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伝書とは、どういうものか

 

 虎の巻

中国の代表的な兵法書のひとつ『六韜』の中に、極意(というよりトンデモ兵器の説明)が書かれている部分が、虎の章だったことから、『虎の巻』と言えば、中国伝来の兵法の古典で義経公も正成公も秘蔵した幻の書、四十二箇条などと呼ばれた兵法書のたぐいの別名になり、のちに、秘密の極意を書いた文書の総称や代名詞になりました。

しかし直心影流には本当に「虎の巻」というのがあったりする。
俺の地元では、アンチョコ(教科書の答えが書いてある本。教科書と同じ出版社から出ているもので、高校の時ものすごく御世話になる)をさす言葉でした。

 

 箇条書き

武術の巻物は、たいてい修行の各段階ごとの修了証なので、技名や教義の項目を列記しただけの、文字どおりの目録が多いです。
同文化同人種の感覚だから、柳なら受け流し、虎なら後ろなど、技の名付け方は暗号じみていてもパターンはあり、技の名前と本数を見れば、どの系統の流派か、だいたい予想できます。

 

 絵

図だけは添えられていることもあります。これが美しい。こったものはオールカラーの精密図です。

天狗や鴉天狗と演武している図もよくあります。
古い流派は神仏の啓示によって奥義を編み出したと称するものが多く、それは神秘化の文飾だけではなくて、トランス状態になるほど極限まで猛練習した中で発想した(心理学でいう本質属性の突出)ということをあらわしてます。

人体をディフォルメした蜻蛉絵と呼ばれるものもあります。
この画風は、熊野牛王の護符あたりにルーツがあるんじゃないかという気がします。

 

 釈義

内容を詳しく説明した文書もあります。
会話と実演で伝えるので、具体的には書き残さない建前だけど、奇跡的に、個人的な覚え書きが残っていたり。

いわば遺伝子であり、これさえあれば絶えた流派の技を、クローンとはいえ復元できる可能性があります。
目録に小さい文字で技の内容を書き加えたものや、理論書とか随筆っぽい体裁になっているものなどがある。

 

 和歌

極意は、五七五七七で書いてあることも多いです。百首くらいセットになっていることもある。
全編が和歌ばっかりで歌集の体裁になってるものは、歌の書などという題名になっていたりする。
技法や理論の共通点や、交流が、あんまりないはずの別の流派に、ほとんど同じ和歌があることも多いです。

 

 伝系

巻頭には流祖紹介や流派誕生の経緯があることが多く(たいてい漢文)、巻末には、あなたの熱意と練習量は浅くないから包み隠さずに教えたという決まり文句、誰を通して伝わったかという歴代の継承者名、最終発行者の署名花押印判、日付と宛先があるのが普通です。

原本を書写して与えるけれど、最終段階は生涯1人にしか伝えないこともあるから、自分がもらった現物を譲ることがあり、代々の持ち主の名を書き足していったものもあります。

入門時に提出する誓約書や、門人名簿、世襲した宗家の家系図、書簡なども、人間関係や形式がわかる資料として、広い意味では伝書と呼ばれます。
誓約書は紙の継ぎ方が通常と逆だったり、そういうこともひとつひとつ文化・伝統です。

そのほか、幕藩の公式記録や、日記、石碑の写しなど、その流派の真の歴史を知る手がかりになるので、このコンテンツでは積極的に収録していきます。
というか、これを表示することによって、「あの説は間違いだ、あの流派はニセモノだ」というお叱りに対して、「わかってますよ! わかってるけど、しょうがないじゃんかよ、どうすんだよ!!」という御返事になってる箇所もあります。

 理論、心得

流派の方針、東洋医学による急所や薬、経験からの護身や作法や、武具の仕様や選び方などもあります。
Q&A
で書かれていることも多いです。

 呪術

悪用や他言の禁止を神仏に誓う文章もよくあります。
人体を気や陰陽五行で、奥義を卍や星や円などの図形で説明していたり、方角、暦、天体、気象などの吉凶、魔よけの呪文もあったりします。

 

このへんはオカルトの人たちから見れば珍しいものでもないけれど、武術では奥の奥です。

日本の武術の源流が神官や修験者から発したものが多いこと、伝授システムに仏教のそれを取り入れたこと、禅や密教や神道によって、執らわれず動じないメンタルコントロールと、殺さず争わない人格完成という最終目標を確立したこと、流派という概念が生まれた室町期に縁起かつぎやこじつけが盛んだったこと、古代の軍学が陰陽道などに併伝されたことなど、いろいろな事情があり、一概に非科学時代の遺物として切り捨てられない部分です。

しかも、じつは実技に直結していることがあり、これ(または、これに近いもの)を習わないと絶対に到達できない部分がある。

 

 著書

世間一般に向けて出版され、広く読まれている武術書も、広い意味では秘伝書です。
流派を超えて、大局的な理論や武道家のありかたを説く本もあります。
初心者の独習のための教本も意外に昔からある。

ただし技法の教本の場合、あの人が絶対にこんなやり方を推奨するわけがない、俺は直系の弟子でいつも近くで拝見してたがこんなやり方じゃなかったという、意図的なデタラメや、そこまでいかなくても、不完全またはあいまいな書き方になってる部分もあります。
わざとじゃなくても、若い時と晩年で著者の考えが違うこともよくある。

直営道場をやっていて、くわしいことはうちの団体に入ってからねというものは、普及振興、宣伝目的だから、もったいつけてる上に、実際以上に神技のように書いてあったりする。
余命わずかの老先生が高弟だけに見せるつもりで書いて、読んだら焼却しろと言って渡すものとは、質が違うのは当然です。

 

 誤字当字省略

ただでさえ言文不一致の難字難読ばかりのうえ、行・草書を何百年も筆写していくので、伝言ゲーム的にノイズが入ります。

あっちの写本にない一文が、こっちの写本には挿入されている、同じ流派でも場所と時期によって技の名前が少し違ったり同音異字だったりする、なんてことが多い。

漢文で書いてあれば、純粋な漢文と、日本風の漢文(和製英語やカタカナ語みたいなもの)がある。
送り仮名、特に連体活用に使うかどうかや、小さく書くかどうか、句読点は使うか、使わずダラダラ続けて書いていくか、儀を義、并を並、等を「なンど」などの使い方とか。
時代と地域と身分層と教育水準もですが、個人の癖によるところがある。

そのへんがまた、でっちあげのニセ文書を見破ったり、直筆か口述筆記か、原本に近いのか後世の写本かを知る手がかりになったりします。

かと思うと、意味をこめてわざと違う字や特殊な読み方をさせたり、古を右、村を寸と書くなどの古文書独特の知識も要求されます。
十二支の「戌」が、いつもいつも『戍』に書き間違えていたり。

目下に対して署名するとき苗字を半分くらいしか書かないとか、珊瑚または瑠璃を王王、醍醐を酉酉、嵯峨を山山など、略して書くこともあります。
恐れ多い言葉、たとえばヒロヒト投げなんていう技がもしあれば、わざと文字や読みを変えることもある。

それをまた誤字と勘違いして勝手になおしてしまったり。

また、昔の人は異字体をものすごく使う。ひらがなだけでも、1つの文字が何種類もある。「あ」は、我々が使っているのは「安」系統の「あ」ですが、ほかに、「阿」「愛」「惡」などから作った「あ」がある。

漢字はもちろん中国から来たわけですが、中国語も現在では、術を朮、昇を升、誌を志、機を机などと略した字が膨大にあり、日本人の感覚から見れば、略した字が別の意味のように見えたりする。
たとえば広はもともと廣の略字ですが、広を广と略すのはいいとして、陸軍工廠なんていうときの廠は广ではなくて厂と略します。
さらに、日本には日本独自の略し方があって、厂と書いたら歴のことだったりする。
また、日本語にない略字もあって、貝の、三と八の部分を人にしちゃったり、しかも日常的に使っていて活字にまでなっている。こういうのは、見慣れてる人からすれば何でもない、便利だ、とおっしゃるのですが、最初は違和感がある。
そもそもが、中国語と日本語では熟語が違いますから、「手紙」はトイレットペイパーのことだったり。
てなわけで、中国の文献は中国語ができなくても文面から意味くらい拾えるかと思ったら全然読めなかったり。

用語の難しさもあります。

 

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