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 アンドウ家の行方 その1.2

 陸奥 三春

 

 藩の名前

三春藩、陸奥三春藩。秋田信濃守、秋田安房守など。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

加藤家は、外様、城主。3万石。
松下家は、外様、城主。3万石。

秋田家は、外様、柳間詰?、城主。5万5千石。
貞亨元年(1684年)12月30日、家光公の又従兄弟という理由で、譜代格&帝鑑間詰に昇格(『藩と城下町の事典』では、貞亨3年としている)。
慶安2年(1649年)5月14日、弟の季久君に7ヶ村5千石を分知して、5万石に減る。

 

 位置と、土地の性格

陸奥国(のちの磐城国)田村郡三春。

加藤家松下家は、田村郡。
秋田家は、田村郡のほかに、標葉郡(葛葉村、津嶋村)も領地だった。

現在の福島県田村郡三春町付近。郡山の北東、二本松の南東あたり。
地震の被害で有名になった。

『藩と城下町の事典』では、『東北の小鎌倉』、『古刹が点在している』とある。

地名の語源は、「見張る」。標高が高いのである。
まだ大和政権が東北を完全には支配しきれなかった頃から、平野を見渡せることが重宝され、軍事的に重要地点だったらしい。
「梅と桃と桜がいっぺんに咲く」とかなんとか、のちに由来をこじつけた(そんな異常気象が実際にあれば、三春といえども異常だという)。

元禄時代から、張子の人形が特産。
色も意外に派手で、造形に動きがある。
橋本刑部という武将の子孫が帰農して、仙台の土人形「堤人形」をもとに考案したという。

昔のGPZみたいな精悍なデザインの、木製の馬の置物も名物で、子どもさんの健康を願う縁起物らしいのだが、こちらは古いものではなく、大正時代から始まったものだという。
しかし三春駒と言うくらいで三春は馬の産地として知られており、特に秋田輝季侯の時に大いに奨励したという。

かつては最高級の素麺を産出していたこともあった。

都内から鉄道で行くには、常磐線をいわきまで行って、常越東線に乗り換えて三春駅まで行くらしいのだが、いわきまでしか行ったことがないので詳細不明。
常越東線は、とにかく本数が少ない列車で、4時間も待ったりするらしいので、いわきからバスか自家用車かレンタカーで行くほうがいいのかもしれない。

 

 藩主と、藩の性格

というか、会津全体の話にならざるをえない。
会津は幕末だけでも大変に悲惨だが、歴代藩主いろいろと苦労が絶えなかった。

  陸奥田村家、代々

田村郡は、古くは田村氏の土地。
田村は、あの坂上田村麻呂公の田村。
本当かどうかはともかくとして、大昔の征夷大将軍の子孫だということになっている人たちが、みちのくの治安維持のために、この地を支配するのが、伝統的に正当で当然だという空気になっていた。
郡山の守山城を本拠にしていたが、
田村義顕侯のとき、大志多山に三春城を築いて移る。文亀4年-永正元年(1504年)。

  陸奥伊達家

今の福島県部分は、昔から重要地点であり、奥州を封じる盾であると同時に、奥州勢を率いて関東地方を狙える位置でもあり、平泉だの五稜郭だのモンゴルだの、いくらでも撤退して再起を図ることができ、しかも、一説によれば、見た目よりも収入が多い土地だったらしく、蘆名氏や伊達氏が奪い合いをやっていた。
田村氏は伊達家の傘下のような感じになる。
天正18年(1590年)、秀吉公の奥州仕置の結果、田村家を改易にして、ひとまず
伊達政宗公に田村郡が与えられる。

  近江蒲生家、2代

天正19年(1591年)、もう一度、奥州の領地配分の調整があり、三春も含めて会津一帯は蒲生氏郷公に与えられる。92万石。
会津を誰にまかせるべきか、試しに諸将に参考意見を出させたところ、9割の人々が細川忠興公を推したが、秀吉公は「なんじら、愚もはなはだし」と却下、秀吉公が指名したのは氏郷公だったという。

この蒲生は近江国蒲生郡を出自とする一族であり、会津なんてド田舎すぎて、この領地替えには不満だったと伝えられている。
『われ、たとい微禄小身なりとも、都近くにあらば、何ぞのおりにはいかようなる働きをもなして、旗を天下に吹きなびかすこともなろうに、大禄をいまうけたりとは申せ、
山川はるかにへだたりて、白河の関の奥なる奥州出羽の辺鄙にありては、日ごろの本望をとげるは難し』(幸田露伴『蒲生氏郷』)

氏郷公は教養があるのに文弱に流れず、戦国武将には珍しく人格も立派で、とても優秀な人。
一説には、優秀すぎるから、豊臣政権をくつがえせないよう地方へ飛ばしたのだとか。

文禄4年(1595年)2月7日、病死。暗殺説もある。
頭のいい人なので朝鮮侵略に批判的だったから、病死しなくても消されただろうとか。

長男は廃嫡されていたとかで、次男だが実質長男の秀行君が継ぐ。まだ12歳くらい。
秀吉公は、この機会に蒲生家を近江に移すかわりに2万石に減らそうとしたが、秀次公が中止させた。
しかし福島県知事と第6師団長と福島地裁所長を、中学生が一人でやってるようなものだから、御家騒動が発生、これを秀吉公が裁いて、秀行侯だけが厳しく処罰される。

統治しきれないのはわかりきっていたことであり、処罰されるなら秀次公のはずだが、すでに秀次公は2年ちょっと前に切腹させられていて、この世にいないのだった。

とにかく秀吉公は、蒲生家をどかしたかったらしい。
要するに豊臣政権としては、秀吉公の死後に家康公が謀反を起こして上方へ出陣できないように、背後から留守を襲う役目として蒲生家を置いたのに、氏郷侯が亡くなってしまって使い物にならないということらしい。

慶長3年(1598年)1月10日、蒲生家は下野宇都宮12万石だか18万石だかに、大幅な減転封。
これは逆効果であり、のちに蒲生家が豊臣家に敵対したのは、この時の恨みも遠因だという。

  越後上杉家

次は、上杉景勝公が、会津に移転させられる。
越後を離れることには強い反発があり、会津のほか、出羽庄内や陸奥の一部と、佐渡一国も領有することで話がついた。120万石。

秀吉公は上杉家の弱体化を狙って越後から引き離したくて、上杉家の置き場所がほしかったから、蒲生家をどかしたともいう。

石田三成侯は、徳川家をやっつけた暁には越後に戻してあげますと上杉家に約束していたが、関ヶ原の戦いはああいう結果に終わる。
慶長6年(1601年)8月16日、出羽置賜(米沢)30万石に減転封。

これだけでも上杉家はとてつもない没落だが、関ヶ原の戦いの直前に家来を大量増員していて、しかもリストラということをしない恩情あふれる家だから、ものすごく貧乏になる。
このあと上杉家は絶えてしまい、保科正之侯の口利きで吉良家から養子を入れて改易だけはまぬがれたが15万石に没落、さらに見栄の贅沢費を吉良家にカツアゲされ続け、忠臣蔵事件が起きたりで、ろくなことがなかった。
鷹山侯の苦労話は御存知のとおり。

  (会津藩領、近江蒲生家、2代)

宇都宮から蒲生秀行公が戻ってくる。慶長6年(1601年)8月。
関ヶ原の時に上杉家を押さえたことと、嫁が家康公の娘というコネで、60万石で会津に復帰。

ところが、また幼君。
長男の
忠郷君が10歳で継ぐことになり、あいかわらず家中がまとまらず、しかも26歳で亡くなり、しかも跡継ぎがないので、寛永4年(1627年)1月、領地没収。

出羽上山藩をやっていた弟の忠知侯を養子に入れることで存続が許され、伊予松山24万石になった。
忠知侯の
正室は、磐城平の内藤政長侯の娘だったが、子宝に恵まれず、このあと蒲生家は絶える。

  (会津藩領、藤原利仁流加藤家(嘉明系))

2月、蒲生家と入れ代わりで伊予松山から、加藤嘉明侯が会津に入封。40万石。

豊臣恩顧の加藤家は2つあり、清正公は、秀吉公の親戚が取り立てられたもの。
嘉明侯のほうは、もともと武田家の家臣だった家で、三河に移って松平家に仕え、嘉明侯の父の代のとき家康公を裏切って一向一揆に加わった。
嘉明侯は、浪人していたところを秀吉公に拾われて賎ヶ岳七本槍の一人になり、秀吉公なき後は家康公に仕えた。
伝えられている逸話からすると、冷静で地味で堅実で几帳面なタイプであり、塙団右衛門殿みたいな目立ちたがり屋のワンマンプレイが大嫌い。

会津への移封は、一説には50万石が予定されていたのを本多正信侯が減らさせたもので、そうと知った加藤家が抗議したところ、豊臣家を裏切った者があんまり儲かっていると世間から悪く言われてしまうだろう、と言われて、加藤家は引き下がったのだという。
正信侯は、こういう嫌われ役をやっていたらしく、他の外様大名に対しても、領地を少なめにするよう動いている。
正信侯は譜代大名からも嫌われていたから、話に尾ヒレがついているのかもしれないが。

嘉明侯には、長男で跡取りの明成君と、次男または三男の明利君がいた。

  藤原利仁流加藤家(明利系)

寛永4年(1627年)2月10日、加藤明利君は田村郡3万石を分けてもらい、分家。
三春藩がスタート。会津藩の支藩という位置付け。

明利侯は領民から人気がなく、ブーイング的な一揆が起きたりした。
寛永5年(1628年)1月22日、となりの陸奥二本松へ移封。

  遠江松下家

入れ代わりで、二本松にいた松下長綱侯が、同日付で三春に入封。
この領地交換は、前年に二本松藩を父から継いだばかりの長綱侯が、若年(17歳)という理由だという。
5万石を統治するには若すぎるが3万石なら勤まるっていうのが、よくわからないが。
二本松はベテランに任せたい、三春はどうでもいい、ってこと?
この240年後に、三春と二本松は不倶戴天の敵になるのだが、この頃からすでに確執が蓄積され始めていたのではあるまいか。

長綱侯の母は、加藤嘉明侯の娘。
松下家は、加藤家の部下というか、与力大名という位置付けだった。
嘉明侯が会津に入った時に、一緒に、松下家も二本松藩に入っていたのだった。

この松下家というのは、まだ木下藤吉郎にもなっていなかった頃の秀吉公が仕えていた主君。
宗矩先生の奥様の御実家でもある。
ここらへんが、さすが天下の柳生家であり、諜報活動のいい所を押さえてらっしゃる。

ところで、加藤嘉明侯の長男のほう、明成君は、寛永8年(1631年)家督を継いで会津藩主になったが、典型的なバカ殿だったとされている。
歴史上で暴君が酷評される場合、少なくとも一部は捏造である可能性が高いので注意。
必死に諌める筆頭家老と対立が深まり、愛想つかした筆頭家老一味は寛永16年(1639年)、城に発砲、関所を破って出奔。
これを藩兵が追撃、高野山に潜伏したところを、幕府にかけあって身柄を引き渡させ、処刑してしまう。

もともと先代の時から、加藤家の会津統治はとても残忍で、税や労役の負担増、水増ししたような検地などで、大幅な収入増をやっていた。
会津の民衆の苦しみは限界に達し、身売りなども多発、寛永19年の凶作では大規模な逃散があった。農耕を放棄して、お百姓さんが去ってしまうということ。

家来も掌握できず、行政も下手、騒動を起こしたというと、もはや領地の一部没収か転封は確実になった。
ところが明成侯は、病気と称して、なぜか自主的に、会津藩をまるまる返上してしまう。寛永20年(1643年)4月。
『日本系譜綜覽』では、除封の『理由』が『返封』とある。

5月、幕府は、1万石くれてやるから大名を続けろ、息子に継がせろ、と打診したらしいのだが(普通こういう時は、たとえ藩主が強制隠居になっても、息子がわずかな領地をもらって家名存続する)、明成侯は拒否したとか。
息子はいない、と幕府に言い張ったとか。
正室との間には子がなかったが、側室との間に明友君という子がいた。
一説には、子宝に恵まれなかった正妻の気持ちに配慮して、息子はいないと言ったとかなんとか。

結局、この明友君が家督を継ぐのだが、なぜか石見銀山に飛ばされるのである。

『寛永十一年家光に初めて謁見し、同十六年十二月晦日従五位下に叙せられ、内蔵助と称した。父明成は寛永二十年家臣と争論して除封となり、同年五月三日明友が家督を継いで同年六月三十日吉永に移封となり、石見国のうち一万石を賜い入部する。』(『三百藩藩主人名事典』)

『「大猷院殿御実記」寛永二十年五月二日の条に、「奥州会津城主加藤式部少輔明成が所領四十二万石収公せられ、其子内蔵助明友、石見国安濃郡山田にて一万石たまはり、父明成預けらるる旨つたふ」とある。安濃郡山田とあるのは大田の誤記である。』(『藩史大事典』)

この騒動の最中に、二本松藩では、加藤明利侯が変死。寛永18年(1641年)3月25日。
病死ということになっていたが、どうも兄の御家騒動に関連しているとみて、寛永20年(1643年)、幕府は二本松藩も改易してしまう。
妾の子が会津藩主になれるように、弟が本家を継げないように、暗殺だったんじゃないかとか。
もちろん、裏柳生の暗殺部隊の陰謀とか言う人もいる(ありませんから、そんなものは)。
この家は、息子たちがそれぞれ旗本として存続する。

翌年、三春藩の松下長綱侯も、なぜか、三春藩をやめる。
『藩史大事典』では寛永21年(1644年)4月10日、『諸国城主記』では正保2年(1645年)、『日本系譜綜覽』では正保2年(1645年)4月に改易。
加藤家の騒動に関係して連座だという説もあるらしいが、発狂が定説らしい。
『藩史大事典』では、『岳父土佐国高知城主松平(山内)土佐守忠義の願いによって、城地を返上したため、』『岳父高知城主山内土佐守忠義の願いにより封地を収公され、山内忠義に預けられる。』。
『諸国城主記』では、『依乱心断絶』。
『日本系譜綜覽』では、『狂疾』。
『藩と城下町の事典』では、『長綱が発狂したことで断絶し』。
問題を起こす前に親戚が引きずりおろした、ということ。
この家も息子が旗本としては続ける。

意図したものかどうかはわからないが、結果的に豊臣恩顧の藩を一掃できて、一番トクをしたのは幕府。

  (幕府領)

会津の保科正之侯(前年、会津藩主になったばかり)、白河の榊原忠次侯、彦根の井伊直孝侯、磐城平の内藤忠興侯が、三春藩の片付けを担当になり、白河城において協議がおこなわれたらしい。

この時、内藤忠興侯は300騎を率いていたという。
父の政長侯が熊本藩改易の上使をつとめた時もそうだったが、内藤家は、官僚というより、実戦部隊の指揮官という性格らしい。

三春城の受け取りは、高崎藩の安藤重長侯。のちに磐城平藩主になる安藤家。
この人の
娘は、秋田盛季君の正室。
盛季君は、この次の次の三春藩主。

幕府領になった三春を管理した代官は、福村長右衛門正直殿、樋口又兵衛家次殿。
三春城の城番は、陸奥中村藩の
相馬義胤侯。

  安倍秋田家、11代

というゴタゴタの跡地に、常陸宍戸から栄転した秋田俊季侯がやって来る。
正保2年(1645年)から、三春を領有。
『藩史大事典』は8月8日、『諸国城主記』は3月11日からとする。

以後、秋田家が統治して明治に至る。

俊季侯はすぐ亡くなる。
慶安2年(1649年)5月14日、俊季侯の長男の
盛季君が継いで、弟の季久君に5千石わけた。
前述のとおり、
盛季侯の正室は安藤重長侯の娘。
もしかすると景正先生は、盛季侯に関係あるんじゃないか
と思うが、詳細は景正先生のページ。

長男の輝季侯が継いだ。
その長男の
就季君は藩主になる前に亡くなって、男系としてはここで絶える。

秋田家の家臣で、荒木高綱殿というのがいて、秋田実季侯の娘を嫁にしていた。
高綱殿の子が高村殿といって、秋田実季侯の弟の孫娘を嫁にしており、三春藩を牛耳っていた。
高村殿の息子が、就季君の娘の婿養子におさまって、秋田家の当主になる。
頼季侯。
輝季侯は隠居させられてしまう。

以後、この荒木家の血筋になる。

幕末には、陸奥だから位置的に奥羽同盟に加わるしかなかった。
となりの棚倉城が落ちたので、官軍に使者を派遣して恭順の意向を伝えつつ、旧幕府軍に対しては今までどおり味方のようなフリをして、官軍が三春藩に迫ったところでいきなり降伏した。

急に心変わりしたのではなく、三春藩は最初から勤皇だった。
三春町のサイトでは『
時代の流れを素早く読んだ河野広中らの若い藩士たちの活躍により、無血開城を』などと書いてあるが、時代の流れはとっくに読んであり、読むのが難しかったのは裏切るタイミング。
旧幕府軍に囲まれているから、あんまり早くから恭順すると袋だたきにされるので、官軍が近付くまで、ギリギリ待っていたのである。
誤射と称して仙台藩兵を背後から撃った、という俗説もある。

このあと三春藩兵は官軍に参加して、東北諸藩を殺して回ったので、三春藩の領地は安堵、さらに御褒美ももらえた。
三春藩の河野広中殿は、二本松藩を攻め、のちに衆院議長にまで成り上がる。
三春藩は裏切り者と呼ばれることになり、「三春狐にだまされた」という歌詞の歌まで作られたという。

二本松藩は最後まで降伏せずに戦い抜き、ほぼ全滅。
しかも、いたいけな少年たち(最年少は12歳)による砲兵隊がむなしく戦死した悲劇が銅像にまでなっているから、二本松の人々は三春藩を長く恨み続けた。

どちらが偉かったのか、俺にはわからない。
武士は人命よりも信念を優先するのが美徳だが、死ぬなら独りでやってもらいたいもので、他人にも同じ覚悟を要求したり、一緒に戦死してくれなかったからといって恨むのは、どうかと思う。
しかし、急に態度が変わって、予定が狂って、迷惑したのも事実。
末代まで軽蔑されても、屈辱に堪えて、命を大切にして生き延びたというんだったら、それは勇気だが、官軍に恭順すれば今度は官軍の一員として戦うのだから、どっちみち人を殺し続けるし、まだまだ戦死者も出し続けるのである。
三春藩が裏切らなくても官軍は勝っただろうし、官軍も忠義でやっているのであって、朝廷の権限を奪っていた武士という存在自体が、丸ごと、そもそもの裏切り者だったとも言える。

三春藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月19日。

 

 江戸屋敷

  上屋敷
外桜田。元禄16年(1703年)の地震で被災。

宝永4年(1707年)からは、愛宕下大名小路。現在の新橋四丁目交差点の南東のビル街一帯。
北は道を挟んで田村右京大夫邸(陸奥一関藩上屋敷)。東は道を挟んで、井上遠江守邸(常陸下妻藩上屋敷)と、松平陸奥守邸(仙台藩伊達家中屋敷)。南は道を挟んで、米津相模守邸(出羽長瀞藩上屋敷)。西は道を挟んで、松平隠岐守邸(伊予松山藩上屋敷)。

  中屋敷(一説には下屋敷)
飯倉町。現在の狸穴というか麻布台二丁目、ロシア大使館。
北は道を挟んで稲葉伊予守邸(豊後臼杵藩)。東は、一乗寺と真浄寺。南は戸沢上総介邸(出羽新庄藩上屋敷)。西は山本某邸(旗本か)。

  下屋敷
代々木町。

 

 藩校

天明元年(1781年)、藩校名「講所」、施設名「明徳堂」を設置。
場所は三春町字南町。
当初は城門外西南にあったが、寛政5年(1793年)までには、その南へ移転している。

天保以降は国学も扱う。

明治2年(1869年)2月、藩校名「文武局」、施設名「講文堂」「講武堂」と改称。

明治4年(1871年)7月14日、廃藩。廃校時期は不明。

『武術についての教科もあったが、不詳。講武堂では、鎗、剣、砲の諸術諸流の師範を技芸師として教授させた。』(『藩史大事典』)

 

 唯心一刀流継承者

いたという話を聞かないが、探せば必ず、なにか出てくるはず。
三春は唯心一刀流の謎を解く大穴だと俺は思っている。

 

 他の剣術の主なところ

  藩に採用されていた剣術

   直心影流
黒岡九左衛門先生、横田三代太郎先生。
直心影流はわりと新しい流派であり、それ以前の時代には、三春ではどんな剣術をやっていたかが、全然わからない。

  藩に採用されていたが、剣術かどうか

   真心流(関口流)
剣・居・槍・柔。
三春の剣術で直心影流以外というと、これしか聞かないが、三春ではどちらかといえば槍と剣の流派、どちらかといえば槍が中心の流派だったような印象を受ける。
『藩史大事典』でも、これは「鎗術」の項目に書かれている。
三春藩には、宝蔵院流や、管槍流派も各種あり、槍術に力を入れていた様子。

   宝蔵院流
『藩史大事典』では、これが「鎗術」の項目になくて「剣術」の項目にあり、川前英助という指南役の名前を掲載している。
いやー、わからんぞう。胤栄先生は上泉先生の直弟子だからな。
槍術の先生が、たまたま剣術うまくて、剣術を指導することだってあるかもしれん。
尾張貫流だって本格的に新陰流をお使いになる。
これだから難しい。単なる誤謬かどうか判断しかねる。
とにかく研究姿勢として、どうせ間違いだろと決めつけてかかることは慎み、拾える情報は拾う方針でいく。
判断は、これをお読みになる方が、後でもできる。

  藩に採用されていなかったようだが、剣術もあったであろう流派

   山本勘介流(軍・剣・柔・棒・弓・砲・築城)
山本勘助先生の剣術と称するものは多数あるようで、京流系、新當流系、武術ではなく害獣駆除の技術、オカルト的なものなどがあるらしい。

武田家の家臣団の中に「山本菅助」という人物の実在が確認されている(市川良一氏文書)。
当時は当字もまちまちだろうし、どっちみち後世の人がつけた流派名だろうから、流派名としては介なのかもしれない。
伝書を見たことがないので、ひとまず綿谷先生にならって山本勘介流としておく。

 

 現在の状況

不明。

 

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