格さんの武術は柔術ではなく少林寺拳法?

 

 フィクション
先にハッキリさせておきますが、時代劇『水戸黄門』の格さんは、安積覚兵衛という実在人物をモデルにした、渥美格之進という架空人物です。
TBSのテレビ版では、小野派一刀流の免許だか皆伝だかをもらっているが、柔術のほうがむいているので素手で戦っている、ということが劇中に出てきますが、設定では、資料によっては
「少林寺拳法の達人」となっている。
たしかに見た目にも、多敵とはいえ、投げより当身を多用してます。
それがどうした?、と思ったあなたは、ものすごく武術に詳しい人か、武術を全然知らない人か、どっちかです。
まず、少林拳と少林寺拳法は違うということ、前者は中国拳法、後者は新興宗教だということから御説明しなければならない。

 少林拳は中国拳法
一番狭い厳密な意味で言えば、
河南省の嵩山少林寺で成立した中国拳法が「少林拳」です。
少林寺は5世紀に北魏の孝文帝が跋陀禅師のために建てたもので、以来、廃止させられたり改名したり焼き討ちにあったりしながら、現存してます。
傾向として、歩幅は広め跳躍は多め、手足を伸ばして大きく使い、力強く、速く、どちらかといえば攻撃的、剛の雰囲気…という拳法を「長拳」と言います。
少林拳も長拳ではあるのですが、実用から出た堅実な動きというか、どのジャンルでも古い名門がしばしばそうであるように、飾りがなく地味なくらい素朴で、格調高いのが特徴です。

 いろいろな少林拳
少林寺と言えば拳法の代表的な源流なので、燕青拳、洪拳、太祖拳、羅漢拳、六合拳など、独立した門派名があっても、
少林寺系という程度の軽い意味で、少林拳と呼ぶ場合があります。世間で通りがいいからです。
というのは、中国武術を少林派と武当派に分ける考え方があるからです。
少林寺がもともと拳法よりも棍で有名だったのに対し、武当山は剣が有名です。
映画では、少林派と武当派が戦う図式が、仏教と道教の対立のように描かれていたりもします。
武当派は太極拳、形意拳、八卦掌などですが、これらが湖北省の武当山を総本山にしている拳法だからと言われてますが、そんなのはデタラメです。
俺も武当派ですが、剛の少林寺系に対して、柔の拳法の総称という程度の意味で武当派と言っているだけです。
太極拳も形意拳も、技法、技名、理論で、まったく少林拳に似た部分があり、古くから交流しながら成立したことは間違いないし、
八卦掌と少林寺系を併伝なさってる老師もおられます。
さらに、
南派にも少林拳がある
中国武術は長江を境に北派と南派があり、趣が大きく異なります(四川など一部は飛び地的に、北派とも南派とも違うものもある)。
福建省または広東省に
、少林寺または少林寺の別院が(史実としてはないかもしれないが)あるということになっており、そこの僧侶が伝えた(ということになっている)詠春拳、洪家拳、白鶴拳などを、「南派少林拳」と呼ぶことがあります。

 日本少林寺拳法は日本の禅
日本少林寺拳法は、戦後に日本で生まれた宗教団体の「行」で、金剛禅という禅の一種です。
開祖はもと天理教の人で、健全な青少年を育てようという高い理念から、仏教を説く塾「禅林学園」を開いたが、小難しくて抹香くさい話なんて青少年はすぐ飽きて去ってしまうので、もっと若者らしく生き生きと体を動かす中で仏教を伝えようと始めたのが、日本少林寺拳法。
開祖は戦時中に中国にいて少林拳を習っているから、ごく広い意味では、これも少林拳かというと、そうでもありません。
日本少林寺拳法は、
少林拳とはまったく異なる独創的な技法だからです。

 ショーリンという打撃系は多い
日本で「少林寺拳法」と言えば、普通は、日本少林寺拳法をさす言葉です。
普通はというのは、そのほかにも
たくさんあるからです。
拳法では、少林寺源不動拳法、少林寺鶴派。
空手にも、少林寺達磨流、全日本少林寺流空手道連盟というのがある。
ついでに言えば、ショウリンと読む「小林流」という空手がたくさんあり、知花朝信、喜屋武朝徳、花城長茂、普久原朝直、中村茂といった先生方によって、それ小林流が作られてます。琉球本派小林寺流唐手なんてのもある。
空手の流派の多くは、明治以降にできた団体です。

 少林拳は江戸時代に伝わっていた
戦後にできた日本少林寺拳法が時代劇に出て来るのはおかしい、と思うでしょうが、じつは
少林拳も少林寺拳法と呼ばれていたと松田老師が書いておられます。
テレビの格さんは、中国武術の少林拳を使うんでしょう。
鎖国してたのに江戸時代に中国武術なんておかしい、というと、それも問題ありません。
少林寺で少林拳を修行した(ということになっている)陳元贇という僧侶が、江戸時代に来日して、日本の柔術家に拳法を教えた(ということになっている。史実では否定されてるみたいですが。つまり、東洋医学の急所を教えただけだとかいう)。
元和5年に来て(時期は諸説あったが、現在これがほぼ確定的)、家光公に謁見も許され、林羅山らの推薦で尾張徳川家に召し抱えられて、日本で亡くなってます。
光圀公は日本で最初にラーメンを食べた人で、儒学は朱舜水を長崎から招いて師事している。あの番組では長崎にも何度も行っているし、西村黄門は清国使節団を救う回もあった。格さんが中国拳法に接する機会もあったのでしょう。

 

 日本少林寺拳法は非実戦的か
日本少林寺拳法の特に大きな特徴としては、受けを重視することです。守主攻従といいます。
必ず、いったん受けてから攻撃するという、他の武術から見れば忌み嫌うようなことをあえてやっていて、あくまでも護身のためという考え方です。
試合もありません。演武だけ。
けれど、シュートのオープンなどでは、日本少林寺拳法出身の選手が活躍しています。
剛と柔、打撃と投げと関節、技術と思想など、
バランスがよく実用性が高いことは、部外者から見ても一目瞭然です。
こんな話もある。むしろ好戦的なくらいに実戦派で、実用性は証明ずみ。

「稽古は荒っぽかった。第三種お神楽---けんかの仲裁等の立廻りを、当時の門人たちはひそかにこう呼んでいた。第一種は法形、第二種が自由乱取りである。敗戦直後の風紀、治安の乱れはひどく、近隣の丸亀、善通寺等の都市はもとより、地元多度津でも無法者の暴力沙汰は日常茶飯事であった。自治体警察に協力して、パトロールを繰り出し、第三種お神楽を舞うこともしばしばであった。どんな時にも、道臣は弟子たちの輪の中心に、颯爽といた。
いま、草創期の門人たちは、このころの思い出を語るとき、ほとんど恍惚の表情になる。
日本少林寺拳法は、このような雰囲気の中で育っていったのである。』(『大系』8、鈴木義孝先生)

また、俺の知人の日本少林寺拳法の先生は、じつは先手もある、空手に先手なしと言うのと同じで、倫理としてはそうだが実際は違う、とおっしゃってます。
それが流派としての見解かどうかはわかりませんが、少なくともそういう考え方の拳士もいるわけです。

 日本少林寺拳法は少林拳のニセ物か
足技に定評のある松濤館空手を、韓国人が習って韓国に持ち帰り、テコンドーという武術を創始した。ところが一部の人たちが、じつはテコンドーこそが昔からあった武術で、それを真似したのが空手だと、逆の主張をしていることは、御存知のとおりです。韓国人は歴史をゆがめることを許さない公正な民族かと思っていたのに。
俺が見たテコンドーのポスターには、立技最強と書いてあった。これも普通はムエタイのうたい文句だそうです。
武術に興味ない人たちでも、松濤館は知らなくてもテコンドーなら知っている。オリンピック競技にまでなったんだから、歴史を古く見せかけなくても、そのすばらしさは誰もが認めるところです。
中国武術は、たしかに長い歴史と伝統があり、底なしに奥が深く、あらゆるものをすべて含む多彩な武術ではあるんですが、中国武術が偉くて日本少林寺拳法はたいしたことないというような考え方は、中国武術をほめようとして言ってくれたとしても、中国武術側の恥になります。
自分たちの武術が世界に広まっていくのは喜ぶべきことであるし、それが、その土地や民族に合うように少しずつ変化していくのは当然で、変える気がなくても変わってしまう。そもそも日本人だって外国文化を取り入れては日本風に変えて使いこなしてきたから、大切なことは
優劣ではなく、区別して、ごっちゃにしない、ということだと思います。
日本少林寺拳法は、堂々と中国に出かけ、中国武術と交流して親睦を深めるなど、良い関係を築いてます。
俺の故郷はひどい田舎で、中国武術がなかったため、上京するまでは空手団体で中国拳法を習うしかありませんでしたが、日本少林寺拳法なら近所にあり、となりの家の幼なじみは姉妹そろってそっちへ習いに行ってました。日本人が拳法を習う敷居を下げてくれている点だけを見ても、日本少林寺拳法は立派です。

 宗教がらみはウサン臭いか
日本少林寺拳法は、連合軍の占領のもとでは武術が禁止される恐れがあったため、宗教色を濃くしたという事情もありました。
それはシナイ競技や美術刀剣と同じで、まさに仏教で言うところの「方便」です。
しかし、宗教であることが、学校の部活動に採用されにくいなどの足枷にもなるので、のちに宗教と武術を分け、「宗教法人金剛禅総本山少林寺」と「社団法人日本少林寺拳法連盟」を別にして、現在では宗教色を消す方向にあります。
拳法なしには成立しない宗教だし、宗教の道徳や倫理がなくては成立しない武術ではあるから、実際は不可分でしょう。
たとえば政教分離は、完全には無理です。無理だからこそ、内面はどうでも、政治家の行動や発言は意識的に心がけて区別してもらわないと困るのですが、しかし同じ人物の一面だから、政治家の人柄や倫理観や人生観や使命感が、聖書やコーラン(クルアーン)をベースにしていたり、だからこそ信者が信頼して組織票を提供したりする。
俺は公明党が嫌いですが、自民党だって大企業教、社民党だって女教みたいなものでしょう。
ここで問題になるのは、その宗教が、たとえばテロおこしたりする反社会的な危険思想かどうかということだけです。

人が自分を向上させ、日々感謝反省し、自他共に幸せに生きていく道に、そうそう根本的に違う方法論がいくつもあるわけがなく、なに教だろうとそれは入口、とっかかりにすぎない。
逆に、そういう心の修行がない人が政治家や武術家やってるほうが、はるかに危険だと思います。

宗教色のない武術団体だって、あんまり師を崇拝していたり、スポンサーの影響が強ければ、実際は宗教みたいなものですよね。高校野球だって、宗教系の私立校はいくらでもある。
福沢諭吉氏は、バチが当たるか実験するため、神社のお札を踏んでトイレに捨てて『ソリャ見たことか』、叔父の家の御稲荷様の御神体をすり替え、隣家の御稲荷様の御神体を捨てて『バカめ』ということをやってますが、そういうのを合理主義と呼ぶのはいいが、それで青少年が立派に育つだろうかということを勝部先生がおっしゃってます。
宗教でもいいから、良心とか倫理観のある人間が育てばいいんです。

 

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