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 もうひとつの非杉浦系と、先意流しかも薙刀ではなく剣術?

 尾張 清須
 尾張 名古屋

 

 藩の名前

清須藩、清洲藩、尾張藩、尾州藩、張藩、名古屋藩。尾張殿など。

清須城で尾張を支配するのが清須藩なら、名古屋城で尾張を支配するのは名古屋藩ということになるのだが…。
明治政府は名古屋藩と呼んだらしいが、あまり名古屋藩という言い方を聞かない。
しかも、「江戸時代に幕藩制度のもとで尾張を統治していた藩」ということであれば、清須藩と名古屋藩の両方が該当するから、片方の言い方で総称するのは不正確。
というような理由で、うちのサイトでは「尾張藩」で統一させていただく。
しょせん後世つけた名前だし、萩藩と山口藩も、長州藩という言い方で総称されている。

なお、清須と清洲、どっちが正しいのかということについては、昔の人のやることだから、たいして深く考えずにまちまちだったようだが、『藩と城下町の事典』に、『四男松平忠吉を武蔵国忍から清洲(当時は清須)に移し、』とあるので、ここでは清須で統一しておく。
現在も清須市という。ただし、『信長公記』は清洲と表記しているという。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

東条松平家は、親藩、国主。52万石。『諸国城主記』では39万石とする。
尾張徳川家は、御三家筆頭、大廊下詰、国主。61万9500石。

 

 位置と、土地の性格

尾張国(全郡)、その他。
現在の愛知県西部広域。名古屋市だけではない。

慶長17年(1612年)、美濃国各務郡・羽栗郡・中島郡・可児郡、計7千5百石余だか9千石だかを加増。

元和元年(1615年)、婚礼祝いとして、信濃国筑摩郡の木曽檜の山林7万3千石相当(米収入ではないので石高に計上せず)と、美濃国安八郡・加茂郡・不破郡・多芸郡・方県郡・恵那郡・厚見郡・武儀郡・土岐郡・本巣郡・大野郡、計3万2千石余を加増。
『義直の時代に木曾谷の幕府代官山村氏を尾張藩に所属させて木曾山林の豊富な材木を得られるようになったが、光友の代になって木曾山林の支配にあたっていた山村氏からその権利を奪い、国奉行を巡見させて木曾谷支配を藩による直轄とし、山林収入による藩財政の強化を図った。』(『藩と城下町の事典』)

元和2年(1616年)、家康公の遺産の一部を相続。

元和5年(1619年)5月16日、美濃国池田郡・石津郡・山県郡に5万石を加増。

ほかに、家老などの領地の一部には、幕府から直接与えられた分があった。
近江国蒲生郡に5千石余(うち2千5百石はのちに蔵入地)、三河国加茂郡寺部に5千石余(渡辺守綱領)、摂津国武庫郡に232石余(石川(石河)光忠領)。
これらの給人地も『藩史大事典』によれば元和5年の加増時に尾張藩の石高に計上されているが、一説には寛文11年(1671年)に組み入れたともいう。

尾張藩は、尾張をまるまる全部持っていた。
となりの三河は、さまざまな人々の小さな領地が複雑にバラバラだった。
この配置は、要するに、徳川・松平とその古参の忠臣にゆかりの地は記念にとっておきたいが、織田・豊臣にゆかりの地は消し去りたかったということであり、尾張徳川家は巨大なフタか重しだったと言える。
かつての岐阜城の役割を、尾張藩が担当していたという話は、加納藩のページ。

 

 藩主

  今川那古野家

今川氏が尾張の守護だった時期があり、一族のひとつ那古野氏が、代官として治めていた。

  駿河今川家

今川義元侯の父、氏親侯が、柳の丸?という支城を築かせ、今川氏豊侯に城主をやらせていた。
のちの名古屋城の二ノ丸に相当する位置に、建ててあったという。
氏豊侯は、氏親侯の末っ子だとか、親戚だとか。斯波義達侯の娘を正室にしていた。

足利家の長男が、妾の子だったために、家を継がずに分家したのが、吉良家。
吉良家の分家が、今川家。
だから吉良家と今川家は、傍流とは言っても本家よりも兄貴分であり、いざという時に足利本家と室町将軍職を継ぐ資格を有していた。

今川氏というと、時代劇では、志村けんさんのバカ殿のように、公家かぶれの白塗り書き眉で表現されたりするが、じつは武将としては優秀で強剛だった。
家康公は幼い頃に、戸田家の裏切りで織田家に売り飛ばされたことがある。
家康公の父は、家康公を人質に取られていても織田家に寝返ることなく、今川家に仕え続けたから、家康公は見捨てられたわけで、殺されても不思議はなかった。
ところが今川家は、織田軍を破って安祥城を落としてくれて、織田家の長男(信長公の異母兄)を人質に取ってきて、人質交換によって家康公を救い出すなんてことになった。
今川家のおかげで、松平本家はギリギリ生き延びさせてもらったのである。

たとえ足利家が滅びても名門今川家がある限り、羽柴だの徳川だの、そんな聞いた事もないようなウサン臭い家には永遠に出番は回って来るわけがなかったのだが、このあと義元侯が桶狭間で奇襲されてしまう。

  織田弾正忠家、2代

亨禄5年-天文元年(1532年)、信長公の父の織田信秀侯が、今川家をだまして柳の丸を奪って、那古野城とした。
連歌を通じて今川氏豊侯と親しくなり、城に招かれた際に仮病を使い、家臣を城内に引き入れることに成功し、夜中に挙兵したのだという。

信秀侯は古渡城や末森城を本拠にしたので、那古野城は信長公に与えられた。
一説には信長公が生まれた場所も那古野城だという。

尾張の守護は斯波家。
これまた足利家の「家を継がなかった長男」の家。正室と側室の地位が入れ代わったため。
越前・尾張・遠江の守護をやっていた。

越前は朝倉家に、尾張は織田家に、遠江は今川家に取られることになる。
斯波義達侯の時、今川氏親侯と戦って惨敗し、捕虜になって髪を丸刈りにされ、その子孫は信長公の傀儡として終わった。

斯波家の部下として尾張の管理をまかされていたのが、守護代織田家。
これが応仁の乱以来、2系統に分かれて対立していた。
 岩倉城の、伊勢守家(上織田家)。
 清須城の、大和守家(下織田家)。

清須織田家のほうに仕える家老というか奉行が3家あって、それもみんな織田氏。
偉いほうから、因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家といった。

信長公の家は、弾正忠家。
信長公の祖父のとき3家老のトップにのし上がり、信長公の父がさらに権力を拡大、主君の清洲織田家よりも強い力を持ち、信長公の時には岩倉織田家も滅ぼして織田一族の頂点に成り上がり、斯波家に代わって尾張を実効支配する。

となりの三河武士が硬派で質実剛健で勇猛なために、比較されるせいもあるが、尾張の武士は全く軟弱だったという。
それを信長公は、合理主義の適材適所で見事にまとめ上げる。

信長公は、主君の織田家が使っていた清須城をかっぱらって、天文24年(1555年)頃から本拠にする。
これ以降しばらくの間、清須が、尾張の中心地になる。
清須城は、斯波義重公が応永年間に築いたということになっている。

一方、那古野城はというと、信長公が去った後は、信長公の叔父などが管理していたが、すぐ廃虚になった。

  織田家(信雄系)

そのあと信長公は、領地を拡大させていき、尾張小牧、美濃岐阜、近江安土と、拠点を移していったが、受験生が言うところの「いちごパンツ事件」(1582年の意)があり、野望のなかばで倒れる。
跡取り息子の信忠公も、京都にいたため、明智軍に囲まれて亡くなってしまう。

信長公には20人以上の子があり、男子だけで10人以上いたが、孫と三男で跡目を争うことになった。
 信長公の跡取り息子の息子だが、まだ3歳の三法師君(のちの秀信侯)。
 信長公の息子で、信長公のカタキを討ったが、他家へ養子に出たことのある信孝侯。
どちらが後継者になるか…という会議を清須城でやったりもしたが、要するに信長公の後継者は秀吉公なのだった。

織田信雄公が、尾張・伊賀・伊勢、約100万石を領有。清須城の拡張補修工事をおこない、居城にした。
この人は信長公の次男だが、やはり軍事同盟のために他家へ養子に出されたことがある。
信雄公は織田家を継ぎそこねたので、秀信侯の後見人として、織田家の当主を代行した。
しかし小田原陥落後に秀吉公から移封を命じられ、なんで家来の猿に命令されるのかと拒否したため、天正18年(1590年)、猿の命令で改易される。
フィギアスケートの織田信成選手の家柄詐称の疑惑騒動のおかげで、やっと認知度が高くなったが、じつは信長公の血筋は大名や旗本や家老として、その後も続いた。

  豊臣家

次に清須城に入ったのは、秀吉公の姉の子、豊臣秀次公。
秀吉公は幼い実子に先立たれていたため、甥っ子を養子にして関白職を譲ったわけで。

ところが秀吉公には遅い実子が産まれたので、用済みになる。
文禄4年(1595年)、理由はどうであれ高野山に追放。
すでに出家していたのに、同年さらに切腹。28歳。

近年の研究では、秀吉公が秀次公に切腹を命じたとするには矛盾がいくつもあり、おそらく高野山に幽閉のはずだったのを、秀次公が憤慨したか悲観したかして自主的に切腹したものらしい。
この時、秀吉公は確かに激怒していたようだが、それは切腹場所が青巌寺だったせいであり、秀吉公が生母のために寄進した菩提寺を怨みの血で汚されたということを怒っていたのであって、怒ったから切腹させたというわけではないのだという。

とにかく秀吉公が怒っちゃったので、秀次公の側室たちも処刑された。
そのひとり、最上義光侯の娘などは、まだ15歳だった。
大変な美少女だったため、ロリコンの秀次公が噂を聞きつけて、再三固辞するのをムリヤリ差し出させ、伊達成実侯に『天下の物笑い』と評された。
一説には、まだ側室ではなかったとか、まだ秀次公と会ったこともなかったという。
最上家は秀吉公に助命嘆願して、認められたが、中止命令が刑場に届くのが間に合わなかった。
なんの落ち度もないのに、三条河原で斬首刑、とても堂々と処刑されたという。
遺体の引き取りが許されず、刑場に埋めて「畜生塚」という石碑を建てられた。
母親は食事もノドを通らず急死、一説には後追い自殺だという。
義光侯も一時、連座で聚楽第に身柄拘束される。
もちろん義光侯は、関ヶ原の時は明確に東軍につくことになる。

  尾張福島家

同年、福島正則公が、朝鮮人を大量にブッ殺した御苦労賃として、この地に24万石(清須18万石&その他。『諸国城主記』は20万石とする)を与えられ、清須城に入る。
このあと関ヶ原の戦いがあり、清須城は東軍の前線基地として使われた。

戦場に最も近い場所に領地を持つ武将は、主力攻撃部隊となるのが、武士の慣例である。
正則公は関ヶ原で活躍したことから、安芸と備後に49万8千石余という大栄転。
もっとも、秀吉公の子飼いの武闘派で言動も過激だから、この家もいずれ取り潰されるのだが。

正則公は、幼い頃に尾張の甚目寺の尼僧に世話になったことを恩にきて、尾張の領主になると、その尼僧を探し出し、米・味噌を贈るなど面倒をみていた。
松平忠吉公に、くれぐれも老尼の世話を頼むと念を押して、正則公は尾張を去っていった。

  東条松平家

慶長6年(1601年)、松平忠吉公が、清須城主になる。
『藩史大事典』では10月15日、『諸国城主記』では10月5日から。

この人は家康公の四男。秀忠公の同母弟。
東条松平家は、松平家の早い時期の分家のひとつで、家康公によく仕えたが、当主が病死して絶えたので、忠吉公が養子に入って継いでいた。
吉良家にゆかりの家なので、いずれ徳川家が将軍職や源氏のことで何かするのであれば、この家を持っていると都合よかったので、つぶれるのはもったいないということらしい。

忠吉公は、徳川一族にしては珍しく、関ヶ原の本戦に参加している。
じつは参加していなかったという説もあるが。

しかも大活躍したため、
尾張藩(清須藩)52万石が与えられた。
そして江戸幕府が始まるので、徳川政権下では
最初の尾張藩主ということになるが、名古屋藩主ではない。
まだ名古屋ではなく清須を本拠にしているのである。

慶長12年(1607年)3月5日、28歳で亡くなる。
息子は生後すぐに亡くなっており、跡継ぎがないので、東条松平家は断絶。

松平一族のうちの誰かが継げばいいものを、継がなかった。
晩年の家康公は影武者で別人だったなんて俗説もあるが、そうでなくても遅く生まれた子のほうが可愛いもので、義直公の置き場所として尾張を空けておきたかったものと思われる。

  尾張徳川家、16代

閏4月26日、甲斐甲府から、徳川義利侯(のちの義直公)が入封、というか領地替え。
家康公の九男。まだ6歳で、実際は駿府城にいた。

慶長13年(1608年)8月25日、秀忠公から「尾張国一円」の領知判物を与えられる。朱印状よりも高級なやつ。土地権利書みたいなもの。
忠吉公の家臣団も引き継いだ。

この時点でも、まだ清須藩。47万2千石余。

慶長14年(1609年)1月25日、やっと義利侯が清須城に入る。

慶長15年(1610年)、さびれていた那古野(かつて那古野城があった台地)に、名古屋城を作る。
というか家康公が作らせた、外様大名たちに。
前年に丹波篠山城の構築をやらされたばかりの福島正則公は、『江戸城や駿府城ならまだしも、妾の子の城まで手伝わねばならんのか!』と不満だったという俗説があるが、秀忠公も妾の子である。
武将は子作りも軍事であり、家康公の場合、慶長5年に九男の義直公(尾張)、慶長7年に十男の頼宣公(紀伊)、慶長8年に十一男の頼房公(水戸)などが、続々と産まれる。
孫の家光公(3代将軍)が産まれたのが慶長9年、しかも、家光公は家康公の実子という俗説があるくらい。
ただし、家康公の最初の正室は今川義元侯の妹の子つまり政略結婚(しかも悪妻)、後妻は秀吉公の異父妹でこれも政略結婚(要するに、わけのわからない百姓しかも既婚者、しかも早死に)、そして、秀忠公を産んだ側室は28歳で亡くなっているから、ただ単に好色というわけでもない。

名古屋城は、豊臣家を殺すための城。
秀頼公が、まだ大坂城に生きていたので、それに対抗する城をこの位置に構える必要があった。
治水、交通、戦略的地勢的に、清須城ではその役目には不足というのが理由らしいが、ついでに外様大名の資金力を削る目的もあったのだろうと思う。
というのは、短期間の突貫工事であり、海寄りだから石材も遠方から運んだ。清正公の逸話が有名。

慶長18年(1613年)、清須城は廃城。解体して、小天守を移築したほか、名古屋城の資材に転用された。
『清洲城とその城下町は、名古屋城が築かれた際、なにもかも名古屋に移され、一瞬にしてほとんど廃墟になった。これを「清洲越」とよんでいる。』(『日本の城ハンドブック新版』)

家臣はもちろん、職人や商人の住居と暮らし、寺や神社など、城下町まるごと清須から名古屋へ移転したという。
根こそぎ持っていかれて何もなくなった清須城だが、現在はレプリカを建てて、なんちゃって清須城として復活しており、五条川をまたぐ大手の橋の欄干が赤いことから「千と千尋の銭湯城」と呼ばれたり、織田信成選手が名誉城主に任命されて観光客集めに貢献したりしている。

慶長19年(1614年)、名古屋城がほぼ完成。
元和2年(1616年)、義利侯が名古屋城に入る。名古屋藩という意味での
尾張藩がスタート。

以後、明治まで尾張徳川家が統治。
ただし9代で血は絶えている。16人のうち10人が養子で、早死にした人が多い。
11代目の斉温公などは、病弱すぎて、一生を江戸で過ごした。

  (明治政府知藩事、尾張徳川家)

尾張藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月17日。

『藩史大事典』の、尾張藩の歴代藩主は、16代目の義宜公で終わっている。
この人の時、廃藩置県したから(明治4年(1871年)7月14日)。

しかし義宜公は6歳で藩主になって、亡くなったのは明治8年(1875年)まだ18歳だった。
だから実際には、すでに隠居した実父(14代目藩主)の
慶恕公(のち慶勝)が、幼い義宜公に代わって尾張藩の指揮をとっていた。
しかも慶勝公は、早死にした義宜公の後もう一度家督を継いで17代目当主になっており、明治3年(1871年)12月3日から廃藩置県までの間、名古屋藩の知藩事も勤めた。

というような事情で、尾張藩徳川家は実際には16代だけれども、慶勝公の復帰を含めて17代と数える人もいる。

明治3年(1871年)12月、維持費が莫大という理由で、みずから申し出て名古屋城は廃城になったが、もったいないので国宝として保存しておいたところ、昭和20年(1945年)5月、アメリカに滅ぼされた。
今はレプリカを建ててある。

 

 藩の性格

尾張徳川家は、大名の最高峰。
紀伊徳川家よりも兄貴分で大身、水戸徳川家なんぞはザコに見えるほどの、超大物。
将軍家に万一があった時のためのバックアップとして、最大の重鎮だった。

ところが、莫大な費用をかけて威張っていただけで、ここぞという時に役に立ったことがない。
将軍家に跡継ぎがいない時、次期将軍争いでは、尾張藩は一度も勝てたことがない。
尾張藩よりも格下の紀伊藩か、その親戚が、将軍になっていた。
水戸藩ゆかりの人物が将軍になることはあっても、尾張藩からはとうとう一度も将軍を輩出できなかった。

紀伊藩では、藩主が入浴中にムラムラして、身分の卑しい下女に手をつけ、産まれた子が8代将軍になったばかりか中興の祖とも言うべき名君で、御両卿(のちの御三卿)を設置してしまい、一橋家が徳川家の総本家のような格好になった。
もはや将軍家は紀伊徳川家の子孫が独占であり、尾張徳川家は将軍候補から排除されてしまった。

それどころか、吉宗公の子孫が養子に入って尾張藩主になったことが4回ある。

幕末、本気で幕府のために命を差し出したのは、会津藩や桑名藩や、名もなき浪人や、百姓とたいして変わらない郷士たちだった。
尾張藩はあっさり官軍側についた。おかげで譜代諸藩もいっせいに倒幕に傾いた。

『 鳥羽伏見の戦いのあと帰藩して藩内の佐幕派一四名を一斉に検挙し、「朝命により」死罪とした『青松葉事件』は、随分と非情な措置ではあったが、幕藩体制との決別のためには藩内外に計りしれないほどの宣伝効果があった。そののちも、尾張藩は中部地方の各藩から勤王の請書を集める窓口となり、さらに官軍の主力として中山道から東北にかけて戦った。』(八幡和郎『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』光文社2004)

しかも、幕府を裏切っても、明治政府から優遇されたわけでもない。
尾張藩はどっちみち名古屋県(のちの愛知県)になってしまうのだし、しょせん御三家筆頭だから、薩摩や長州や土佐の連中がやっている明治政府に、尾張藩出身者ごときが出る幕はなかった。

尾張藩主はだいたい悪役に描かれ、時代劇では中尾彬さんなどがふてぶてしく演じる。
史実では、家光公が病気になった時、大軍を率いて江戸に向かい、いつでも将軍にとって代わるという勢いを見せた。
徳川将軍家とは別のカラーを打ち出す、そこが尾張藩のいいところでもあり、尾張藩にしかできない役割でもあった。
小さな藩が勝手なことをすればすぐに取り潰されるが、尾張徳川家ほどの大物には、幕府も強いことを言いにくいのである。

そして、武術への貢献度は計り知れない!
新陰流を始め、尾張徳川家の
文化的な功績はもっと高く評価されなければならない。
7代目の
宗春公は、吉宗公の質素倹約を否定して、あてつけがましく派手な贅沢をして、風紀の乱れと経済破綻を招き、強制隠居させられたが、それは城下に消費や流通を促進させ、芸能や美術工芸を厚く庇護した一面もあったのである。

将来どうなるかわからない大変な時に、徳川氏の一部が官軍側にいることは、それこそ、利益や血を後世に残すための、最良の選択だったとも言える。

 

 江戸屋敷

本項の出典は、児玉幸多監修、品川区立品川歴史館編『江戸大名下屋敷を考える』雄山閣2004、16頁。国立公文書館内閣文庫所蔵『諸向地面取調書』から渋谷葉子さんが作成してくださった『尾張藩江戸屋敷地一覧』。
四ッ谷と四谷など表記はママ。5千坪を超すものを太字にしておく。

上屋敷、市ケ谷(これだけで7万5千坪! 今の防衛省)。
道式地、四谷坂町。
抱屋敷、市ケ谷(勝田次郎代官所、上屋敷地続ニ付囲込)。

拝領中屋敷、四ッ谷御堀端(外同所82坪余新規道式)。
拝領中屋敷、麻布飯倉横町(天徳寺へ貸置)。
拝領屋敷、麹町拾町目(『藩史大事典』では十一丁目)。

拝領下屋敷、和田外山、戸山邸(和田戸山御殿。『藩史大事典』では大久保外山)。
抱屋敷、和田戸山、戸山邸(済松寺無年貢地入合下屋敷地続分囲込)。
抱屋敷、牛込原町末(済松寺領、和田戸山抱屋敷地続ニ付一囲)。
抱屋敷、大久保村(無年貢地、簾中所持)。
拝領下屋敷、四谷内藤宿(道式共。天保〜幕末頃)。
拝借地、四谷内藤宿能勢大内蔵上ケ池(下屋敷地続ニ付一囲)。
拝領下屋敷、市ケ谷新本村。
拝領下屋敷、市ケ谷加賀屋敷土取場。
拝領下屋敷、深川元加賀町。
永預地、深川元加賀町。
拝領下屋敷、市ケ谷川田ケ窪(400坪)。
拝領添屋敷、表六番町大手通。
拝領屋敷、四ッ谷仲町。
拝領屋敷、川田ケ窪(7700坪。『藩史大事典』では下屋敷。天保〜幕末頃)。
拝領屋敷、市ケ谷薬王寺前。
拝領屋敷、市ケ谷田町四丁目(火除地)。
拝領屋敷、蛎殻町。
拝領屋敷、牛込逢坂。
拝領屋敷、青山権田原。
拝領屋敷、四ッ谷北加賀町。
拝領屋敷、市ケ谷加賀屋敷。
拝領屋敷、市ケ谷本村。
拝領屋敷、市ケ谷左内坂(馬建所)。
拝領屋敷、四ッ谷御門前御堀端石原定五郎上地(市ケ谷本村拝領屋敷地続ニ付一囲)。
拝領屋敷、大久保袋町。
拝領屋敷、四ッ谷伝馬町。
拝領屋敷、大久保入口。
拝領屋敷、四谷三光院稲荷脇。
拝領蔵屋敷、木挽町築地(『藩史大事典』では下屋敷)。
拝領屋敷、川田ケ窪(300余坪)。
拝借地、四谷山下弥太郎上リ地ヤシキ(四谷内藤宿下屋敷地続ニ付一囲)。
拝借地、市ケ谷。
抱屋敷、西大久保村(鉄炮玉薬同心給地、貞慎院所持)。
拝領屋敷、市ケ谷田町御堀端。
抱屋敷、大久保町(鉄炮玉薬同心給地、簾中所持)。
抱地、大久保村(鉄炮玉薬同心給地)。
抱屋敷、亀戸村飛地深川蛤町(内100坪道式、竹垣三右衛門代官所)。

 

 藩校

尾張の藩校は、作っても作っても、たびたび「創立」している。
歴史を古く見せかけるために、「創立」を大昔にして、実際の創立を「再興」「復興」「改編」などと称するのは、よくある。
しかし義直公は確かに勤勉で、学者を招聘して、さかんに聴講していたようでもある。
『義直は幼くして駿府において林羅山の薫陶を受け、また父家康の遺訓により儒学を信奉奨励した。寛永のはじめごろ、義直は名古屋城内に孔子堂を建て、同六年、羅山が名古屋を訪れたとき、これを拝したといい、諸藩が聖廟を建てる先駆けとなった。』(『藩と城下町の事典』)

『日本教育史』では、義直公の時すでに「
学問所」を設置していたということになっている。
常設の学校施設でないとしても、講習会のようなことは、しょっちゅうやっていたのではあるまいか。
学者のほうも、尾張藩に呼ばれるというのは大変な名誉だったはず。

しかし宗春公の快楽三昧があり、尾張藩士は遊廓や芝居小屋に入り浸って、尾張全体がアホだらけになってしまう。

宗勝公は、だらけた尾張藩を引き締め、学問を積極的に奨励する。
寛延元年(1748年)2月10日、蟹養斎(という名前の儒学者。かに・ようさい。山崎暗斎門下)が、巾下埋門外御作事屋敷内に、「
巾下学問所」を私設。
自力で創立したので
藩校ではなかったが、のちに藩からの助成があったらしい。
しかし経営難で、3年ほどで廃止。
尾張藩ほどの金持ちが援助してるのに、経営難でつぶれるというのが、よくわからないが、この時はそれほど教育に金を使う気がなかったのか。

『藩史大事典』は、巾下学問所のことを述べた直後に、天明三年に藩校が創建されたと述べており、巾下学問所というのは藩校創建以前のことらしい。
『藩と城下町の事典』は、幅下学問所と表記し、『明倫堂の前身』だとしているが、前身という言葉は次の施設に連続性があるんだかどうだか。

『日本教育史』に、『寛延二年、始て明倫堂と名付けし』とあり、このころ、すでに明倫堂という名前があったする。
まだ学校がないのに校名だけはあったという、これだから朱子学ってやつは。
あるいは、巾下学問所の校舎名か何か?

明倫は、『孟子曰く、庠序を設け学校となし、もってこれを教え、みな人倫を明らかにする所以なり』に由来する言葉で、ありきたりな学校名。
孟子は孔子につぐ基本的なところで、じつは徳治だから易姓革命なのだが、そのへんは朱子学ではうまく調整されている。

天明2年(1782年)、「学館」なるものを設立。
『日本教育史』では、またまた、これも『仍ほ明倫を以て名とし』たという。

ところが翌年、またまた学校を設立するのである。
天明3年(1783年)4月、名古屋城南片端長島町東角に校舎を建設。
またまた「
明倫堂」という名前、5月1日開校。
本当に正直に言えば、
この時が、尾張の「藩校」の本当のスタートだという。
『藩史大事典』の尾張藩の[藩校]の項目には、『成立年月』を『天明3年4月』としており、出典は『愛知県教育史』だという。
『日本劍道及刀剣』の年表でも、天明3年のところに『名古屋藩校明倫堂設立』とある。

『藩と城下町の事典』では、『九代藩主宗睦が天明二年(一七八二)、城南の御国方役所跡に工を起こして翌年竣工。細井平洲が総裁となり、明倫堂と命名された。』とあり、天明2年に作り始めて天明3年に完成したのが明倫堂だとする。
おそらく、このへんが真実に近いのではあるまいか。

『藩史大事典』は、『民衆の聴講も許した』とする。
『日本教育史』では『士族と卒族とをして、席を異にせしめ、』『其平民の入学を許さゞることは、諸藩と同じ。』としている。
どっちなんだ? 時期によって違ったのかもしれないが。
『日本教育史』の言い方は維新後のようでもあるが、時代がくだるほど身分差別が激しくなったのだとすれば、時代に逆行している。

武術が教科に取り入れられたのはかなり遅かったが、弓術だけは、礼法の関係で早くからあったようでもある。
『藩史大事典』は、『文久・元治年間より武術を拡張』だとする。

文化年間、古学が主になる。
天保4年(1833年)から、国学も扱う。
すでに倒幕の芽はあったのだろうけれども。

慶應2年(1866年)、寄宿生を置くようになる。
この年、「武術科」なるものが設置された。

『日本劍道及刀剣』の年表では、慶應2年に『名古屋の明倫堂に武術科を設け、柳生嚴周教導總師たり。』とある。
『日本教育史』には、『学科は和学、漢学、算法、筆道、習礼、
弓術なりしが、慶応の此より、馬術、剣術、槍術、練兵を加ふ。』とある。

明治2年(1869年)、「学校」と改称。
この年に全国でおこなわれた制度改革に伴うものだとすれば、名前だけでなく組織も改編していると思われるが、一説には、学校と改称したのは明治元年だともいう。
「学校」も、じつは『孟子』に由来する言葉。
よく三流のミュージシャンが、あまりなじみのない言葉を引っぱり出してきて、「このアルバム名は、ケルト民族の神話に出てくる先住民の神聖な古語で、『希望』という意味です」とかなんとか、聞かれもしないのに説明して、得意になっていたりする。
おまえの人生はケルト民族になんら関係あるまい、なんでおまえの表現はよその文化様式を迂回してくるのか、創作表現が生きざまから出ていないではないか。
関係ないものを借用して、うわべだけ飾り立てるのが、おまえの生きざまだというなら、その程度の表現者だから、それが「ありのままの自分を出している」ということになるのかもしれんが(笑)
異文化に触れて感銘を受けたので、その土地を訪れて寝食を共にして、学んで取り入れてみましたとかいうならともかく、言葉の響きがハイカラでナウいかもと思ってやってるだけではないか。
外国人の御客様にこれを出せるのか? イエローモンキーはゴーホームしろ。
…というのが、よくある。
「学校」も、当時としては中国の古典にある高尚な学術用語であり、日本語の一般的な言葉ではなかったのである。

明治4年(1871年)7月28日、廃校。
校舎は売却。このとき「
武揚学校」に改編?
明倫堂の名前と、校名の額だか看板だかと、尾張藩の藩校の伝統は、この学校が引き継いだ。
ところが、この学校のことは、なにやら、ものすごく都合が悪いらしく、歴史から完全に抹殺されており、その後どうなったのか何もわからない。
校名からすると、武術史を追う者にとっては貴重な歴史だと思うのだが、やっぱり教育の世界では、剣よりペンが尊ばれるのだろうか。

そして、なぜか1世代もの時間が過ぎてから、尾張徳川家が、新しい学校を別に作る。
明治32年(1899年)認可、その翌年「私立明倫中学校」が開校。

その後、愛知県立第一女子高等学校と合併して、現在は愛知県立明和高等学校。
同校生徒会のホームページでは、沿革が『天明3』から始まっており、明倫堂の命脈は武揚学校を経由して明倫中学校設立に『直結するのである。』とあるが、どうして直結するのかは記載がなく、また、武揚学校に関しては『資料不明』だという。
資料不明なのに伝統は直結するという。
あるいは、武揚学校が明倫中学校に統合されたか、武揚学校の関係者が明倫中学校の設立に関与したのだろうか。

 

 唯心一刀流継承者

尾張に唯心一刀流があったという話は聞かないが、俊直先生からの分派、新外他流があった。
継承者の御名前は伝系のページ。
一刀斎先生の流派名を、外他流だとか新外他流だとする資料が現存することは興味深い。

尾張には、ほかに先意流があったが、正木先生を経由するのかどうか微妙。正木先生のページ。

 

 他の剣術の主なところ

尾張では総合流派が少なくなく、他藩で言うところの槍の流派や居合の流派にも剣術がある。
尾張の武術について書くと、それだけでホームページを1つ運営して毎日かかりきりになっても足りないほどなので、こまかい話は常時4Gにて。
この項は後日ちまちまと加筆していく予定。

  おそらく尾張藩に正式採用されていた剣術

   小野派一刀流
御存知のとおり。

   影ノ流(新陰流)
新陰流柳生系尾張伝。御存知のとおり、藩主みずから、たしなんでいた。
じつは複数の伝系が現存している。

   影ノ流(柳生流)
柳生流柳生系尾張伝。
柳生家には、新陰流と柳生新陰流と柳生流があり、どれを習うかは身分役職によって決まるとするが(島津先生が聞き出した証言)、尾張藩でもそうだったのかどうか。
『藩史大事典』では、『影ノ流(新陰流・柳生流)』という書き方をしている。

   直心影流
御存知のとおり。

   浄雲圓真流
浄雲自得流ともいう。正称が何であれ、
浄雲流と呼ばれていたようでもある。

   神道無念流
岡田利惇先生が明倫堂で指導なさっていた。
山岡流(鎖鎌)と、条参流(薙刀、柔、活殺)を併伝か。

   天自流
一刀流の末流。尾張藩士が流祖。現在ではあまり知られていない流派だが、関東地方などでも流行っており、普及していた。

   中西派一刀流
遠藤正贇先生は木曽福島代官(山村家)の臣だが、『決定版日本剣客事典』に、『慶應三年、高弟の小幡民衛門の推挙で尾張家に出仕、藩校明倫堂の撃剣後見となった。廃藩後は木曽福島に帰り、』とある。

   北辰一刀流
御存知のとおり。

  尾張藩士がやっていた剣術
  
(とても書ききれないので、パッと思い付いたものだけ。ぼちぼち追加)

   荒木流
尾張藩に荒木流があったのは間違いないようだが、一説には剣術流派だという。
一般的には夢仁斎系に剣術は含まれないが、珍しい末流や別系が多い流派なので、シロート判断は控えたい。
荒木流剣術に関しては小諸藩のページ。

   猪谷流
新陰流と圓明流と制剛流の末流。剣・居・縄。

   圓玄流
圓明流林系の分派。
剣・管槍・長柄・居・大太刀・三道具・武用治機手詰之伝剣術抜討鍵槍。

   円導流
西岡是心流ともいう。是心流尾張伝。

   圓明新流
圓明流市川系。左右田系の本流。

   圓明流、その他の圓明流系(名称不明)
弘化2年(1845年)の尾張藩剣術師範18名のうち、6名が圓明流だったという。
さらに在野の圓明流系が複数あったことは間違いないが、異説が多くて収拾つかず。
武蔵先生系統の二刀をお使いになる先生は、明治末期の愛知県内で約20名。
圓明流系の場合、「十手術」とおっしゃっていたとしても、全くの剣術がある上でのソードブレイカーや手裏剣だったりするので、基本的に剣術に含めるつもりでいないと、しばしば情報を取りそびれる。
二刀の話は1Gにて。

   岸流
馬場系。

   極心流
荒井先生以前。剣・居・薙刀。

   玄流
圓明流林系と圓玄流の末流。大太刀・軍法。
静流薙刀も兼修なさっていることが多い。

   佐々木流
北窓流佐々木系。一条不二流強法を併伝。

   直師東軍流
棒・槍・剣。いわゆる棒の手として現存。

   松井流
しょうせい、と読む。
松井二刀一刀流ともいう。剣・馬。
無二流・大坪流・八条流・人見流の末流。

   聖徳太子流
太子流望月系。

   神影流
神後系。尾張藩ではあまり
神後流とは言わなかった様子。
あるいはこれも、影ノ流と呼ばれていたか。

なお、尾張藩には剣術の神影流とは別に、義経公が流祖だと称する棒の手の神影流もあった。

   新関口流
新心関口流から派生。居・剣。

   心智貴直流
貴直流尾張伝。正称は
貴直流だったかもしれない。軍・剣・薙刀・棒。

   新外他流
前述。

   先意流
別記。

   堤宝山流
武藤系。

   津田貫流
津田流、貫流、一兮流、伊東流貫流ともいう。
太刀・小太刀・手裏剣・鉄扇・管槍・剣・居。

   天真正流
鹿島天真正新當流尾張伝。鍵槍・太刀・早足・長刀。

   無二流
鉄人実手流の末流。十手・剣・強法(一条無二流を併伝)。
棒の手にもある。

   融和流
武蔵流の分派。平法・剣・槍・薙刀・棒・鎖鎌・十手・手裏剣・鉄扇・砲。
棒の手にもある。

  剣術流派ではないが、尾張藩で剣術を扱った可能性がある流派

   一全流
武道全伝道しるべの伝、全流、全流練兵伝
ともいう。総合流派。
どちらかというと、兵学・騎射・砲術で藩に採用されていた様子。
しかし流祖は貴直流を習ってらっしゃる。

   浦野流
器巧・試剣。ことによると聖徳太子流剣術が入っている可能性があるか。

  流祖は尾張藩士だが、「尾張藩の剣術」かどうか微妙なもの

   名古屋長塀流
北辰一刀流と小野派一刀流の折衷。
これが江戸時代からの流派名なのかどうか。
流祖は藩校世話掛だが、小野派の免許を受けたのが大正12年、御逝去が同15年。

  江戸屋敷だけでおこなわれていた剣術

   鈴木派無念流
神道無念流の末流。
剣・両刀・居・大太刀・小太刀・長刀・槍・組討・小具足・棒・野太刀。

  今尾藩の藩士?が宗家だった剣術
御三家には、補佐役とか教育係というような名目の、じつは監視役が、将軍家から派遣されて貼り付いており、「御附家老」という。
何万石ももらっていて城も家臣もあるが、大名の家来であり、大名ではなかった。
のちに明治政府からは、藩として扱われている。
尾張の場合、美濃今尾の竹腰家、尾張犬山の平岩家、平岩家の後任の成瀬家があった。

   大神流
おおが、と読む。橋詰家。

   柿沼一刀流
馬庭念流から派生。柿沼家。

   十智流
じっち、と読む。二天一流の末流。
流祖は竹腰家の同心の一族に生まれたが、義直公の小姓を経て、家督を継いでいるから、尾張藩士?

   馬庭念流
柿沼先生は、柿沼一刀流と馬庭念流を、それぞれ教授なさっていたという。

  犬山藩の師範が宗家だった剣術

   行詰流
ゆきつめ、と読む。流祖は犬山藩士ではなく尾張藩士らしいのだが、犬山在住で、犬山藩の師範。
「犬山藩の武術」ではなかったとしても、「犬山の武術」ではあるかもしれない。
綿谷先生も、『尾州藩に仕え、犬山城主成瀬家剣術師範として行詰流を創始した。』などとお書きになっている。

そもそも附家老の身分も微妙だが、附家老のそのまた家臣というのは、附家老・藩主・幕府、どれに帰属するのか、俺にもよくわからない。
附家老は独立した大名になりたくて、ひとまず直参に戻ろうとしたりしている(ということは、本来は将軍に仕えるはずの人であり、しかし実情は将軍直属でなかった)、にもかかわらず、石高は藩主からではなく将軍から直接もらうこともある。
平岩家がつぶれた時は、領地と家臣を、幕府に返上ではなく尾張藩に献上したように見える。

  尾張藩の剣術だとは思うが、もしかして高須藩?

   角田流
二刀正流の末流。
流祖は、高須の御出身で尾張藩士、ということらしいのだが。
美濃高須藩は、尾張藩の御連枝だが、支藩ではない。
もともと普通の大名がやっていた普通の藩が、つぶれたのを、御連枝の置き場所として復活させたものであり、尾張藩を削って分けたわけではない。

  尾張藩領木曽福島でおこなわれていたが、剣術かどうか?

   大越流
これは「真開流という体術を併伝する、剣術の流派」という説があるが、謎。
大越流は槍の流派、真開流は剣の流派のはず。
あるいは、真開流は長尾信開流のことか。長尾信開流では「体術」とおっしゃる。

 

 現在の状況

他の流派は少なからず話があるけれども、唯心一刀流関連は不明。

 

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