アンドウ家の行方 その1.1 常陸 宍戸
藩の名前 宍戸藩、常陸宍戸藩。秋田城介、松平大炊頭など。
親疎、伺候席、城陣、石高 秋田家は、外様、柳間詰?、城主。5万石。 『諸國廢城考』、『藩と城下町の事典』、いずれも、秋田家が三春へ去った時に、宍戸城を廃城にしたように書いてある。 水戸松平家は、御連枝、帝鑑間詰、無城定府。1万石。 藩主は江戸に常駐していて、実際の統治も水戸藩がやっているので、「宍戸藩の陣屋」というのを建てるのは遅かったらしい。 末廣神社の説明看板に、『由緒沿革 創立天保十年、旧宍戸領主松平氏の崇敬社。明治維新で松平氏東京へ移住後はもとの家臣が維持してきた』とある。 笠間市の公式サイトの、市指定文化財「宍戸城址土塁」の説明文に、『宍戸松平家は常府制で城を持たなかったが、天明期(1781〜88)に旧宍戸城本丸跡に陣屋を築いて藩庁とし、行政を担当させた。ここには、民政局、藩校脩徳館(しゅうとくかん)、講武所、藩主居住地などがあった。』とある。 いずれも、宍戸松平の当主が宍戸に住んでいたかのような口ぶり。
位置と、土地の性格 このページに書いているのは、「宍戸という場所でやっていた、公式な宍戸藩」。 常陸国茨城郡宍戸。 かつては西茨城郡宍戸町といったが、合併して西茨城郡友部町になり、2006年に笠間市に吸収合併された。 しかし、笠間と宍戸は別の藩なのだし、現在でも笠間市笠間と笠間市宍戸は別という意識があるように見受けられる。 宍戸小学校の正門には、大炊葵(宍戸松平家の家紋。正八角の三つ葵)が入っており、徳川一族の領地だったということに誇りをお持ちの様子。 都内から行くなら、上野からフレッシュひたちで、まず友部駅へ。 宍戸駅前の道路を、踏切を越えて南へ、徒歩7分、500メートルほど行くと、笠間市立歴史民俗資料館。
藩主と、藩の性格 八田宍戸家、代々 常陸の人々は、あんまり鎌倉に従わなかったので、頼朝公は八田知家侯を守護に任じて送り込む(この家は小田家になった)。 知家侯の四男、家政侯から、宍戸家政を名乗る。 常陸佐竹家、代々 常陸の大名といえば、源氏の名門のひとつ佐竹氏。 家康公の実力を認めないでもないが、家康公とは仲が悪かったので、関ヶ原の時に家中の意見が割れ、引き返す東軍を攻めるでもない、留守中の関東を取るでもない、徳川家に味方するでもない、中立を保ったかといえばだいぶ上杉家寄りという、ことごとく煮え切らない態度をとってしまう。 慶長7年(1602年)、佐竹義宣侯は出羽秋田に飛ばされる。 安倍秋田家、2代 同年、出羽秋田から入れ代わりで、秋田実季侯が宍戸に入封(この時の名前はたぶん伊駒実季)。 徳川家に味方していたが、関ヶ原の戦いの時じつは裏切って上杉側についていたとかなんとか、最上義光侯に告げ口される。 『寛政重修諸家譜』では、『關原御陣の後、最上義光が讒により、御疑をかうぶりければ、大久保忠隣が邸にして、義光と對決せられしに、實季が申ところ明白にして二心なき事御聽に達す。』とあるが、これはあくまでも秋田家側の言い分なのだろうと思う。 実季侯は合戦が下手とされ、大坂の陣でも惨敗しているが、14歳くらいの時に従兄に攻め込まれて籠城150日の末に勝利というのをやっており、苦戦をくぐりぬけてきた武将ではあった。 しかし息子と仲が悪く、家臣もうまくまとめられなかったようで。 長男の俊季侯があとを継いだというか、同じ土地を新たにもらった。 (幕府領?) 宍戸はしばらく、幕府直轄地だったらしいのだが。 (水戸藩領、水戸徳川家、代々) いつの間にか水戸藩の領地に組み込まれていた。 水戸徳川家は家康公の十一男の家で、尾張や紀伊よりも1ランク低く、身分も中納言どまり、将軍候補になる資格がない。 水戸松平家(頼雄系)、9代 天和2年(1682年)2月10日、水戸徳川家の七男、松平頼雄君が1万石わけてもらって水戸藩から独立、いわば宍戸藩を復活させた格好。 独立したといっても形式的な分家で、実際は水戸藩が統治を代行していた。 9代目の頼徳侯のとき、水戸藩の名代として天狗党を鎮圧するよう幕府から命じられる。 (幕府領) また幕府直轄、というより『無政府状態であった』(『藩史大事典』)。 (明治政府下の藩主・知藩事、水戸松平家(頼雄系)) 慶應4年(1868年)2月、すでに隠居していた8代目藩主の頼位侯を、ふたたび藩主に復帰させて再興。 光圀公は不良少年だったのが、猛省して更正した反動で、極端に学問好きの道徳的な名君になった人で、最初から中途半端に名君だった人よりも、ことさらに名君、意識して名君であろうとする名君であり、気合の入り方が違っていた。 これは家風となってその後も引き継がれ、水戸藩では江戸時代の間ず〜〜っと『大日本史』編纂を続けており(完成したのは明治39年)、水戸学という思想を生み、皇室崇拝で一貫していたから、朝廷からは好かれていた。 君臣の筋道を通し、朝廷のためにがんばってくれたせいで取り潰された宍戸藩に対しては、朝廷もまた筋道を通したのである。 宍戸藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月24日。 宍戸藩が80歳の人に金三百疋を下賜した時の目録が、「褒状」「宍戸藩庁より長寿の祝詞」と称して歴史民俗資料館2階に展示されている。
江戸屋敷 『藩史大事典』に、上屋敷と下屋敷がひとつずつ掲載されているが、どちらの家だか記載がない。松平家らしいので、その前提で書く。 上屋敷 下屋敷 宍戸藩松平家は、天保後期までは定府。
藩校 明治元年(1868年)、陣屋内に藩校「修徳館」を設立。 すぐに版籍奉還・廃藩置県になるので、どのくらい藩校の実態があったのか、よくわからない。 『藩史大事典』には、『・武士の子弟を対象とする。』『(注)資料に藩校書籍を用いる。』と、これだけしか書いてない。 前述のとおり、周防国にも「宍戸藩のようなもの」があった。
唯心一刀流継承者 いたという話は聞かない。
他の剣術の主なところ 不明。 水戸松平家の場合、宍戸藩の実態がほとんどないのだから、水戸藩におけるメジャー流派(たとえば北辰一刀流あたり)がおこなわれた可能性が高そうではある。 しかし水戸藩というのは、ありとあらゆる武術があったので、どうとでもこじつけてしまえるから、憶測で何を言ってもムダだとも思う。 水戸藩の武術は、書ききれないので、とりあえずパッと思い付くものだけ 水戸藩に採用されていたであろう剣術は、神道無念流(神道無念流と鹿島神道流)、水府流(御子神一刀流、新陰流、真陰流)、長剣流(柄太刀。八重垣流と涼天覚清流と長束流)、東軍流(東軍流と判官流)、北辰一刀流、卜伝流(小太刀)、柳生新陰流。 ほかに、水戸藩でおこなわれていた剣術としては、鏡見流、鹿島神道功流、鹿島神道流(鹿島新當流)、願立流、金剛流、三和無敵流、正天狗流(小天狗鞍馬流)、神陰一刀流、清浄鈴剣流、是伝流、鉄仲流、天流、馬庭念流、源義経流、柳剛流岡田派、両剣時中流など。 御子神一刀流は一刀宗流ともいい、御子神と書いてミコガミと読ませる。 一説には、水戸藩の鹿島神道流は、柳生流(小太刀・鉄扇)と同じものだという。 『藩史大事典』では、水戸藩の剣術として、新陰流と柳生新陰流を両方掲載しており、剣術の三和流と柔術の三和流も併記している(三和無敵流のことだとは思うが)。 ほかに水戸藩には、試剣の、是伝流と、卍流があった。 そのほか、御子孫に事情があって、ここに書けない流派もある。 うちの父なども戦前に水戸で剣術と柔術の武者修行をして、いろいろと見聞きしたり、道具を持ち帰ったりしているが、とにかく水戸には何でもあったとしか言いようがない、大変に尚武の土地である。 『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』で水戸藩を引くと、 しかも、水戸や日立では出張稽古したりされたりが盛んで、飛び移りの伝播がある。 どっちみち、唯心一刀流に関係あるとすれば秋田家であり、水戸徳川家は関係ないと思われる。
現在の状況 不明。 笠間市立歴史民俗資料館2階の武具類の展示は、弓2、矢4、槍2、鎖鎌1、十手1、なやし1、大砲模型1、刀装金具類少々、鎖頭巾1、裃3など。
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