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新選組の羽織は、本当に
浅葱色だったか? 2

 

  浅葱にした理由

新選組が羽織を浅葱にした理由は、
これが
切腹の服装の色なので、死を恐れず戦う覚悟をあらわしている、
と聞いていますが、その根拠となる文献を俺は知りません。

隊士の手記にそういう記述でもあるのか、
時代小説の作家が勝手に書いたものなのか。

しかし浅葱は、かっこわる〜い意味が、たくさん付属する色です。

これが切腹の色であるということ自体が、武士の軟弱化をあらわしている。

 

  浅葱の根拠

『切腹人の姿は白装束といわれるが、江戸時代は浅葱色である。
白は鮮血生々しく凄惨であるが
浅葱色であると
黒ずんだ血に見えるからである。』
(笹間良彦『武家戦陣資料事典』)

これの出典もよくわからないのですが、
笹間先生のことだから、江戸時代の資料にそういう描写があるのでしょう。
それに、笹間先生は日本一の軍装研究家であるだけでなく、画家でもあり、
色を知らない人ではありません。

 

  白も使われていた

同じく笹間先生の『図説日本武道辞典』で「切腹」を引くと、
『切腹には家によって作法があり、
また罪ある武士の身分によっても作法が異なった。』

としながら、

『服装は襟の後幅を狭く縫い縮めた白衣に、水色無紋の裃をつけ、
髪の髷をうしろに折りまげている。』

と書いてある。

 

  たしかに白だった

江戸時代の後期になっても、白装束で切腹していたらしいことは、
切腹の作法を説明した18世紀後期の伝書にも書かれてます。

一、装束は、白衣左前に合せ柿色の上下を著す。口伝これ有り、帯も白きなり。
一、畳の事、土色を用ひ長さ六尺、白縁に二畳用ふべし。敷きよう口伝あり。
一、死衣の事、四口長六尺、白地也。畳の上に敷きよう口伝なり。
(伊勢貞丈『凶礼式』)

畳はフチなしかと思いきや、なんと白フチ。
切腹の時は下に布をしくことになっていて、
同じく伊勢貞丈『軍用記』では裏側を上にした鹿革なんかを使うのですが、
なんと真っ白な布でやっている。
こんなに白ばっかりじゃ、鮮血が目立つでしょう。

貞丈先生がどれだけ正しいかは、騎射のページに書いたとおりです。
これは作法を推奨した本ですから、
必ずしも実際に白が多く使われていたという証拠にならないのですが、
白も使われていたであろうことは、別の証拠もあります。後述します。

 

  裃を脱いで切腹

裃(カミシモ)は、時代劇で町奉行や家老なんかが着てる
肩がとがった格好です。
これは南蛮の影響を受けていると俺は確信しているのですが、
(スペインだかポルトガルだかの民族衣装に、まったく同じものがある)
証拠が固まったら、また御紹介します。

その上半身を肩衣(カタギヌ)といいます。後述します。

白装束の上につける肩衣が水色だったり柿色だったりするのは、
血が目立たない色ということかもしれませんが、
肩衣は、実際に切腹する時は
はだけてしまうから、
どっちみち腰から上は白づくめということになる。

幕末に来日して切腹に立ち会った外国人の手記でも、
上衣は脱ぐ描写になってます。
これは新渡戸版『武士道』にも引用されている。
『雲妙間雨夜月』『図説日本武道辞典』も、肩衣ははだけている。

大石内蔵助は、討ち入り後に身柄をあずかった細川越中守綱利
(熊本藩江戸中屋敷)がとても優遇したので、
切腹の様子も詳しい絵になって残ってますが、
それを見ると、はだけるというより脱ぎきっていて、
上半身がまったく裸です。
これでは何色だろうが、あんまり関係ない。

これらすべて、どれだけ正確に記録しているか、
観念的に想像で描いていないか、
ひとつ実例があったからといって全部がそうとは限らない、
というような問題はまた別だから、慎重に考えなければいけませんが。

 

  袴も白!?

吉川弘文館『故実叢書装束着用図』では、肩衣半袴の説明として
『上下(かみしも、とルビ)の上下、色を異にしたもの、上を肩衣という。
武士の通常礼服。形は素襖より出で、長上下となり、
裾を矩かくしたのを半袴という。
格は長上下、肩衣、上下一色の上下の三段階。これを上下と総称する。』
とある。

つまり、肩衣と袴は、別の色にするのが正式らしいのですが、
博物館などに現存してる裃を見る限り、揃いであることも多い。

切腹を描いた江戸時代の絵は、俺の手元の本にあるのは
モノクロで転載された出典不明のものが多くて、
原画ではどんな色かよくわかりませんが、
浅葱というより白装束ではないか?と思える明度、
つまり、だいぶ白っぽいバルールで描かれています。
マンガ的に言えば、トーンを貼ってない状態。
着物も、肩衣も、袴も、同じくらい白っぽい。
同席してるほかの侍の肩衣や袴は、薄くてもグレーになっているから、
どう見ても、切腹する人だけ白装束なんです。
個人的にならメールに添付します。お問い合わせください。

これが浅葱だったとしても、
モノクロ写真にしたときに白に見えるほど薄い浅葱であれば、
血が目立たないようにという目的をなさないことになる。

後述する水浅葱の問題も含めて、
江戸時代に白装束で切腹した例は相当あったんじゃないかと
俺は考えてます。

庄林半助『旧稀集』はカラーで観ましたが、
着物も肩衣も袴もぜーんぶ白で切腹してました。

 

  血がイヤだから、浅葱色を使う?

切腹は、時代がくだると、なるべく穏便なやり方に変わります。

大昔は一人で腹を切っていたんですが、すぐには死ねず、
腸をつかみ出し、ちぎっては投げ、頸動脈を切り、なんてことで、
長時間のたうち回って、見苦しく苦しんでいた。

実際はショック症状が起きるから、
阿南大臣みたいに腹を斬ったあと自分で頸動脈を斬るなんてことは、
ほとんど不可能だろうと言われてます。
腹に刃が少し刺さった時点で、もう何もできず、
腹を深く斬ることも、首を斬ることもできず、
ただうずくまって、半日くらい苦しむものらしいんですよね。

この、腹を切った後のムダな苦しみを省いてやるため、
「介錯人」という介添がつくようになり、
本人が腹さえ切れば、もう充分であるとして、
首を切ってラクにしてやるようになった。

そのうち、腹を大きく切り開かなくても、刀を腹に突き立てた瞬間とか、
あるいは切腹する人が短刀を取ろうと手を伸ばして前かがみになった時に、
早め早めに介錯してしまうようになる。
もがき苦しむ前に介錯したほうが、うまくいくからです。
天下泰平で武士も軟弱になり、人を斬ったことがない人も増えたので、
介錯が上手にできる人は少なくて、もがき苦しむ人を介錯するのは難しいから。

ついには「扇子腹」といって、
木刀や扇子で切腹のマネだけすれば介錯人が殺してくれる
という、
ただの処刑になってしまった。
じつは赤穂浪士でさえ、大多数の人が扇子腹でした。

『武道心得草』に、「切腹入用ノ品」という項目があり、
三方とか屏風とか砂とか、切腹に用意する品物のリストがありますが、
これの一番最初に、「木刀 九寸五分」が挙げられてます。

 

  新選組は軟弱者?

木刀で切腹する「マネ」なら、誰だってできる。
自慢にならんでしょう。

切腹というのは、わざわざ苦しくて怖いことを、自分の手で、
見事やってみせることに、価値を見出していた。

それを見守る周囲の人も、目をそらさず、しっかり見届けてやって、
誇りや尊厳のある死にざまに、秩序ある儀式として立ち会っていた。

武士の切腹の服装は浅葱だ、
だから新選組の羽織は浅葱だ、死を覚悟した心意気だ
…という考えが、

真っ赤な鮮血が怖いから目立たない色にしていた
というのがホンネだったというのは、納得いかない。

あれだけ敵も仲間も殺しまくった新選組のチームカラーが、
そんな弱虫な色でいいんでしょうか?

新選組の吉村貫一郎は、介錯なしで一人で切腹したくらいです。

死を恐れず見事に鮮血ドバドバで死花を咲かせる方向と、
そんなの見せびらかさないで地味にいきましょうやという方向は、
まったく逆だと言える。

 

 

 →つづき 

 

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