誰が、どうして、それを正解だと決めたのか テストで「正しいと思うものを選べ」ときたら、正しいと思えないものをヤマカンで選んだらバツかもしれないが、人様の主観と、事象の正誤は、話が別ですからね。 文学の解釈なんて、「私はこう思った、こんな情景が浮かんだ」というのと、「はい、それは間違い。この表現は作者がこういう意図でこういうことをあらわしているから、こう読み取るのが正解」というのがある。 「文科省検定教科書において現在正しいということになっているもの(以下、『正しいもの』と略す)を選べ」、「教育令や学校令にもとづいて御役所公認の学校でおこなうテストであるから、ひねらないで答える暗黙の了解」、ということだったら、ゴリ押しするのも損だから、優等生的な答え方をしますけど。 クイズと一口に言うけれども、とんちやナゾナゾとしておこなうもの、つまり、情報を要求しておらず、正解を聞かされてギャフンと言ってみんなで笑って楽しむことを目的にするものだってある。 「大阪城を建てたのは?」「豊臣秀吉」「ブー! 大工さんじゃい」というのは、とんちだけではありません。 「東海道五十三次を描いた浮世絵師は?」「安藤広重」って、それも間違い。安藤徳太郎あらため十兵衛または徳兵衛または鉄蔵または重右衛門という武士のことは、安藤と呼んでもいいが、絵師としては歌川派に入門して「広」の字をもらって広重だから「歌川広重」でなければおかしいし、もっと厳密に言えばその「広」は旧字の「廣」だし、この人もそうだけど昔の職人っていうのは代々襲名することがよくあるから、東海道五十三次なら初代に限定しなければ正解とは言えない。 答えは1つだけではないかもしれない。 選択肢の中から必ず選ばなければならないという、それがもう既成概念。 その質問者には、本人の好みとは違うもののほうが向いているかもしれない。 最終的にはその答えにたどりつくとしても、今は初心者だから、違うやり方のほうがいいかもしれない。 「とても歩きやすい道だが、行き止まり」かもしれない。 「進んでも進んでも、ぜんぜん高くならないが、じつは、ものすごく高い山だったために、裾野がなだらかだった」ということもある。 大ベテランが言うことが正しいとも限らない。
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「なにもしていない真っ白なキャンバスをそのまま額装して飾ったら、それは絵画か?」という話があるんです。 その定義は誰が決めたのか? それは従わなければならないのか? なぜ? こういうことは、マニュアル主義からは出てこないです。
人に聞いて、すませる了見 新入社員なんかは、わからないことはどんどん人に聞いたほうがいいですね。 後になるほど、聞きにくくなるし。 もちろん、仕事中にわからないことが出てくるたびに、先輩の手を止めてたら仕事にならないから、その分野のことは日頃から勉強しておく、という姿勢は要るけれども。 しかし…。 人に聞くのは、ラクチンで、てっとり早いが、同時に、いろんなことをたくさん失っているんです。
近道を通ったせいで、なにかを失う 近道になっちゃいけない場合というのは…。 悩んで、迷って、考えて、探して、ムダな遠回りをすべきところ。 その人は、そういう経験を通過することによって、誰も思いつかなかった答えを見つけ出し、達人に育っていくかもしれない。 それを、中途半端な物知りが横から口を出してしまうと、可能性が限定されたり、才能の芽がつみとられてしまう。
→つづき
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