←戻る 

 

 親疎、伺侯席、城陣、石高

  親疎

親藩・譜代・外様は、将軍家との関係が近いかどうか。

偉いかどうかではありません。
外様でも大物がいるし、譜代は役職で偉い場合もある。

実際は、出自や官位や役職やコネによって、もっとこまかく仕分けされていて、概念をあらわす用語がないくらい。
さらに、その時代の流行りに乗っかっているかどうかというのもあって、鶴の一声で例外も罷り通る。

これは血筋ではなく、家のことです。会社に似ている。
他人の血筋に代わることもある。
というか、誰を養子に入れるかは、幕府の認可を要します。

将軍の実の息子でも、譜代や外様の家に養子に行ったら、そこの家格になります、
一代限り葵紋を使えたり、官位の上限が高め、あるいは加増されるなど、少しは優遇されるけれど。
もう血筋が変わったんだから変更させてくれよと申請して、認可されれば変更にもなりました。

将軍の息子を養子に入れるのは、家をのっとられたようなもので。
将軍の娘を嫁にあてがわれると、鼻持ちならねえし金はかかるし面倒くせえしで、ありがた迷惑で。
これが倒幕に走る遠因にもなった。

 

   徳川家

徳川を名乗る家。
将軍家、御両卿・御三卿、御三家。一説には御両典も。
親藩の高級クラスというより、別格すぎて親藩には含まないこともある。

 (徳川将軍家)
徳川氏の本家。自身も巨大なひとつの大名だとする解釈もあるが、それは大政奉還の直後ごろの話。
普通は大名とは見なされない。幕藩制度の主宰者だから。

 御両卿
予備の将軍候補。吉宗公の次三男の家系。
田安家、一橋家。
のちに清水家を加えて御三卿になる。
分家ではなく、徳川将軍家の一部。だから藩主をやっておらず、大名ではない。
一応10万石、ただし幕府直轄地から得ており、家来は幕府の職員が出向してるようなものなので、徳川家の遺伝子ストックにすぎない。
将軍継承順は御三家よりも上だが、地位は御三家より下。吉宗公自体が、もともと御三家の傍流なので。

 御三卿
御両卿と、清水家。
清水家は家重公の次男の家系。
御三卿は、いわば新御三家。

おそらく、田安家が野口さん、一橋家が西城さん、清水家が郷さんに相当する位置だと思うが、古すぎて意味わからない方は御母様に聞いてみてください。

 将軍継承権のある御三家
予備の将軍家。
尾張徳川家、紀伊徳川家。
御三家という制度はなく、最初は、将軍家・尾張徳川家・紀伊徳川家で、協力体制。
秀忠公は長男でもなければ正室の子でもなく、出自からすれば、この3家はほぼ同格で、家康公にかわいがられた子たち。
特に尾張は威張っていて、幕府にとっては扱いづらいから、将軍家との親疎ということであれば、じつは、どんどん疎遠になっていって、しまいにゃ倒幕側についてしまった。
紀伊徳川家は、将軍家の乗っ取りに成功し、吉宗公以降は、御三家の役割は御三卿。

 つぶれた御三家
秀忠公の三男の家。
駿河徳川家。
尾張・紀伊とほぼ同等の格式で、ひところは御三家のひとつだったが、一代で終わった。
じつは松平姓だったという説もある。

 将軍継承権のない御三家
格が低くて中納言どまりの家。
水戸徳川家。
もともと御三家ではなく、譜代に近い扱い(将軍家の補佐役)だったが、のちに石高も増え、徳川姓も許され、綱吉公の頃に格上げされた。
しかし、頼宣公の同母弟から始まる家なので、紀伊徳川家と対等になれない。
勤王テロリストのアジトなので、幕府としては煙たい一面もあった。

 

   徳川家と親藩の中間的なもの

 御両典
家光公の四男と三男が、分家したもの。
館林徳川家、甲府徳川家。
格式で言えば、尾張・紀伊の下、水戸よりも上。
徳川を名乗らなかったという説もあり、徳川を名乗ったにしても分家独立して大名になっている。
しかし全く家臣にくだったわけでもなく、将軍家の家族のような位置で、次期将軍候補として待機中。
将軍継承権は尾張・紀伊より優先。

というのは、家光公は正室と仲が悪くて、同性愛や下賤の女に熱中し、跡継ぎの家綱公も妾の子で病弱で子がないから、家綱公の弟や甥は有力な将軍候補だった。
由井正雪先生がテロ未遂をやったのも、この頃で、正之公や大老・老中たちが、どうにか支えていた、特殊な時期だった。

実際のところ、将軍家は絶えてしまい、御両典が将軍家になったので(綱吉公、家宣公)、御両典は消滅。

 

   親藩

家康公の男系子孫が始めた大名家のうち、御三家・御三卿など特殊なものを除いた残り、またはそれに準じたもの。
ここに御両典を含めたり、御連枝を含めない場合もある。
徳川家の親戚ではあるが、傍流なので徳川を名乗れない(松平)。
かといって徳川家の従業員ではないから、原則として幕政に参加できない。

 御三家とほぼ同格の親藩
本来は公家、摂関家につながる名家であり、家光公や綱吉公の正室の実家であり、紀伊徳川家の娘婿だから御連枝でもある家。鷹司松平家。
『日本姓氏紋章総覧』では、なぜか譜代と書いてあるが。

 御家門
家門というのは、一般名詞としては親戚一同なんでもそうだが、大名の種類としては親藩のこと、厳密には、特別な親藩のこと。
越前松平家(その分家も含める場合もある)、会津松平家。
秀康侯は、秀忠公の兄だから(しかも秀忠公より優秀)、将軍より目上の存在であり、扱いに困ったらしい。
将軍が下座についたり、みずから品川まで出迎えたりするのは、サマにならない、でも、そうしないと将軍以前に人として道に外れるっていう。
正之侯は、秀忠公の庶子で、幼い家綱公の後見人、ほとんど将軍代行。

 親藩
広義の御家門。狭義の親藩。ヒラの親藩。
越前松平家の分家。出雲松江、上野前橋など4家、そのまた分家の支藩が3家。
甲府徳川家の分家。越智松平家。
家康公の異父弟の家系のうち、家康公から葵紋をもらっているもの。家康公の男系子孫ではない例外的な親藩。久松松平家のうち伊勢桑名と伊予松山。

 御連枝
御三家の分家。ゴレンジと読むのが正しいらしい。
尾張に3、紀伊に4、水戸に4家あった。
高須松平家、西条松平家、高松松平家など。
藩として長続きしたのは7家、鷹司松平家を含めれば8家。
藩をやっていたとしても、たいてい形式上だけで、藩主は参勤交代せずに江戸に常駐で、領地の統治は本家が代行していたりするので、これは御三家の一部にすぎず、独立した大名ではないとする解釈もある。
公式に藩を立てなかったり、藩をやっていたが支藩ではなかった例もある。
すぐ廃藩したり、本家に呼び戻されて御三家を継いだり、将軍になった例さえある。

 

 

 

   譜代

徳川家直属の家来筋の大名。約140家。
極論すれば、ここまでが「徳川家」であり、徳川家の家中、徳川軍ということ。
将軍に仕えているのではなく、徳川家が将軍だろうとなかろうと、徳川家に仕えている。
徳川家の従業員なので、徳川家が軍隊をやるなら部隊長をつとめ、幕府をやるなら幕政を担当する。
「関ヶ原以前から徳川家に臣従していた大名が譜代」などと定義されることが多いが、そんなのウソで、忠実に味方していた外様はいくらでもあったし、江戸時代になってからの新しい譜代大名もある。

 最も将軍に親しい譜代
側用人または大老の現役。ほとんど将軍代行。
柳沢家、間部家、田沼家など。
将軍家に親しいのではなく、将軍個人と親しいのであり、御威光を借りているだけなので、将軍が交代すれば失脚する。

 親藩に準じた譜代
徳川家の親戚だが、親藩ではなく譜代の家。
松平氏のうち、家康公以前に分かれた親戚(かなり遠いものもある)、
十四松平、十八松平。
家康公の母親の、実家と、再婚先。
水野家。久松松平家のうち下総多古と伊予今治。
徳川家から養子や嫁を迎えた譜代(優遇される)。家斉公の息子たちなど。
家康公の長女を嫁にしたので、将軍の義兄になってしまったなど。
奥平家。
家康公が外孫を養子にして松平姓を与えたなど。
奥平松平家。

 歴史的に上席の譜代
最古参、筆頭、最上席、しかも伝説をでっちあげて徳川家と祖先が同じということにしてある家。酒井家。
そのほか、忠臣という意識の強い家。徳川四天王、徳川十六神将などの家。
幕府としても、なるべく断絶させないように優遇している。
家康公の親の代から仕えるものもある。
最古参のほうから、安祥譜代、岡崎譜代、山中譜代、駿河譜代などという序列がある。
「我らは安祥岡崎以来…」という誇りは、旗本もよく使う常套句。
出世した理由によるものでは、「武功の家」、「執事御役の家」などという区別がある。

 普通の譜代
もともと松平家の敵だった三河武士。
戸田家、牧野家など。じつは奥平家もそうだが。
途中で裏切って浄土真宗の武装蜂起に加わって家康公を敵に回したが帰参が許された、出戻り組。
内藤家など。じつは本多家もそうだが。
今川家や武田家や北条家などの旧臣が取り立てられた、いわゆる新参者。
岡部家、土屋家、秋元家など。じつは井伊家もそうだが。
豊臣家からの移籍組もある。
堀田家など。
優秀なので抜擢。
柳生家、大岡家など。
将軍の生母の弟が、成り上がったもの。
増山家、那須家、本庄松平家。
将軍の乳母のかつての夫が豊臣旧臣だけど成り上がったもの。
稲葉家。
紀州藩士だったのが、暴れん坊将軍に仕える爺やになったもの。
加納家、摂津有馬家(氏倫系)。
とかく側近のようなコネが多い。小姓として将軍に仕え、同性愛の相手などやっていれば、大名になれる。

 外様の血筋だが、最初から譜代
本家は外様だが、分家は譜代になったもの。七日市前田家、朽木家、椎谷堀家など。
外様大名の分家が、旗本や小姓から出世して独自に大名になったのなら、新規採用だから譜代として扱われる。
外様大名だったことがない。大名になった時から譜代大名をやっている。信用できると将軍が思ったからこそ大名を増やした。という形。

 願い譜代
外様大名だったのが、なんらかの理由で、途中から譜代扱いになったもの。入譜代、譜代格、準譜代などともいう。
忠誠を示そうとして、譜代と縁組した家、血筋が変わった家。
戸沢家、脇坂家、真田家など。
官僚として有能で功績が大きい家。
小堀家など。
関ヶ原の時に西軍でも、失政ばかりしていても、家康公の養女が嫁入りしていたりして、なんとなく優遇されている家。
肥前有馬家など。
脇坂家や真田家や有馬家は、のちに老中にまでなっている。

 

   外様

徳川家から見て、よそ者の大名。約100家。
徳川家に仕えているのではなく、将軍(幕府)に臣従している。徳川家の家中ではないから、幕政には参加させてもらえない。
幕末に、幕府は前例を破って、外様に外交の参考意見を聞いたら、なめられて、倒幕されてしまった。

 御三家とほぼ同格の外様
経歴も石高も官位も、最高峰の別格。
加賀前田家。

 親藩とほぼ同格の外様
早くから徳川家に好意的だったり、婚姻関係があったりするもの。
池田家、浅野家。
幕末には裏切って官軍についたけど。

 親藩とほぼ同格、かつ、譜代トップクラスと同等の扱いを受ける外様
徳川家への忠誠心が厚く、井伊家と共に徳川軍の先鋒を勤める家。
藤堂家。
幕末には裏切って官軍についたけど。

 そこそこ大丈夫だが、大身なので警戒は必要な外様
関ヶ原で東軍についていた国主クラス。
伊達家、細川家、黒田家、山内家など。

 譜代に昇格していないが、いったんリセットしている外様
関ヶ原のとき中立したり、西軍側で大奮戦したりして、改易されたが、悪気がなくて優秀だったり、その後、言い分が認められたり、旗本から出世しなおしたりして、大名に返り咲いた家。
立花家、二本松丹羽家、相馬家、新庄家など。
ただし、つぶれた外様は、再興させても外様。
蜂須賀家
は、いったん自主的に廃業して、息子が新たに徳川方で大名を始めた格好であり、さらに家斉公の実子が養子に入って以降、徳川氏の血筋になっているが、豊臣恩顧の子飼いの家、しかも俗説では野盗あがり(事実は違うが)なので、外様のままだった。

 過去の遺物
文化遺産とか記念物として、お情けで細々と存続させた名家。織田家、北条家など。大名ではないが喜連川家も。
なお、豊臣家は徹底的に皆殺しにしたので残っていない(大部分は秀吉公が殺した)。今川家や武田家は、高家(旗本)としては続いた。

 信用ならない外様
豊臣家の忠臣、しかも過激派で強剛。
福島家、加藤(清正)家など。
西軍についたが、戦局を見て裏切ったもの(裏切らなかった者よりも、なおさら信用ならない)。
小早川家、小川家、赤座家など。
徳川家の執事だったにもかかわらず、軍事機密を手土産に敵に寝返ったもの。
石川家(数正系)。
これらは、適当な理由をみつくろって、のちに取り潰した。

 信用ならないにもかかわらず、親藩と同格だということにして、おだてておく外様
松平姓をもらっていたり、将軍みずから親代わりになって成人式をやってもらえる(将軍の名前を1文字もらえる)という、外様の大物。
じつは、まるっきり敵であり、戦国大名の大物であり、ほとんどは関ヶ原の西軍側。
大物すぎて、つぶすこともできず、信用ならねえからこそ懐柔するために、こういうウソ臭いナアナアをしている。
親疎ということであれば、最も徳川家から遠い連中。

毛利家、島津家、上杉家、佐竹家など、国主クラスの外様のほとんど。

 

 →つづき 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送