TOP←戻る 山鹿流陣太鼓? 実在しなかった、と、あまりにも簡単に断言する人が多いので、
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山鹿流陣太鼓とは 山鹿流は、軍学の流派です。 時代劇では、吉良邸の正門を入ってすぐのところで、大石先生が仁王立ちになって、太鼓を打ち鳴らすわけです。 吉良邸を警護する武士たちの中で、特に強剛の2人のうちの片方、二刀使いの清水一学義久先生が、布団をはねのけて飛び起きて、耳をすまして、うなづきながら数えちゃって、 あるいは、隣家の旗本、土屋主税逵直殿が縁側に出てきて、この長台詞を言う場合もある。
赤穂浪士は、太鼓を使わなかった 忠臣蔵事件は当時ショッキングだったし、武士道の研究対象として知名度もあり、資料は必ずしも少なくはない。 それらによると、討ち入りの際には呼子鳥笛と鉦は持参したが、太鼓は持って行かなかったとされている。 『義士遺物目録』では、25の遺品の中に、なぜか法螺貝もあるが。 おそらく、掛矢(木製ハンマー)で門戸を破る音が、太鼓のように聞こえたのだろう、というのが定説になってるようです。
本当に太鼓を使ってないのか? 赤穂浪士は、凶器準備集合で往来を闊歩して、強引に家宅侵入してるところを、誰かに見られても引き止められずにすむよう、「(急いで仕事にかかる途中の)火消し」にコスプレして出かけた。 人様のお宅へ討ち入るとして、まず侵入はそーっと入って、最初のうちは門番なんかはそーっと殺すかもしれないが、発覚してしまえば、それこそ太鼓でも打ち鳴らしたほうが心理的に優勢になれる。 赤穂浪士は実際よりも人数を多く見せかけるために、ありもしない大軍勢をあたかも指揮しているかのように、ハッタリの号令を大声で叫びながら戦うなんてこともやってます(『波賀聞書』)。 つまり、この状況では、太鼓を使うほうが当たり前。
使ってないなら、なぜ俗説になったか 山鹿流の陣太鼓というのは、忠臣蔵をテーマにした演劇や絵画では、定番の小道具です。 当時の日本人から見て、太鼓を鳴り響かせながら討ち入る姿が、イメージとして自然だったらしい。 それなら、なおさら、なぜ使わなかったのかが大きな疑問ということになる。
反体制 山鹿流陣太鼓がフィクションだとすれば、なぜ、ありもしないものが、歌舞伎や浮世絵に共通して必ず取り入れられるのか。 これは単なる俺の想像しかも考え中の仮説ですが、幕府批判ではないかと。 御存知のとおり、江戸幕府の正規の学問というのは、朱子学です。 山鹿先生は朱子学を批判する著書を出したため、保科正之侯を激怒させてしまい、一時期、流罪になったことがある。 後述しますが、じつは大石先生は山鹿流じゃなかったようだけれども、実際はどうであれ庶民から見れば、幕府に対してガツンとくらわしてくれた赤穂浪士には、山鹿流が似合っていたのかもしれない。 浅野長矩侯は、即日しかも庭先での切腹、改易しかも再興が許されず(普通こういう時は、親戚の誰かが1万石もらうか、せめて旗本になるかして、家だけは継ぐこともありうるが、それがなかった)、…というのが討入の原因であり、それは幕府がやったこと。 この時の将軍は綱吉公。 なにしろ、綱吉公の時は、犬を粗末にしたら死刑になりかねないのだった。 ものごとを一面からしか見ることのできないバカ(たとえば狂信的な動物愛護の連中)が、「生類憐みの令は画期的な良い法律だったというのが現在では定説ですッ」とか、ほざくことが多いようですが。 また、このころは幕府も文治政策に移行しており、戦国乱世の尚武の気風は野蛮なものとして排除され、もっと官僚的で要領のいい軟弱な世になっていたから、武士が堕落した元禄時代にこのような事件が起きたことを、武士の鑑とか快挙とか喜んだ人も少なくなかった。 お犬様は殺すな、野蛮なことはよしましょう、でも浅野は死ね、すぐ死ね、ろくに事情も調べずに、未遂罪でもすぐ死ねというのは、武士から見ても不公平感が残る。 しかも、この処罰は公私混同。
山鹿流は、太鼓を使う! 合理主義でやってる西洋軍制でさえ、鼓笛隊は使います。 山鹿流の中心的な教科書『武教全書』からの引用(黄緑の文字、以下同)。 押太鼓を以て人数をつかふ徳の事 用る、は原文ママ。改行は俺がしました。
山鹿流には、太鼓がある!! 山鹿流の太鼓というのがあります。品物の規格がある。 といっても山鹿流のやることだから、こまかいことは各自の好みでよいという、わりと自由な方向だけれども。 雑器 れんちやく(連尺、連雀)は、幅広の肩ベルト。 とうゆ皮(桐油皮)は、撥水素材。 それで、図も添えられているのですが、打面の巴は三巴です。 芳虎筆の『忠臣義士銘々伝大星由良之助藤原良雄』では、本当に、太鼓の打面には墨の右三巴が描いてある…。
山鹿流には、太鼓の打法もある!!! しかし、一打ち二打ち三流れではないようで。 押太鼓うちやうの事 「打留ればとゞまる、打はじむれば又行」というのは、当たり前じゃん、と思うかもしれませんが、これはとても重要なことを遠回しに説いてます。こういう言い回しは古流によくあります。言っちゃうとオシマイなので解説は略します。 軍隊の進退あらゆる状況で太鼓を使え、夜戦なら、なおさら使えと説いている。
どこからどこまでが、山鹿流か 山鹿流というのは、いろんな極意の寄せ集めです。 この時代には西洋軍制がないから、軍学というのは結局、孫子など中国の古代兵法にほとんど言い尽くされていて、あとはせいぜい信玄公と謙信公の戦例研究ということになる。 山鹿先生があんまり博覧強記(というか雑学コレクション的)なので、師の北条氏長先生が戒めたという。 山鹿先生は、21歳の時にはもう、兵法の指導者です(指導してよいという資格を師匠からもらっている)。 一時期は取り入れたが、のちに、やっぱりやめた、というものもあったかもしれない。 山鹿先生は両部神道と忌部神道の秘伝も習ってらっしゃるし、和歌にも造詣が深かった。 もしかしたら一部の伝系には、珍しい太鼓の打法が、参考程度には付属していたかもしれない。 とにかく、絶対になかったとは、なにごとも断言できません。
山鹿流は、フリーサイズ 山鹿先生の教えに一打ち二打ち三流れがなくても、お弟子さんが内容を追加して、おやりになったかもしれない。 『『武教全書』には、たんに綱目を掲げただけで、細目の説明は書いていない。これはすべて口伝によって伝えることとなっているので、師範個人の考えや時勢の進歩に応じて、その解釈も伸縮自在にできるようになっている。それでも師範の器量に応じてよくその意味を味わい、くふうと発明とによって内容を生かすべきであるというのが山鹿流の特質であった。このことは幕末における毛利藩の山鹿流師範吉田松陰によって、よくその特質が発揮せられた。』(前掲、『山鹿流兵法』) 西洋軍制に応用することさえ可能だった。海舟先生も山鹿流。 これは骨格であり、枝葉の部分は臨機応変ということです。 山鹿流は、この自由自在の傾向が特に強くて、このことが山鹿流の「特質」だったという。 一打ち二打ち三流れでなくても、道具がどうでも、山鹿流の理論の原理原則に従って使うものは、その時その時、それが山鹿流の陣太鼓。 山鹿流の定義の範囲が伸び縮みだというのに、誰がどうして、「山鹿流陣太鼓は実在しなかった」なんて決めつけることができるんだ?
山鹿流ではない太鼓は? 大石先生は、遊びもなさったと伝えられている。 そういう施設では、お座敷ゲームとかの、お囃子に使う小さい太鼓くらいあったはず。 大石先生は帳簿つけの達人だったので、討ち入り前月までの会計は、詳細に記録してあった。 そういうことは歴史に残らないのですよ。
大石先生は、たぶん甲州流 大石先生が山鹿流を習ったというのも、じつは俗説です。 赤穂浅野家では、もともと甲州流を採用していた。 のちに浅野家は、山鹿先生から山鹿流を習うようになった。 ところが。 あくまでも状況証拠。 小幡先生が甲州流、その高弟の氏長先生が北条流で、山鹿先生はこの両先生に師事したから、山鹿流は甲州流の一派と言えなくもないのですが。 もし、山鹿流陣太鼓なるものが実在したとしても、もしかして大石先生が討ち入りの際に本当は太鼓を打っていたとしても、それでもそれは山鹿流陣太鼓ではないという可能性が、もう一次元あるというわけです。 しかし、さらにもう1階層、話が二重底になっているのですよ。
「山鹿流陣太鼓」は、実在した! 『武芸流派大事典』に、ちゃんと掲載されている。 『山鹿流(陣太鼓) どうせ後世の仮託だろうって? 古流に関する限り、御本人がそうおっしゃるものはもう、しょうがないのです。 この大原先生の陣太鼓が、赤穂浪士のものとは別モノだったとしてもですよ、とにかく、実在したか・しなかったかと言えば、実在したのですよ。 そしてそれはおそらく、赤穂浪士のものと同じものであるという公称になっていたか、あるいは積極的にはそうおっしゃらないとしても、武術家がそんなのおやりになっているからには、世間からは同じものと思われるであろうことは想定なさっていたんでしょうよ。 園遊会で陛下から御言葉を頂く時に、「草薙剣、今のやつはレプリカですよねェ?(笑)」って、面と向かって言うガッツありますか、俺には無理。
※ 追記
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