河内家は、吉良家の家老をやっていた家。
長沢松平家は、かなり早くに分かれた分家松平のひとつ。
大河内家が、長沢松平家のだいぶ遠い分家に養子に入って、松平姓を許されたのが、大河内長沢松平家。
なにかっつうと時代劇の主人公に秘密指令を出している、知恵出づこと松平伊豆守信綱侯の一族である。

高崎に来たこの家は、分家。
信綱侯の五男の信興君が独立して、常陸土浦の大名になったが、その家を、信綱侯の長男の六男の輝貞君が、養子に入って継いだもの。

輝貞君は小姓から成り上がって、綱吉公の側用人を勤めた人で、どんどん出世。
元禄14年(1701年)3月18日、1万石加増。
宝永2年(1705年)4月29日、一説には宝永元年(1704年)12月26日、1万石加増。

将軍が家宣公に代替わりすると、自動的に失脚。
宝永7年(1710年)5月23日、越後村上へ左遷される。
越後村上藩は、幼君大名や左遷大名の、捨て場所として使われていた藩。

土井利勝侯や土屋政直侯のように代々の将軍のもとで権力を振るった人は珍しいことで、江戸幕府は将軍が代われば閣僚もだいたい大幅に入れ替えた。
幕府は将軍家の家政機関であり、じいやは将軍職に仕えているのではなく、その人個人に仕えているのである。
アメリカ大統領のように、気心の知れたイエスマンで固める側近政治ということ。

  西田間部家

同日、相模に領地を持っていた間部詮房侯が入封。
早い話が、今度は家宣公の側用人が高崎に来たということ。

この人は、能役者だったが、甲府藩の綱豊侯にかわいがられているうちに、綱豊侯が将軍家宣公になったもんだから、ドサクサで大名になった。
ただし、父は西田喜兵衛清貞といって綱豊侯に仕えていた人だから、詮房侯は武士の子として生まれており、『容姿頗る美麗端秀なりしを以て猿楽師喜多七太夫の弟子となす』(『日本歴史人名辭典』)ということらしい。

しかも、見どころがあって抜擢された人だから、家柄だけで世襲したような大名とは違って、ものすごく働き者で、優秀でもあった。

次の将軍、家継公は、史上最年少の幼君だったので、詮房侯の腕の見せ所かと思いきや、家継公はすぐ亡くなって、紀伊から吉宗公が入る。
吉宗公は出自よりも実力で人材を用いるが、将軍を傀儡にしかねない側用人制度を嫌っていたので、詮房侯は失脚した。
亨保2年(1717年)2月11日、これまた越後村上へ左遷。

『間部家が松平家に高崎城を渡したのが五月十一日であるのに、松平家では六月三日になり、ようやく村上城を明け渡した。』(大場喜代司『シリーズ藩物語 村上藩』現代書館2008)

初めて村上に入ったのは亨保5年(1720年)7月、旅の途中で発病し、村上に到着後すぐ死亡。
まさに左遷大名の墓場である。
前任の松平家が村上を去る時に後始末をきちんとやっておらず(建物管理がものすごく杜撰)、さらに、このあと洪水・飢餓・大雪・落雷と、間部家はさんざんな目に合う。

  大河内長沢松平家(松平伊豆守家分家)、2回目、10代

同日付で越後村上地獄から抜け出した松平輝貞侯が、入れ代わりで高崎に戻り、老中格に返り咲く。
以後、明治まで、このだらしない松平家が高崎を統治。

関東地方で松平といっても、幕末には官軍の一員になり、長岡撲滅に参加した。

高崎藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月19日。
廃藩時の負債総額、456357両。

 

 江戸屋敷(大河内長沢松平家)

  上屋敷
日比谷門内。現在の有楽町一丁目。

文政6年(1823年)からは西の丸下。現在の皇居外苑。

このへんは入れ代わりが激しくて、当時の隣家が特定しにくい。

  中屋敷
文政元年(1818年)から元御弓町。現在の本郷四丁目、尚美学園の裏あたり。
内村鑑三先生が生まれたという小石川鳶坂上の武士長屋があった。
周囲ちまちまと武家地。北は大善寺。南西は松平丹後守邸(駿河小島藩上屋敷)。

慶應2年(1866年)まで数寄屋橋門内。
現在の新有楽町ビルヂング(ビックカメラの西の、みずほ銀行の入っている黒い建物)付近一帯。
北は道を挟んで松平相模守邸(ママ。鳥取藩池田家上屋敷)。東は道を挟んで松平阿波守邸(徳島藩蜂須賀家上屋敷)。南は永井飛騨守邸(摂津高槻藩上屋敷)。西は土井大炊頭邸(下総古河藩上屋敷)。

  下屋敷
嘉永5年(1852年)から深川・築地。

深川のは、伊勢崎町にあったらしい。現在の清澄二丁目。
『東京時代MAP』では、かなり広い地域が『松平出羽守』となっており、出雲松江藩のようだが、その一角が同じ『松平出羽守』として別扱いになっており、この部分をほかの藩が使ったことがあるのかも。

  抱屋敷
慶應2年(1866年)まで本所石原。『藩史大事典』は、これを下屋敷だとする。
現在の横網二丁目、同愛記念ホームから安田学園にかけての一帯。
北は加納遠江守邸(上総一宮藩)。東は御竹蔵(幕府の建材置き場)。南は松浦豊後守邸(肥前平戸新田藩、ただし上屋敷)。西は道を挟んで隅田川。

 

 藩校

宝暦10年(1760年)、高崎城内、旧三ノ丸馬場跡に、藩校「遊芸館」を設置。
『日本劍道及刀剣』の年表では、宝暦13年だとする。
校名の由来は、おそらく『論語』の『子曰く、道に志し、徳に拠り、仁に依り、藝に游ぶ』。
『教科内容 四書五経・皇朝史略・和書、
槍術・剣術・柔術・薙刀術・弓術・抜刀術。』(『藩史大事典』)

安永3年(1774年)、『火災で閉鎖、槍・剣術の講堂のみ再興。』(『藩史大事典』)

慶應3年(1867年)10月、『城下の寺院をもって仮に和漢学校を開設し、翌年文武館竣工し、明治四年まで続く。』(『藩史大事典』)

慶應4年(明治元年。1868年)1月、代官町(現・宮本町)に、藩校「文武館」を設置。
『教科内容 和漢の学、
槍術・剣術・弓術・抜刀術。』(『藩史大事典』)
この時、柔術・薙刀術は、教科から廃止したのかどうか。

『輝声は洋式の新軍法の導入を図ったり、フランスの将校について実習まで積んだ人物で、幕府の陸軍奉行にもなったほどである。なかなか開明的な思想の持ち主で、自藩の軍制改革にも意欲的であった。この輝声が再興した藩校文武館は、藩籍の子弟がことごとく通学することになっており、これまであった家塾(藩の要請を受けて開いた塾)を廃し、文武学科のすべてをこの一校内に設置した。ここで教授された学科は「和漢学・医学・槍術・剣術・柔術・薙刀術・鎖鎌術・棒術・抜刀術など」であったとされている。英学は学科として入っていない。』(庭野吉弘著『日本英学史叙説 英語の受容から教育へ』研究社2008)
西洋軍制に切り替えていく時に、本当に藩校で鎖鎌を教えていたものかどうか、薙刀や柔術に附属する参考技法群ならあるかもしれないが。

明治2年?3年?(1869〜1870年)、文武館とは別に、「英学校」という英語学校も開設したらしい(『日本英学史叙説 英語の受容から教育へ』)。

明治4年(1871年)、文武館は廃校。英学校は不明。

 

 唯心一刀流継承者

いたという話を聞かない。

 

 他の剣術の主なところ

高崎藩兵は、あまり強くはないが勇敢だったらしい。
水戸天狗党の西上にあたっては、こっそり軍資金を提供して、穏便に通過させた藩もあったが、高崎藩は断固阻止しようとして下仁田戦争になり、36名の死者を出して惨敗、大砲3門と小銃50挺余を奪われている。

  小野派一刀流
藩に公式採用されており、遊芸館でおこなわれていた。
『藩史大事典』に、『剣術 小野派一刀流 津田明聲 文久3年』とあり、そこに書き添えて『(注)武術流派は、宝暦十二年の遊芸館(藩校)のもの。』とあるが、津田先生はのちに天真一刀流を継承なさった。

  霞新流? 霞真流?
これについては、いろいろと自力で古文書原本を見つけて調べてみたが、謎だらけ。
安中藩や小諸藩のことも含めて1Gにて。

  新當流系?
一説には、高崎付近には鹿島様系統の剣術が入っているのではないかというが、未確認。
榛名神社の入口(参道の駐車場)に、高崎市榛名歴史民俗資料館があって、一番奥のガラスケースに、長寸の木刀に厚い木製鍔を付けたものが2口展示されていたのを見たおぼえがあるが、記憶が定かでないので自信ない。

  天真一刀流
中西派からの派生。
寺田先生が平常無敵流に転向なさったのは、竹刀と防具による道場剣術に否定的だったからだが(平常無敵流というのは最もスポーツ競技から遠い剣術のひとつ。小手先の技巧よりも精神的な達観を重視する)、それが中西派に復帰なさったのは、大河内長沢松平家は一刀流でなければ師範に採用しなかったとか、藩主から一刀流の研究を命ぜられたからだとかいう。

なお、「遊芸館」「文武館」いずれも、教科に「抜刀術」があったが、流派を特定できないので、居合流派に付属する剣術内容があったかどうかは不明。

 

 現在の状況

何度も現地調査してますが、唯心一刀流の痕跡は皆無。

 

 ←戻る 

 

広告 [PR]  再就職支援 冷え対策 わけあり商品 無料レンタルサーバー