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 アンドウ家の行方 その1.1

 常陸 宍戸

 

 藩の名前

宍戸藩、常陸宍戸藩。秋田城介、松平大炊頭など。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

秋田家は、外様、柳間詰?、城主。5万石。
江戸時代初期は、伺候席という制度がハッキリしていなかったようで。
本来は柳間詰に相当するはずだが、実季侯の正室は秀忠公の正室と従姉妹、俊季侯の正室は松平信吉侯の娘であり、優遇されていたようでもある(この信吉侯は藤井松平のほう。
高崎藩主だったことがある)。
秋田家は、三春に移封した後、譜代扱いの帝鑑間詰になる。

『諸國廢城考』、『藩と城下町の事典』、いずれも、秋田家が三春へ去った時に、宍戸城を廃城にしたように書いてある。
つまり、秋田家は宍戸では城を持っていたということ。

水戸松平家は、御連枝、帝鑑間詰、無城定府。1万石。

藩主は江戸に常駐していて、実際の統治も水戸藩がやっているので、「宍戸藩の陣屋」というのを建てるのは遅かったらしい。
一説には、天明年間(1781〜1788)に宍戸城跡地(かつての本丸のフチに相当する位置)に陣屋を建てたとか、天保15年(1844年)ごろまで陣屋は無かったとかいう。
陣屋跡地には、現在、末廣神社が建っている。歴史民俗資料館へ行く道の途中、左側にある。

末廣神社の説明看板に、『由緒沿革 創立天保十年、旧宍戸領主松平氏の崇敬社。明治維新で松平氏東京へ移住後はもとの家臣が維持してきた』とある。

笠間市の公式サイトの、市指定文化財「宍戸城址土塁」の説明文に、『宍戸松平家は常府制で城を持たなかったが、天明期(1781〜88)に旧宍戸城本丸跡に陣屋を築いて藩庁とし、行政を担当させた。ここには、民政局、藩校脩徳館(しゅうとくかん)、講武所、藩主居住地などがあった。』とある。

いずれも、宍戸松平の当主が宍戸に住んでいたかのような口ぶり。

 

 位置と、土地の性格

このページに書いているのは、「宍戸という場所でやっていた、公式な宍戸藩」。
ほかに、「宍戸という人がやっていた、非公式な宍戸藩」というのもあった。長州藩の周防三丘領。後述。

常陸国茨城郡宍戸
現在の笠間市平町。市町村合併後の笠間市の東部、茨城県のほぼ中央に位置する。
駅でいうと、笠間のとなり、ひとつ東。

かつては西茨城郡宍戸町といったが、合併して西茨城郡友部町になり、2006年に笠間市に吸収合併された。

しかし、笠間と宍戸は別の藩なのだし、現在でも笠間市笠間と笠間市宍戸は別という意識があるように見受けられる。

宍戸小学校の正門には、大炊葵(宍戸松平家の家紋。正八角の三つ葵)が入っており、徳川一族の領地だったということに誇りをお持ちの様子。

都内から行くなら、上野からフレッシュひたちで、まず友部駅へ。
常磐線の特急は、スーパーひたちとフレッシュひたちが30分おきくらいに交互に出ていて、新幹線で言えばひかりとこだまのようなもので、前者は停車駅が少なくて友部にはほとんど停まらない。
鈍行で行っても日帰りできるが、特急なら1時間少々ですむ。上野から出発だし、帰省ラッシュか水戸の梅の開花時期でもない限り、余裕で自由席に座れる。

友部駅に着いたら、改札を出ずに水戸線に乗り換え。小山方面へ行く列車に乗る。

これは「上り」。目的地へ進んでいるのだが、実際は東京へ引き返す方角なので。

水戸線という名前だが、水戸のほうへ行く列車に乗らないこと(それは「常磐線に乗り入れている水戸線」)。
友部は、駅舎は近代的で立派だが、降りても、あまり飲食店がない。帰りに駅のコンビニに寄って、最終的な土産を買うにはいいかもしれない。特に、藁つとに入った納豆。
ひとつめの駅が宍戸。宍戸駅改札で「上野→友部」の切符を渡せば、友部駅から宍戸駅までの運賃はかからない。
宍戸駅改札でSuicaは使える。かさま周遊バスは宍戸駅に停まらない。

宍戸駅前の道路を、踏切を越えて南へ、徒歩7分、500メートルほど行くと、笠間市立歴史民俗資料館。
かつて宍戸町役場の庁舎だった洋館もどき。入場無料。靴を脱いで上がる。左の係員さんに挨拶すると電灯をつけてくださる。
土器・鏃から、古民具まで、小規模ながらひととおりのものがあるが、1階の奥に筑波海軍航空隊の資料が充実している。
開館日時が微妙なことと、急な階段(降りる時)に注意。

 

 藩主と、藩の性格

  八田宍戸家、代々

常陸の人々は、あんまり鎌倉に従わなかったので、頼朝公は八田知家侯を守護に任じて送り込む(この家は小田家になった)。
知家侯は初期の宇都宮氏であり、
笠間の笠間氏や、喜連川の塩谷家と、同族。

知家侯の四男、家政侯から、宍戸家政を名乗る。
宍戸氏は小田氏よりも栄え、宍戸城を構えていたが、『天正中佐竹氏攻てこれを陥る。』(『諸國廢城考』)。
佐竹氏の家来に組み込まれてしまったらしい。

  常陸佐竹家、代々

常陸の大名といえば、源氏の名門のひとつ佐竹氏。
平安時代から一大勢力を持っており、戦国大名化にも成功し、周辺の大名を傘下におさめて、水戸を拠点に54万石以上も支配していた。
全部を直接領有していたわけではないが、領有している各大名を子分にしていたということ。

家康公の実力を認めないでもないが、家康公とは仲が悪かったので、関ヶ原の時に家中の意見が割れ、引き返す東軍を攻めるでもない、留守中の関東を取るでもない、徳川家に味方するでもない、中立を保ったかといえばだいぶ上杉家寄りという、ことごとく煮え切らない態度をとってしまう。

慶長7年(1602年)、佐竹義宣侯は出羽秋田に飛ばされる。
常陸は巨大な空地になり、のちに水戸徳川家などが置かれることになる。

  安倍秋田家、2代

同年、出羽秋田から入れ代わりで、秋田実季侯が宍戸に入封(この時の名前はたぶん伊駒実季)。
秋田家のことは、杉浦先生のページ。

徳川家に味方していたが、関ヶ原の戦いの時じつは裏切って上杉側についていたとかなんとか、最上義光侯に告げ口される。
それが原因で、佐竹家と入れ代わりで宍戸に飛ばされた、というような通説になっており、現代の本では実季侯を西軍のリストに入れているものも見かける。

『寛政重修諸家譜』では、『關原御陣の後、最上義光が讒により、御疑をかうぶりければ、大久保忠隣が邸にして、義光と對決せられしに、實季が申ところ明白にして二心なき事御聽に達す。』とあるが、これはあくまでも秋田家側の言い分なのだろうと思う。
当時の幕府が、本当に秋田家を潔白だと判断したのなら、宍戸へ飛ばされなかった、飛ばしたくても飛ばす理由にできなかっただろうから。

実季侯は合戦が下手とされ、大坂の陣でも惨敗しているが、14歳くらいの時に従兄に攻め込まれて籠城150日の末に勝利というのをやっており、苦戦をくぐりぬけてきた武将ではあった。

しかし息子と仲が悪く、家臣もうまくまとめられなかったようで。
寛永7年(1630年)9月、強制的に藩主をやめさせられ、伊勢朝熊へ流罪、蟄居。

理由は、『寛政重修諸家譜』では『故ありて御勘氣かうぶり、』、『戦国大名系譜人名事典』では『故あって』、『藩史大事典』では『幕府に罪を得て』などとハッキリしないが、『藩と城下町の事典』では『苛斂誅求の失政』などと書いてあり、要するに、税金をしぼりすぎて領民が食っていけなかったという、内政の落ち度らしい。

長男の俊季侯があとを継いだというか、同じ土地を新たにもらった。
幕府に誠心誠意よく尽して働いたので、正保2年(1645年)7月10日、陸奥三春へ栄転。

  (幕府領?)

宍戸はしばらく、幕府直轄地だったらしいのだが。

  (水戸藩領、水戸徳川家、代々)

いつの間にか水戸藩の領地に組み込まれていた。

水戸徳川家は家康公の十一男の家で、尾張や紀伊よりも1ランク低く、身分も中納言どまり、将軍候補になる資格がない。
尾張や紀伊は将軍家と対等なくらいだが、水戸は将軍家の家来筋であり、江戸に常駐して将軍家を補佐する役目、俗に言う副将軍。譜代ではないが譜代に近い性格。
最初は御三家の一員ではなく、徳川姓でもなく、28万石しかなかったが、新田開発の分を加えて表高変更をおこない、元禄14年(1701年)5月、35万石に成り上がる。
17世紀の後半ごろは、新田開発をかなりやっていたものと思われる。

  水戸松平家(頼雄系)、9代

天和2年(1682年)2月10日、水戸徳川家の七男、松平頼雄君が1万石わけてもらって水戸藩から独立、いわば宍戸藩を復活させた格好。
伊予西条の松平頼雄君のほうが悲劇で有名だが、あれは吉宗公の従兄弟。
宍戸藩になったのは光圀公の弟。4つあった水戸分家のひとつ。

独立したといっても形式的な分家で、実際は水戸藩が統治を代行していた。
特に6代目の
頼敬侯の頃は、財政難がひどくて、水戸藩に面倒をみてもらっていた様子。
領民たちも、救済の嘆願などは水戸藩へ訴えている。

9代目の頼徳侯のとき、水戸藩の名代として天狗党を鎮圧するよう幕府から命じられる。
天狗党は、水戸藩士などによる尊王攘夷のクーデターで、必ずしも倒幕ではないが過激派なので、挙兵して幕府を敵に回した。
ところが宍戸藩は、鎮圧するどころか味方したという。
天治元年(1864年)10月1日、領地没収。同5日に頼徳侯は切腹。

  (幕府領)

また幕府直轄、というより『無政府状態であった』(『藩史大事典』)。
八州廻5名が、幕府代官として水戸の千波町に駐在し、治安維持にあたった。

  (明治政府下の藩主・知藩事、水戸松平家(頼雄系))

慶應4年(1868年)2月、すでに隠居していた8代目藩主の頼位侯を、ふたたび藩主に復帰させて再興。
というか、取り潰したのは江戸幕府だが、再興させたのは新政府。
この前年に大政奉還して、江戸幕府はもうなかった。

光圀公は不良少年だったのが、猛省して更正した反動で、極端に学問好きの道徳的な名君になった人で、最初から中途半端に名君だった人よりも、ことさらに名君、意識して名君であろうとする名君であり、気合の入り方が違っていた。
また、兄をさしおいて藩主になってしまったことに引け目を感じ続けたから、光圀公は義理筋目ということに関しては徹底していた。

これは家風となってその後も引き継がれ、水戸藩では江戸時代の間ず〜〜っと『大日本史』編纂を続けており(完成したのは明治39年)、水戸学という思想を生み、皇室崇拝で一貫していたから、朝廷からは好かれていた。

君臣の筋道を通し、朝廷のためにがんばってくれたせいで取り潰された宍戸藩に対しては、朝廷もまた筋道を通したのである。

宍戸藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月24日。

宍戸藩が80歳の人に金三百疋を下賜した時の目録が、「褒状」「宍戸藩庁より長寿の祝詞」と称して歴史民俗資料館2階に展示されている。
「宍戸藩庁」と書いてある(庁は、原文では旧字「廰」の耳の上にTがある文字)。

 

 江戸屋敷

『藩史大事典』に、上屋敷と下屋敷がひとつずつ掲載されているが、どちらの家だか記載がない。松平家らしいので、その前提で書く。

  上屋敷
目白台、大手より46丁。現在の文京区関口三丁目。カトリック東京カテドラル関口教会付近。
北は道を挟んで空地、東は薮益次郎邸(旗本5千石)。南は道を挟んで秋元忠左ヱ門邸。西は道を挟んで、こまかい武家地、細川越中守邸(肥後熊本藩)、町屋など。

  下屋敷
高田。現在の高田一丁目。不忍通りが目白通りに突き当たった先の住宅地。
北は町屋。東は道を挟んで大岡主膳正邸(武蔵岩槻藩下屋敷)。南はこまかく百姓家と武家地。西は道を挟んで阿部伊勢守邸(備後福山藩)。

宍戸藩松平家は、天保後期までは定府。
水戸藩主自体が、参勤交代しないで江戸に常駐する大名。
ただし、定府大名でも、お暇を頂く(領地に帰る)ということは、たまにある。
前述のとおり、陣屋に住んでいた時期もあったらしい。

 

 藩校

明治元年(1868年)、陣屋内に藩校「修徳館」を設立。
おそらく中津の進脩館と同様、『易経』に由来する校名と思われる。

すぐに版籍奉還・廃藩置県になるので、どのくらい藩校の実態があったのか、よくわからない。
水戸藩の藩校で学べばよさそうなものだが。

『藩史大事典』には、『・武士の子弟を対象とする。』『(注)資料に藩校書籍を用いる。』と、これだけしか書いてない。

前述のとおり、周防国にも「宍戸藩のようなもの」があった。
長州藩の筆頭家老で宍戸氏というのが、周防三丘1万1千石余をもらっていて、本当に宍戸藩と呼ばれている。
1万石以上だし、この宍戸氏というのは大変に名門だから、山口県では宍戸藩と言えばこれのことをさすらしいのである。
しかも、その宍戸藩には、
徳修館という「藩校」があったということになっているから、大変まぎらわしい。
実際にその藩校で「侍講」を勤めていたという宮川視明なる人物が実在したらしい。

 

 唯心一刀流継承者

いたという話は聞かない。

 

 他の剣術の主なところ

不明。
秋田家の時は、三春藩とだいたい同じか。

水戸松平家の場合、宍戸藩の実態がほとんどないのだから、水戸藩におけるメジャー流派(たとえば北辰一刀流あたり)がおこなわれた可能性が高そうではある。

しかし水戸藩というのは、ありとあらゆる武術があったので、どうとでもこじつけてしまえるから、憶測で何を言ってもムダだとも思う。

水戸藩の武術は、書ききれないので、とりあえずパッと思い付くものだけ
(後日書き足します。たまたま藩士が一代やってた程度も含めると、キリがない)。

水戸藩に採用されていたであろう剣術は、神道無念流(神道無念流と鹿島神道流)、水府流御子神一刀流、新陰流、真陰流、長剣流(柄太刀。八重垣流涼天覚清流長束流、東軍流(東軍流と判官流、北辰一刀流、卜伝流(小太刀)、柳生新陰流
斉昭公が弘道館を整えるにあたり、流派の統合や吸収合併をやって整理したので、入れ子になっているのだが、伝えられている話と実態がだいぶ違うんじゃないかと思われるフシもあり、また、合併しなかった流れが別にあったともいう。

ほかに、水戸藩でおこなわれていた剣術としては、鏡見流、鹿島神道功流、鹿島神道流鹿島新當流、願立流、金剛流、三和無敵流、正天狗流小天狗鞍馬流、神陰一刀流、清浄鈴剣流、是伝流、鉄仲流、天流、馬庭念流、源義経流、柳剛流岡田派、両剣時中流など。

御子神一刀流は一刀宗流ともいい、御子神と書いてミコガミと読ませる。

一説には、水戸藩の鹿島神道流は、柳生流(小太刀・鉄扇)と同じものだという。

『藩史大事典』では、水戸藩の剣術として、新陰流と柳生新陰流を両方掲載しており、剣術の三和流と柔術の三和流も併記している(三和無敵流のことだとは思うが)。

ほかに水戸藩には、試剣の、是伝流と、卍流があった。

そのほか、御子孫に事情があって、ここに書けない流派もある。

うちの父なども戦前に水戸で剣術と柔術の武者修行をして、いろいろと見聞きしたり、道具を持ち帰ったりしているが、とにかく水戸には何でもあったとしか言いようがない、大変に尚武の土地である。
現代武道に及ぼした貢献度も計り知れない。

『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』で水戸藩を引くと、
 
『県民性を語るとき、典型的な茨城県人は、「理屈っぽい」「骨っぽい」「怒りっぽい」という「水戸っぽ」』
 『やたらに理屈っぽく論理に殉じる独特のムードが水戸藩には蔓延』
 『安政の大獄から二・二六事件までテロリストを多数輩出
 『江戸幕府を倒すのに最も功があったのは、そんなつもりがあったかどうかは別として、薩長でも、攘夷派の公家でも、坂本龍馬でもなく、おそらく水戸斉昭だったのではないか』

などと書いてあるが、要するに、厳しい稽古に耐えうる勇ましい気質だったらしい。

しかも、水戸や日立では出張稽古したりされたりが盛んで、飛び移りの伝播がある。

どっちみち、唯心一刀流に関係あるとすれば秋田家であり、水戸徳川家は関係ないと思われる。
一応、網を広げておくかという程度。

 

 現在の状況

不明。

笠間市立歴史民俗資料館2階の武具類の展示は、弓2、矢4、槍2、鎖鎌1、十手1、なやし1、大砲模型1、刀装金具類少々、鎖頭巾1、裃3など。
槍は直槍で、うち1条は『護身用』などと解説がついている。鍵槍の展示がない。
鎖鎌は陣鎌系の刃、青貝螺鈿、シングルジャック、鋳造玉丸という、骨董屋によくある例のアレ。
十手は八州系ではなく、江戸町方配下の親分さんの私物に近いタイプ。
大砲模型には、喜平チェーンで房がついている。
「小柄」に、「脇差しのさやの外側にさす小刀」などと説明がついている。刀から見て外側、鞘の表面という意味だと思うが。
この展示を見る限りでは、秋田家時代はおろか松平家時代の武術の手がかりも、入手は困難という印象を受けます。

 

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