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 非杉浦系の、古藤田先生の剣術があった

 豊前 中津

 

 藩の名前

中津藩、豊前中津藩、奥平藩。奥平大膳大夫など。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

細川家は、外様、国主。30万石。

小笠原家は、譜代、帝鑑間詰、城主。
 長次侯のとき8万石。
 長胤侯のとき弟に5千石を分けたが、これは私墾田。8万石のまま。
 長円侯のとき4万石。

奥平家は、譜代、帝鑑間詰、嘉永6年(1853年)から溜間詰、城主。10万石。

 

 位置と、土地の性格

豊前国下毛郡を中心に、上毛郡・宇佐郡、その他。
これは、しもつけぐんではなく、「しもげぐん」と読むらしい。セクシーな言葉なので、よくネタにされるという。

現在の大分県中津市周辺、その他。
周防灘の湾の一番奥。
外様大藩を押さえるため、九州北部には譜代を置いて、監視や牽制をさせなければならない。

長次侯の時は、下毛郡82ヶ村、上毛郡19ヶ村、宇佐郡124ヶ村(『寛文印知集』)。

奥平家の時は、下毛郡61ヶ村2万4千石余、上毛郡19ヶ村7千石余、宇佐郡84ヶ村3万石余、ほかに飛び地として、筑前国怡土郡29ケ村1万7900石余、備後国安那郡・神石郡・甲怒郡36ケ村2万石余があった。

寛永10年(1633年)から7年間、幕府領の日田・玖珠郡6万石を、預かっていた。

島原の乱のあと島原藩主になった高力家が、また過酷な年貢で民衆を苦しめて改易になり、この時の処理で、寛文8年(1668年)、島原藩の飛び地の豊後国高田2万8千石を、中津藩が一時的に預かったこともある。

慶應3年(1867年)12月4日、香春藩との間で、領地を少し交換する。
直江村・土屋垣村・別府村を手放し、小祝村と高浜を手に入れた。

小倉藩は、長州征伐で小倉城が焼けて本拠を移転、香春藩になっていた。のちに豊津藩になる。

 

 藩主と、藩の性格

  豊前宇都宮家、代々

鎌倉時代から、宇都宮氏の一族、城井家が、北九州を統括していた。

これを何と読むのか、ものの本を見ると、フリガナが「きのい」と「きい」、2種類見かける。
『日本の城ハンドブック新版』では、『城井谷城』『土豪宇都宮(城井)鎮房』のほか、『十八代木井(宇都宮)鎮房』と書いている箇所もあるが、いずれも「きのい」とルビ。

おなじみ日武会の『日本全国名前(姓)の読み方(50音編)』で城井を引くと、「きい」「じょうい」はあるが、「きのい」はない。
日外アソシエーツ編集部編『苗字8万よみかた辞典』紀伊國屋書店1998で城井を引くと、「きい」「じょうい」「しろい」はあるが、「きのい」はない。

右太衛門主演『乞食大将』では、城井鎮房侯の娘ではなく妹を人質に差し出して和睦のはずが謀殺という話だったりするが、字幕も、自他共に発言も、「宇都宮」であり、あまり城井と言わない、しかし、『なにい、城井谷が?』、『城井谷の方々、神妙になされませ』などと言っている箇所はあり、「きいだに」と発音している。

城井家は、神功皇后の弓術儀式「艾蓬の射法」というのを継承しており、足利将軍家に伝授したりした。
ヨモギの茎を矢にして射ることによって、吉凶を占うというか出陣の景気付けをする極意。
男塾の教官が壮行会でよくやっていた、あのたぐいである。

鳴弦蟇目とか、破魔の鳴鏑とか、三十六禽法のネズミとか、弓術にはそういうことがよくある。

なんでヨモギかというと、枯れてもなお薬効を残す、生死は問題にあらず、という意味だとか。

城井家は、このあと、大内家、大友家、島津家と、その時どきの支配者の傘下になりつつも、独自の勢力を維持し続けた。

  多々良大内家

戦国時代の初期には、周防の大内義隆公がきわめて広範囲に勢力を拡大、少弐氏を滅ぼすなどして、北九州も制圧してしまう。
徳山藩のページ。

しかし、陶家に下克上される。

  右田陶家

大内家の家来、隆房侯(のち晴賢)が挙兵。
天文20年(1551年)9月1日、義隆公は自害。跡取り息子の義尊君6歳も、翌日に始末された。
陶家は、大内氏の傍流。

  多々良大内家(一応)

陶隆房侯は世間から非難されないように、表向きは大内家を存続させつつ、陰で操ろうとたくらむ。

大内義隆公は子宝に恵まれなかったので、甥の大友晴英君に大内家を継がせるという話があったが、実子の義尊君が生まれたので立ち消えになっていた。
この晴英君を引っぱり出してきて、大内家の新しい当主に据え、
大内義長ということにした。
もちろん傀儡だが、そうとわかっていても本人も乗り気だったという。

しかし陶家は、すぐ滅ぼされる。
狭い厳島へ大軍を率いて出兵したところ、じつは毛利家の罠で、袋だたきにされて自害するのである。弘治元年(1555年)10月1日。

  豊後大友家

あやつり人形を設置だけして、あやつるはずの人は消え失せてくれたので、あやつり人形の実家が、ボタモチを拾うことになった。
豊後の
大友義鎮侯(いわゆる宗麟)。
大内義長侯の実兄だったため、大内家の九州領地を支配下におさめた。

強気な快進撃を続けて、一代で家を隆盛させた人で、室町幕府からは九州探題に任じられ、一時期は、豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護を兼ねる巨大大名。

宗麟は法名で、禅に帰依して出家していたのだが、キリスト教を庇護して、西洋式の大砲や医学を早くから導入した。
寺や神社を破壊したり、晩年は自ら洗礼を受けて狂信的キリシタンになり、キリスト教や西洋文明の価値観で行動したので、奇異に見られて、有力武将たちが愛想つかして離反してしまう。

若い頃から極度のすけべえでもあり、美人とみれば家臣の妻や娘にも手をつけ、家臣を殺して妻を奪い取って妾にしたので、これはキリスト教圏ではたいていの王様がやってることなんで珍しくないのだろうけれども、日本では、家臣から嫌われる原因になった。

息子に家督を譲った後も実権を握っていたため、家中が二派に分かれて対立したのも、良くなかった。

さらに、周囲は敵だらけ。

  薩摩島津家ほか

安芸の毛利家は、陶家も尼子家も滅ぼして中国地方の多くを掌握。
たびたび北九州にまで攻め込んでくる。

肥前の龍造寺家は、肥前どころか肥満後であり、酒と女におぼれ、跡取り息子も軟弱のアホで、どうしようもなかったが、主君が無能であればあるほど、名宰相の鍋島直茂侯が危機感を持ってバリバリ働くので、これはこれで強剛だった。
肥前の有馬家なども配下におさめていた。

薩摩の島津家も、このころ本気で天下取りをやっており、九州全土を掌握しかねない勢い。
四兄弟の猛進撃により、薩摩・大隈のほか、伊東氏を追い払って日向も手に入れる。

筑前の秋月家も、父と兄を宗麟侯に殺されて領地を取られて大友家の家来にさせられていたので、機会あるごとに大友家に刃向かった。
毛利家や龍造寺家や島津家とうまく連携して勢力を盛り返し、一時期は筑前・豊前・筑後の一部などを支配した。
秋月家が仲介して、龍造寺家と島津家が同盟したため、大友家ばかりが集中攻撃を浴びることになった。

大友家は今山で龍造寺家に、耳川で島津家に惨敗し、以降は没落の一途。
耳川の戦いでは、島津軍は八幡大菩薩の旗を掲げて戦ったので、キリスト教にうんざりしていた大友軍の将兵たちは総崩れになった。

これと似たようなことを、290年後、官軍が、錦の御旗でやるのである。

沖田畷の戦いで、島津家が龍造寺家に大勝利すると、もはや九州の大部分は島津家の支配下。
大友家は秀吉公の軍門にくだって援軍を出してもらい、滅亡だけはまぬがれたが宗麟侯は病死。
大友家は豊後一国の大名に戻る。

  姫路黒田家、2代

九州大名の土地奪い合いは、秀吉公が停戦させ、領地を線引きする。
秀吉公はもともと戦闘以外で解決するのがうまい人だが、秀吉公の天下統一というのは、結局のところ、戦闘をやめろという命令を、関白の名で出していることによる(これに従わないと、天皇にそむいたことになっちまうから)。

天正15年(1587年)7月3日、中津も含めて付近一帯は黒田孝高侯に与えられた。
馬ケ岳城を経て、翌年、中津に入り、中津城を築く。
豊前国京都郡・中津郡・築城郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡に、合計12万5千石、一説には12万3千石。
『諸国城主記』は13万石としている。16万石という説もあるが実高か。

孝高侯は、官兵衛とか如水という名前のほうが通りがいい。秀吉公の軍師。
汚い陰謀をめぐらすのが抜群にうまい策士で、秀吉公に重用された、というか、あんまり優秀で冷酷なので秀吉公からも少し危険視されていたともいう。

城井家は、伊予今治12万石だか上筑後200町だかへ移封を命ぜられたが拒否、秀吉公に朱印状を突き返す。
中津を400年近く領有してきた名家が、百姓の猿に命令されて面白いわけがないから。

当主の城井鎮房侯は、ひとまず毛利勝信侯のもとに身を寄せていたが(安芸の毛利ではなく、尾張の、森系の毛利)、国人たちの一揆に乗じて挙兵、黒田家に取られていた大平城(城井郷城、城井谷城)を奪い返す。
城井家の復活を聞いて旧臣たちが馳せ参じ、地元なので地形を知り尽しており、城井谷も天然の要害で、強弓の伏兵があちこちに配置されていた。
黒田家の長男の長政侯が率いる鎮圧軍が攻めに来たが、狭い山道で挟み討ちして、ボコボコにして追い返した。

しかし籠城してても援軍が来るわけじゃなし時間の問題であるから、「城井家の娘が長政侯に嫁ぎ、城井家の旧領は安堵」という条件で、ひとまず和睦。

その後、鎮房侯が中津城に来た。
秀吉公の命令で出頭させたとも、孝高侯が留守で長政侯しかいない時に鎮房侯のほうから自主的に来たとも、婚約祝いの宴として娘ともども招待だったともいう。

黒田家は、鎮房侯を謀殺する。
小姓1人をのぞいて、鎮房侯の従者たちを城外の寺かなんかに待たせておき、宴席の最中に、油断させたところで、だまし討ち。

一説には、後藤基次侯(いわゆる又兵衛)が、槍で刺したともいう。

従者たちもみんな殺し、城井谷城も不意討ちして落とし、城井家の嫡男も殺し、城井家の家臣たちも皆殺しにして、結婚するはずだった娘(13歳)もブッ殺した。

これ以降、武神の天罰というか城井家の祟りが続き、中津城は呪われた城、黒田家は婚約者一家を惨殺した家、ということになった。
うしろめたいので中津城内に神社を作って、城井大明神として祭ったりもしたが、当時の黒田家は親も子もキリシタンなので、あんまし意味がないというか。
この時から中津の西洋科学文明化は、すでに始まっていたのかもしれない。

福沢諭吉も、おふだを捨てたり、御神体をすり替えたりして、神罰が実在するかどうか実験している。
神や死者を敬っていては、近代化できないものらしい。
未開の人々のほうが、神や精霊や自然と共に、謙虚に生きてらっしゃるものなのだ。

 ※追記
↑これはこれで俺の率直な意見なので、このままにしときますが、この文章を見たM先生から、きわめて激しいツッコミを頂戴したので補足しときます。
宗教において奇蹟が起きるのは、人々に信心を起こさせるためではなく、神が神であるがゆえにおのずとポロッとあらわれる「しるし」なのであり、神でさえ奇蹟を起こそうと思って起こしているわけではない場合がほとんどだから、人間なんぞが祈っても願っても金輪際起きるものではなく、起きる時に自然に起きるだけである、つまり、魔術や呪術と違って無条件に神にすべてをゆだねているということなのであるが、ここで「しるし」と言って「あかし」という言葉を使わないのは、神が神であることは天地開闢以前からとっくに当たり前の真実であり、また、そういう前提でやっているのが宗教なのであるから、今さら神の能力に証明は必要ないのだし、そもそも証明されなければ信じないというのであればまだまだ信仰になっていないのである、この謙虚さは一神教において特にキリスト教に顕著な特徴であり、年がら年中奇蹟ばっかり起きるキリスト教にさえ「神を試してはならない」という教義があるほどで、西洋科学文明のうわべだけかじった福沢諭吉が合理主義の傲岸不遜をやったからといって、それがキリスト教に起因すると思われては世界20億のキリスト教徒とイエス様が迷惑するから、このこと一言書き添えておけ、とのことです。
いや、それでも俺は、ブッシュが「聖戦だぁ」とかほざいてテロの仕返ししたのはキリスト教の暗黒面以外の何ものでもないと思ってるし、キリスト教の神は万物を創造なさった時、地球と動物をすべて支配しろなんてことを人間におっしゃったのが、めぐりめぐってパンダの密猟にまでつながってんじゃないかと思ってるんですけど、キリスト教にもいい人はいますね、たしかにね。

孝高侯は如水軒と名乗って隠居(一説には、優秀すぎて秀吉公が嫉妬したので、黒田家を取り潰されないよう引退したのだという)、長男の長政侯に代替わり。
親の領地を継いだはずなのだが、『諸国城主記』は18万石としている。
この人がまた勇猛な武将で、朝鮮人を殺して殺して殺しまくった。
関ヶ原では戦闘も大活躍だったうえに、小早川家などを寝返らせるなどの謀略においても父親ゆずりの才能を発揮した。
正室は家康公の養女。

ところで、大友家はその後、息子の義統侯(のちに吉統)が継いだものの、朝鮮での指揮のヘマと酒乱その他で改易されていたが、関ヶ原の時に再興を狙って、西軍側で挙兵し、黒田家の留守をつついた。
黒田家の軍勢は長政侯が関ヶ原へ持っていってしまったが、留守番していた如水侯は金蔵を開き、山積みの金銀で浪人や百姓を雇用、たちまち1万人近い軍勢を新たに組織して、大友軍を返り討ちにした。

如水侯は、なまじ戦史を知っていたために、今回の徳川家と豊臣奉行衆の戦いが、源平や南北朝や応仁の乱のように長引くと思い、それなら、その間に九州全土を取って、みんなが疲れた頃に中央へ乗り込んで天下を取ろうと思っていたところ、関ヶ原は半日であっさり片付いてしまい、アテが外れたうえに、その原因のひとつが息子の大活躍だと知って、とても残念がったという(笑)

とにかく、黒田家は親子ともども東軍側で功績を上げたので、戦後には優遇された。
慶長5年(1600年)10月、筑前名島52万石余に栄転。
このあとも黒田家には呪いが続き、なかなか男子が生まれなくて跡継ぎに苦労する。

  和泉上守護家細川家

11月2日、丹後宮津から細川忠興公が30万石で入封、実高39万9千石余。
12月には中津城に入る。
もともと杵築に、慶長5年(1600年)2月27日から、細川家の飛び地領があった。

細川家については、田辺藩のページ。

  (和泉上守護家細川家、小倉藩領)

慶長7年(1602年)11月、忠興公は、本拠を中津城から小倉城に移す。
廃藩したわけではなく、領地が変わったわけでもなく、中津はあいかわらず細川家の領地だが、いわば中津藩から小倉藩になったわけで。

中津城は、息子の細川忠利侯のものになる。これは居城だったという。
この時代は参勤交代が義務化制度化されていないので、住んでいたらしい。
このころ徳川版の一国一城令が出て、大名が複数の城を構えているのはけしからん、ということになったはずな
のだが、例外も多く、中津城は破壊されなかった(細川家は、ほかの城はいくつか壊している)。

  (和泉上守護家細川家、小倉藩領、隠居料)

元和6年(1620年)閏12月、細川忠興公は家督を譲り、中津城に戻って隠居所とした(8万石?)。

小倉藩主になった忠利侯は、翌年、入れ代わりで小倉城に移る。
忠利侯は三男だったが、長兄は嫁のことで勘当、次兄は出奔して豊臣側についたため。
忠利侯は、宗矩先生のお弟子さんである。あの武蔵先生が客人になったほどの名君。

肥後熊本では、加藤清正公の家を三男が継いだ。兄2人は他界していたので。
豊臣恩顧の忠臣、しかも武闘派、しかも秀吉公の親戚なんて家は無いに越したことはないので、適当に理由をつけてお取り潰しになる。

熊本が空いたので、寛永9年(1632年)細川家は熊本へ移封。
忠利侯は熊本城、忠興侯は八代城へ。

  府中小笠原家(秀政系)、5代

細川家の跡地は、小笠原家が山分け。
 播磨明石から、次男の小笠原忠真侯が、小倉15万石。これが本家。
 播磨龍野から、長男の息子の
小笠原長次侯が、中津8万石。
 新封で、三男の小笠原忠知侯が、杵築4万石。
 摂津三田から、四男の松平重直侯が、竜王3万7千石。

この小笠原家は、かつて家康公を裏切って、秀吉公に寝返った。
九州征伐の時、仙石秀久侯が無謀な積極策に出て惨敗して更迭されたあと、後任の尾藤知宣侯が、今度は消極的で慎重すぎて失敗して処罰されたのだが、小笠原家は知宣侯の面倒をみてやったため、秀吉公が決めたことを否定して当てつけがましく批判しているかのように見られてしまい、秀吉公は激怒、小笠原家も改易になった。
そこを、ふたたび徳川家に拾われた。

だから小笠原家は、徳川家に対して恩義があり、大坂夏の陣で、親子ともども(当主と嫡男)勇敢に戦って死んでしまった。
しかも、松平信康侯の娘を嫁にしていたから、残された次三男たちは家康公の曾孫ということであり、信頼も優遇もされていた。
戦死した小笠原秀政侯の、次男、長男の息子(まだ若くて本家を継がなかった)、三男、四男(能見松平家へ婿入りしていた)の4家で、九州の北部を固めて、外様を封じる陣を構えさせたわけで。

じつは大坂の陣で家康公が戦死したので、小笠原秀政侯が戦死したことにして、以後は秀政侯が替玉をつとめて家康公をやっていたとかいう珍説もある。

長次侯が中津を領地にしたのは、寛永9年(1632年)。
『藩史大事典』では10月11日、『諸国城主記』では7月15日となっている。
中津城に入ったのは12月。
中津を拠点にして中津を統治するという、本当の意味での
中津藩がスタート。

長男の長章君は病弱(その息子の長胤君もまだ幼少)で、次男の長勝君が2代目藩主になる。
藩政をないがしろにして豪奢にふけって重税をしぼった。

長章君の子、長胤君が婿養子に入って3代目藩主になる。『諸国城主記』では長徹。
この人は贅沢と苛政に加えて、御乱行もあった。

『三代長胤は農民や町人の子女を侍女にするなど、女色にふけった。』(『日本の城ハンドブック新版』)

元禄11年(1698年)7月28日、バカ殿という理由で、ここでいったん改易。
領地没収、本家の小笠原忠雄侯へ身柄お預け。

同日付で、弟の長円君に4万石だけ与えられる。先祖の功績が考慮されたため。
『諸国城主記』では29日付になっており、『新知賜四万石』、藩を継いだのではなく、新たに立藩したとみなしている。
中津藩は小さくなったが、見かけ上は存続。
『四代長円は精神病質であったといわれ、遊興のあまり、彼もまた藩財政を困窮させた。』(『日本の城ハンドブック新版』)

これを継いだ5代目の長■(巛が付いた邑。さと)侯は、6歳で病死。
亨保元年(1716年)9月6日、中津藩は結局つぶれる。

これが外様だったら本当に改易だけれども、長円侯の弟の長興君が播磨安志1万石をもらって、大名家としてはちゃっかり存続する。

  (幕府領)

代官は辻弥五左衛門殿。
中津城の受け取りは、豊後岡藩の
中川久忠侯。

  三河奥平家、9代

亨保2年(1717年)2月11日、丹後宮津から奥平昌成侯が10万石で入封。
『諸国城主記』では昌春で表記、『改昌成』と書き添えている。
以後、奥平家で明治に至る。

奥平家は、もともと今川家の家臣で、松平家の勢力が大きくなってきたら松平家に仕え、松平家が衰退してきたら今川家に寝返り、織田家にそそのかされれば裏切って織田家に仕え、今川家が攻めてきたら今川家に仕え、今川家が滅びたので松平家に仕え、武田家が攻めてきたら武田家に寝返り、信玄公が亡くなったので裏切って、徳川家についた。

不良学生だった方ならピンと来ると思うが、こういう節操のない軽薄な卑怯者こそ、「最も正直な判定者」であり、すぐ簡単に裏切る者が今のところ裏切らずに子分になっているというのは、その親分の力量が認められているということなのである。
裏切られたほうの親分は負け組であり、歯ぎしりして悔しがることになる。

そして、卑怯者は2種類あり、オドオドした卑怯者と、ずうずうしい卑怯者である。
臆病者は裏切ることすら躊躇してタイミングを失うが、面と向かってズケズケと裏切る者は勇敢なので、戦闘も決して弱くない。

家康公は、武田家から奪ったばかりの長篠城に、これ見よがしに、奥平信昌侯を城主として置いた。
一度武田家を裏切っているから、降伏できず、死ぬまで戦わざるをえない。
しかも、敵に対しては、いいエサになるわけで、武田家は激怒して長篠城を攻めた。

これは軽々しく挑発にひっかかったというより、信玄公なき後の武田家は家臣たちの心が離れており、離反者は断固処罰という姿勢を貫かないわけにもいかなかったのだろうと思う。

武田軍15000とも20000ともいう大軍を、信昌侯はたった500人で見事に防いで持ちこたえ、そこへ織田徳川連合軍が救援に駆けつけ、御存知のとおり、もう立ち直れないくらい武田軍は負けた。

信昌侯は、信長公からも家康公からも大絶賛され、一気に出世する。
貞昌と言っていたのを、信長公から一字もらって、この時から信昌になった。

男と見込まれ、家康公の長女の嫁ぎ先にも選ばれた。
家康公の長女は秀忠公の姉だから、信昌侯は義理とはいえ将軍の兄上様ということになり、以後、奥平家は良い立場を確保していた。

寒山先生の著書を読むと、『大般若長光』(この世で最も高級品にランクされる日本刀のひとつ。松平長七郎君が愛用(笑)、東博蔵、国宝)が、長篠戦の褒美として家康公から信昌侯へ贈られていることを根拠に、それにしても長篠戦はよほど意義が大きかったのだなあということを書いておられる。
この刀は、元はといえば姉川の合戦の褒美として、信長公から家康公に贈られたものであるから、家康公としては、信昌侯の功績の大きさは認めつつも、オレ様に対して浅井家のような裏切りはするなよ、と、チクリと釘をさす意味もあったんじゃないかと俺は見ている。
娘を嫁がせたことも、要するに、関係を強めて、態度を固めさせているわけだ。
ほっといても忠義な者なら、わざわざそんなことをしなくても裏切らないのだから、裏切りそうな者に対して切るとっておきのカードとして、ここぞという所に長女を使ったのだろうと。

しかし、じつは昌成侯の祖父の昌能侯を最後に、直系の血筋は絶えている。
奥平家の娘が肥前福江の五島盛勝侯のところへ嫁に行って産んだ子を、養子にもらった。
昌成侯は、外孫の子ということ。

5代目藩主の昌高侯も、薩摩島津家の次男が養子に入ったもので、以後、島津氏の血筋になる。
島津家を押さえるために九州北部に置いた譜代藩を、島津の人間がやってるという、昇太師匠風に言えば「だめじゃん」になる。

幕末には、徳川家が落ちぶれたのを見て、もちろん官軍側についた。
最後の藩主、
昌邁侯は、宇和島藩伊達家の三男が養子に入ったもので、この人も西洋文明への適応が早かったことで知られている。

奥平家は、新しい時代を先読みするのが抜群にうまいのである。
伝統にも義理にもしばられない、進歩的な、この雰囲気が、西洋科学文明を積極的に取り入れる土壌にもなったと思われる。

『鳥羽伏見戦後に、朝命に従い、小部隊を京都に送った。福沢諭吉は自分の藩のことを「家老に切腹させることなく、勤王に切りかえることができた」と、誇らし気に記述している。
 明治三年、藩より廃城を願い出、翌年には松の御殿と殿舎の一部を除く城門、櫓等を自分たちの手で取りこわした。それでいて、明治十年の西南戦争では、西郷軍とともに新政府軍と戦った士がいた。万全はあり得ない。』(『城郭みどころ事典 西国編』)

中津藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月19日。

中津城の一部の遺構は、西南戦争の時に、福沢諭吉の又従兄弟が焼き払った。
現在は、レプリカを建ててある。

 

 江戸屋敷(奥平家)

  上屋敷
木挽町潮留橋大手ヨリ21丁。現在の銀座八丁目、銀座中学校周辺。
北は道を挟んで町屋。北東は道を挟んで、溝口主膳正邸(越後新発田藩上屋敷)と宮原弾正大弼邸(高家旗本)。南東は濠と道を挟んで、尾張殿蔵屋舗(
尾張藩蔵屋敷)。南は表御門を挟んで、濱御殿(徳川将軍家別邸)。西は濠と道を挟んで、松平陸奥守邸(仙台藩伊達家上屋敷)と脇坂淡路守邸(播磨龍野藩上屋敷)。

  中屋敷
鉄砲洲。現在の明石町、聖路加国際病院から中央区役所福祉センターにかけて。
北は道を挟んで中川修理大夫邸(豊後岡藩上屋敷)、道を挟まず榊原徳太郎邸(旗本)。東は濠を挟んで松平左ヱ門佐邸と町屋。南は濠を挟んで明石橋。西は道を挟んで、松平周防守邸(川越藩松井松平家)と水野伊勢守邸(旗本か)。

  下屋敷
二本榎。現在の高輪あたり。

 

 藩校

中津藩は、蘭学と西洋医学において、日本最先端をいっていた。
日本史の授業で必ず習う『ターヘル・アナトミア(解体新書)』『蘭学事始』というやつ、あの前野良沢先生は、中津藩医。

片端町に、まず、「稽古場」というのがあったらしい。
『朝日日本歴史人物事典』によれば、渡辺重名が、『寛政2(1790)年、中津藩校進脩館の国学教授となり、』なんてことになっているので、まだ学校としての体裁が整っていなくても、まだ進脩館と命名されていなくても、なんらかの講習会のようなものがすでになければ、ツジツマが合わない。

稽古場という名前からすると、藩校というより、どちらかといえば武術の稽古場だったのかも。
奥平家の出世は、政治や血縁や同性愛ではなく、軍事によるものだから、尚武の気風があったようで、中津藩校は早くから武術に力を入れていたような印象を受ける。
後述するように、伝承された剣術流派も多い。

寛政6年(1794年)、文武稽古場「進徳館」を創設? 進脩館のことか。
『次の昌男を経て、薩摩藩主島津重豪の次男昌高が襲封し、藩政の刷新をはかり、軍備の充実につとめ蘭学の研究を通じて戦術を学んだ。国学に関心をもち、九州国学の祖渡辺重名に師事して国学や和歌を学び、寛政六年(一七九四)、文武稽古場の進徳館を創設した。また、昌高は豪放奢侈の気質で、侍女多く子女は男女合わせて三十三人もあり、藩財政を窮迫させた。』(『藩と城下町の事典』)

寛政8年(1796年)、稽古場を修補して「文武修練場」とする。
『藩史大事典』では「修補」だとするが、つまり、この直前までは少し衰退していた?
これが、藩校「
進脩館」(進修館と表記する資料もあるが同じこと)。
おそらく『易経』の『君子は徳に進み業を修め時に及ばんと欲するなり』に由来する校名と思われる。
敷地面積は約700坪。年間経費は正米100石。
剣・槍・柔・馬、各流の道場を完備。

民衆も入学できるというタテマエだったが、入学したとしても差別されて居心地が悪いので、身分の低い生徒は自然に減っていったという。
つまり最低な校風だったわけだ(他藩では身分の低い者でも才能次第で抜擢している例がある。中津はそのへんが遅れていた)。
しかし、この身分差別があったからこそ、福沢諭吉の学歴差別主義を生み出し、学問すれば家柄に関係なく人の上に立てる!というコンプレックスとバネになった。
偉人は生ぬるい環境からは出現しないもので、現状に満足していないから発奮して新時代を築くのであり、努力には動機や必然が要る。

文化9年(1812年)、増築?
文政10年(1827年)、寄宿舎の前身にあたるものを設置?
天保14年(1843年)、寄宿舎「晩香舎」を設置。
文久元年(1861年)2月、上勢溜に、「医学館」だか「医学校」だかを特設。
明治2年(1869年)、改革。
明治4年(1872年)7月14日、廃校。

中津市立南部小学校が、後身にあたる学校らしいのだが、同校は、学校沿革の一番最初を、『明治9. 8 本校の前身 進修校開校』から話を始めてらっしゃって、歴史を古く見せかけようという小細工がない。

天保年間からは、江戸の上屋敷下屋敷にも藩校があった、ということになっているが、どのくらい実態があったのか、よくわからない。
校名すら、なかったという。
教えていた科目は、漢学・習字・習礼。

安政5年(1858年)10月、江戸の中屋敷に、蘭学塾を設置したということになっている。
これが慶應3年(1868年)に移転して、慶応義塾になったというのだが、そしたら慶応義塾は公立なのか、藩校を私物化して私塾にしたのか、おそらく、慶応義塾の由来がそこまでさかのぼれるという意味でおっしゃっているのだろうと思うのだが。

 

 唯心一刀流継承者

唯心一刀流があったという話は聞かないが、古藤田俊直先生からの分派、外他一刀流が、藩に採用されていた。
継承者の御名前は系図のページ。

これは外他流、戸田一刀流、戸田派一刀流とも表記されていることがある。
戸田一刀流は、どちらかといえば出羽秋田(久保田)での言い方。
同じものをさしている場合もあるが、
似た名前で複数あったと思われる。

というのは、外他一刀流自体が、少なくとも2系統ある。
 流祖を鐘捲自斎と表記して一刀斎先生を経由するもの。
 流祖を鐘拘外他と表記して一刀斎先生を経由しないもの。

中津藩には外他流という槍の流派もあり、藩には採用されてなかったらしいが、これは鐘捲先生一刀斎先生のほうの外他一刀流から、槍だけ独立した流れ。
つまり、古藤田先生のように槍と刀を両方おやりになっていたところから、槍しかやらない流派が分派した。
ということは、母体流派のほうは剣術しかやらなくなっていた可能性もあるのかもしれない。

島田虎之助先生の話は、他流のページ。

 

 他の剣術の主なところ

中津藩の歴史は、デタラメばっかり世間に満ちあふれており、信用ならない。
大きな原因は3つ。

慶應義塾OBのごくごく一部が、我田引水の歴史捏造を100年以上にわたって繰り返した結果、どれが正しい情報なのやら収拾がつかなくなっている。
小細工をやればやるほど、母校の価値とイメージが低下し、卒業生の大多数をしめる優秀な人々の名誉を傷つけ、創立者は教育者として三流だったと証明する結果になるということが、なぜ名門の超一流大学を出た人の頭で理解できないのか。
これはどの学校にもよくあることだから、決して慶應だけが劣っているわけではないが、たとえば同じ学閥でも、早稲田の人はキャンパスを愛し、友情の連帯感や青春の思い出でやっているのに対して、慶應は義塾だから、創立者を崇拝して宗教に近いものすら見かける。
創業以来、慶應出身者しか重役になれない会社なんてのが実在する。

戦時中は、鬼畜米英の敵性言語を統制したくらいだから、西洋カブレなんて奴は国賊であり、福沢諭吉の評価は不当に低かった。
実際は、福沢諭吉が日本を近代化してくれたおかげで、アメリカに戦争をしかけるほどの軍事大国になったのである。
「動物園」、「博物館」という言葉も、福沢諭吉が考案した造語であり、それまでの日本になかった概念の訳語である(今では中国語にまで取り入れられている)。
そして戦後は、今までに損してた分を取り返そうと思って、福沢諭吉(と、アメリカ式の合理主義)を誉めようとしすぎたから、今度は逆方向の極端に走って、福沢諭吉の天敵である伝統的精神文化(特に武士道)の価値が低下してしまっている。
古いものがすべて悪いわけではなく、中津にも古くてすばらしいものがたくさんあったのだが、何もかも欧米的で進歩的だったかのように見せかけようとして、武術家が知りたい情報を意図的に欠いた言説が散見される。

そして、問題なのは、基礎文献。
この分野の最高峰の名著
『藩史大事典』が、中津藩に関してはキチガ◯になっている。
中津藩のページ、「藩の武術」の項目に、「武術指南役」として24人を列挙している中に、
伴喜左衛門、飯篠家直、鐘拘外他、伊藤影久、伊藤一刀斎、小野忠明、竹内則正、大島吉綱、種田正幸、川崎清貞、井崎甚助、田宮平兵衛、立身三京、福野友前、佐々木補次郎などの名があり、出典は『中津藩史』『日本史総覧』補巻としている。
この人々が中津藩に仕えて指南役をしていたならば、どうしてここに、キテレツ斎先生とサンジェルマン伯爵の御芳名が抜けているのか。

以下、現時点で確認できた範囲での仮の分類(今後、加筆修正する予定)。

  藩に正式採用されていたであろう剣術

   神當流
新當流と書いている資料も多い。
『日本劍道及刀剣』の年表の、中津藩校の記述では、
神道流(神は旧字)となっている。
シントウ、シンカゲ、シンシン、ムソウなどは、必ず、表記の問題がついてくる。
同名で複数あった場合、流派はひとつだが別名や俗名があった場合、一方の俗称が他方の正称である場合、分派が意図的に文字を変えていた場合、中興の祖が文字を変えたが後世の弟子が有名なほうの文字に戻す場合、当時の人がそれほど深い考えもなく当字でまちまちに書いている場合、資料では変わった字になっていたのを現代人が有名なほうの字に勝手に変えて書く場合などがあり、これらの複数が複雑にからみ合っているので、とても手におえない。

中津のシントウ流は、複数あったのではないかという印象を受ける。後述。
そのうちのひとつは、古宇田系。

   外他一刀流
前述。
『日本劍道及刀剣』の年表の、中津藩校の記述では、
外池流とあり、池は誤字にしても、外他一刀流ではなく外他流と呼ばれたか。

  藩に採用されていたかどうかわからないが、伝承されていたらしい剣術
わからないというのは、採用されていた、いない、両方の説があるということ。
時期によってまちまちだったのかもしれない。以下同。

   小野派一刀流
中西派のことだろうとは思うが。
中西系ではない小野派が別にあったとも、なかったともいう。

   立身流
立身新流や立身当流だけでなく、立身流も中津にあったとする説。

   中西派一刀流
御存知のとおり、この流派はもともと中西派とは名乗らず、小野派を名乗っていた。
小野派も最初は小野派と名乗らなかったようだが、流派名というのは後世の人がつけるので、ややこしい。

  藩に採用されていないが、現地で伝承されていたらしい剣術

   家川念流
かがわ、と読む。どちらかというと筑後柳河藩でおこなわれた流派。
柳河は今の福岡県柳川市で、有明海に面し、九州北部というより西海岸であり、中津から近いようで遠い。

   左右田新陰流
そうだ、と読む。
調査なさっている方から、中津にあったことは間違いない、確認済、との御意見を頂きました。

   武蔵流
どの武蔵流なのか特定できず。二刀のことは1Gで。

  藩に採用されていたが、剣術ではないかもしれない流派

   立身新流
三浦先生ではなく木村先生のほう。立身流の分派。福沢諭吉もかなりやっていた。

   立身当流
立身流の一派。

上記2流は、居合専門の流派だという。
しかし、もともとが立身流だけに、いわゆる「居合」とはだいぶ違うはずであり、世間で言うところの「居合と剣術の流派」に該当する可能性がある。
一般的な剣術と同等に扱うのがよろしいのか、普通の剣術流派と同列にされることを望まれないのか、できるだけ継承者の御意向に沿いたい。
そもそも問題なのは、中津藩がどう扱っていたか。
藩の公式見解では、居合流派に含めたか、剣術流派に含めたか、居合・剣術流派としたか、そこを確認するまでは「中津藩が採用した剣術」という言い方は保留。

   東軍流
武蔵忍、信濃松代など、各地にあった流派。中津藩校でもおこなわれていた。
しかし膨大な内容を含む総合流派であり、中津ではどのくらいの内容が伝わっていたのか、よくわからない。
少なくとも薙刀と棒はあった。薙刀があるなら剣もあっただろうとは思う。
薙刀は藩に採用されたが剣は採用されてないとか、藩校では剣術だけだったとか、諸説ある。
森田先生の御研究でも、中津伝のことには詳しく触れてらっしゃらない。

   本間流
これは完全に槍の流派であり、槍の流派としては藩に採用されていた様子。
しかし流祖は卜伝先生の直弟子(そもそも卜伝先生を剣術家ととらえるのも一面的すぎる)。
槍の流派でも卜伝先生のお弟子さんならば、ごく初期だけでも、剣術が少しはあったのかもしれない。
しかも、この流派は、
新當流、神當流、新當本間流、卜伝流などと、まちまちに書かれることがある。
「中津藩の、剣術の、神當流または新當流」というのは、複数あったか、あるいは、剣の流派1つと槍の流派1つの話が剣の流派2つとして伝わっているおそれがある。

  流派は藩に採用されていたが、剣術は採用されていない流派

   吉岡流
憲法先生ではなく、一之進先生の吉岡流。
吉岡一流と表記する系統もあるが、中津では吉岡流だった様子。
この流派は、剣術を併伝していることがある(剣術伝書が現存する)。
柔術流派としては中津藩に採用されていたようだが、剣術においては中津藩に採用された様子がない。
しかし、藩に採用されなくても、内容に剣術があったかもしれない。
そもそも柔術だって刀は使う。
「中津藩の剣術」ではないが、「中津の剣術」(中津で伝承されていた剣術)だった可能性があるということ。

 

 現在の状況

不明。
中津に限らず、トダ一刀流が現存するという話を聞いたことがありません。

 

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