TOP←戻る 山鹿流陣太鼓?  

実在しなかった、と、あまりにも簡単に断言する人が多いので、
1ページ書いておきます。そんな簡単な話じゃあないよ。

 

 

 山鹿流陣太鼓とは

山鹿流は、軍学の流派です。
軍隊をどのように指揮監督指導すれば戦争に勝てるかという理論と、それをおこなうための思想哲学や、具体的な技術。
流祖は山鹿素行軒高祐先生。

時代劇では、吉良邸の正門を入ってすぐのところで、大石先生が仁王立ちになって、太鼓を打ち鳴らすわけです。
太鼓といっても、ワイン樽みたいなやつではなくて、胴のごく短い平太鼓を、縦に吊るして打つ。
打面には、中央に大石家の家紋の二つ巴、周囲には入山形のギザギザが描き込んである。

吉良邸を警護する武士たちの中で、特に強剛の2人のうちの片方、二刀使いの清水一学義久先生が、布団をはねのけて飛び起きて、耳をすまして、うなづきながら数えちゃって、
「うむっ、一打ち二打ち三流れ、あれこそは、まさしく山鹿流の陣太鼓! あの奥義を継承する者は、天下六十余州に3人しかいない、まず一人目は…」
とかなんとか、
やたら悠長かつ説明的な独り言を、わざわざ視聴者に聞こえるように口に出して言ってくれるのが、お決まりになってます(3人目をド忘れして、やっと思い出したら大石先生で、てことは討ち入りかぁ!となる。笑)。

あるいは、隣家の旗本、土屋主税逵直殿が縁側に出てきて、この長台詞を言う場合もある。
忠臣蔵のウンチク本みたいなもの、いろいろ読みましたが、誰も指摘していないようだから俺が言いますけど、この人の大叔父、土浦藩主の土屋数直侯は、山鹿先生の直弟子なんです。

 

 赤穂浪士は、太鼓を使わなかった

忠臣蔵事件は当時ショッキングだったし、武士道の研究対象として知名度もあり、資料は必ずしも少なくはない。
討ち入り後の赤穂浪士の身柄を預かった大名家では、討ち入りの時の様子を喝采しながら聞き出してもいる。

それらによると、討ち入りの際には呼子鳥笛と鉦は持参したが、太鼓は持って行かなかったとされている。

『義士遺物目録』では、25の遺品の中に、なぜか法螺貝もあるが。

おそらく、掛矢(木製ハンマー)で門戸を破る音が、太鼓のように聞こえたのだろう、というのが定説になってるようです。

 

 本当に太鼓を使ってないのか?

赤穂浪士は、凶器準備集合で往来を闊歩して、強引に家宅侵入してるところを、誰かに見られても引き止められずにすむよう、「(急いで仕事にかかる途中の)火消し」にコスプレして出かけた。
江戸時代の火消しは、太鼓を使いました。
この時代の消火活動は、破壊消防(建物を打ち壊して延焼を止める。燃える物をなくす)です。
18世紀なかば以降には、ごく小規模な放水ポンプがありましたが、元禄年間には、それすら、まだない。
ましてや、大名火消しというのは、行政府の都市機能を守るという軍事行動です。

人様のお宅へ討ち入るとして、まず侵入はそーっと入って、最初のうちは門番なんかはそーっと殺すかもしれないが、発覚してしまえば、それこそ太鼓でも打ち鳴らしたほうが心理的に優勢になれる。
守る側のほうが、受け身で後手だから。

赤穂浪士は実際よりも人数を多く見せかけるために、ありもしない大軍勢をあたかも指揮しているかのように、ハッタリの号令を大声で叫びながら戦うなんてこともやってます(『波賀聞書』)。

つまり、この状況では、太鼓を使うほうが当たり前。

 

 使ってないなら、なぜ俗説になったか

山鹿流の陣太鼓というのは、忠臣蔵をテーマにした演劇や絵画では、定番の小道具です。
国貞筆の『忠臣蔵夜討弐国橋会合図』では、直径60センチくらいはありそうな平太鼓を背負っている。

当時の日本人から見て、太鼓を鳴り響かせながら討ち入る姿が、イメージとして自然だったらしい。

それなら、なおさら、なぜ使わなかったのかが大きな疑問ということになる。

 

 反体制

山鹿流陣太鼓がフィクションだとすれば、なぜ、ありもしないものが、歌舞伎や浮世絵に共通して必ず取り入れられるのか。

これは単なる俺の想像しかも考え中の仮説ですが、幕府批判ではないかと。

御存知のとおり、江戸幕府の正規の学問というのは、朱子学です。
朱子学は、非常に抽象的で複雑な理論なので一概に言えないけれども、ごく乱暴に言えば、人は平等ではない、目上を敬え、騒動を起こすなよ、という、支配者にとって都合のいい思想。

山鹿先生は朱子学を批判する著書を出したため、保科正之侯を激怒させてしまい、一時期、流罪になったことがある。
その
流刑先が赤穂だった。
赤穂藩では山鹿先生の身柄を丁重に預かった。

後述しますが、じつは大石先生は山鹿流じゃなかったようだけれども、実際はどうであれ庶民から見れば、幕府に対してガツンとくらわしてくれた赤穂浪士には、山鹿流が似合っていたのかもしれない。

浅野長矩侯は、即日しかも庭先での切腹、改易しかも再興が許されず(普通こういう時は、親戚の誰かが1万石もらうか、せめて旗本になるかして、家だけは継ぐこともありうるが、それがなかった)、…というのが討入の原因であり、それは幕府がやったこと。
殺人未遂の犯罪者を処罰するにしても、武士なのだから、自分の落ち度は誰に仕置きされるまでもなく自分の手で自分を始末するのであるから、そのために常に脇差を帯びているのだから、しかも一軍の将たる大名なのだから、最低限、大名の切腹にふさわしい格式と礼儀で処遇してやらなきゃいけないのに。

この時の将軍は綱吉公。
元はといえば家光公が得体の知れない下賤の愛人に生ませた子で、たまたま先代の将軍(異母兄)に子がなかったから将軍になったという、成り上がり者。
一緒にくっついて成り上がった側用人の柳沢吉保侯も、庶民から見れば嫌われる悪役タイプ。
もう少しあとの、新井白石先生とか吉宗公のほうが、評価が高い。

なにしろ、綱吉公の時は、犬を粗末にしたら死刑になりかねないのだった。

ものごとを一面からしか見ることのできないバカ(たとえば狂信的な動物愛護の連中)が、「生類憐みの令は画期的な良い法律だったというのが現在では定説ですッ」とか、ほざくことが多いようですが。
どんな法律であれ、それが世の中にもたらした影響というのは功罪いろいろあるのは当たり前。
あんたの感想は、感想。
事実は事実。
綱吉公が死んだとたん、葬式も終わらないうちに、生類憐みの令が即刻廃止されたことは、事実。

また、このころは幕府も文治政策に移行しており、戦国乱世の尚武の気風は野蛮なものとして排除され、もっと官僚的で要領のいい軟弱な世になっていたから、武士が堕落した元禄時代にこのような事件が起きたことを、武士の鑑とか快挙とか喜んだ人も少なくなかった。

お犬様は殺すな、野蛮なことはよしましょう、でも浅野は死ね、すぐ死ね、ろくに事情も調べずに、未遂罪でもすぐ死ねというのは、武士から見ても不公平感が残る。

しかも、この処罰は公私混同。
要するに綱吉公は、身分卑しい母親に朝廷から高い位をもらおうとしていた矢先だったので、朝廷の機嫌を損ねることを恐れて、浅野家をことさら厳しく罰したわけで。

 

 山鹿流は、太鼓を使う!

合理主義でやってる西洋軍制でさえ、鼓笛隊は使います。
山鹿流兵法は、
太鼓を使えと説いている。当たり前だ。

山鹿流の中心的な教科書『武教全書』からの引用(黄緑の文字、以下同)。

 押太鼓を以て人数をつかふ徳の事
一、約束合図のために用ゆる事
一、大勢を用る事、小勢を用ゆるがごとくならしむる事
一、人に勇怯なからしむる事
一、威をしめす事
一、気をうばひ敵をうたがはしむる事
太鼓ばかりにかぎらず、声は人の耳を驚かし、其気をひとつにいたす徳あり。

用る、は原文ママ。改行は俺がしました。

 

 山鹿流には、太鼓がある!!

山鹿流の太鼓というのがあります。品物の規格がある。
流派として推奨する、胴の塗装、鋲のメッキ、打面の図案が定められている。

といっても山鹿流のやることだから、こまかいことは各自の好みでよいという、わりと自由な方向だけれども。

 雑器
一、押太鼓可作作法の事 籏本の押太鼓は胴を黒く塗、めつきびやうにして、面にあをく左巴を書なり。御大将の右に可有之。諸手の太鼓は、木地の胴にて鉄のびやうなり。墨にて右ともへを書なり。大小は将のこのみにしたがふなり。びやうのあかず、是れ又太鼓の大小にしたがふなり。或は皮をかゞりながらも用ゆといへり。
 家わくはれんちやくを付て、をふが如くいたすべし。作法定れる義なし。雨覆あるべし。とうゆ皮を用なり。はちの寸法定法なし。大方一尺弐寸といへり。うでぬき有。

れんちやく(連尺、連雀)は、幅広の肩ベルト。
つまり、ここで述べているのは、長篠合戦屏風に描かれているような、かなり大きな太鼓です。

とうゆ皮(桐油皮)は、撥水素材。
はちはバチ(撥)。
うでぬき(腕貫)は、落っことさない用心のための、輪になった紐。

それで、図も添えられているのですが、打面の巴は三巴です。

芳虎筆の『忠臣義士銘々伝大星由良之助藤原良雄』では、本当に、太鼓の打面には墨の右三巴が描いてある…。

 

 山鹿流には、太鼓の打法もある!!!

しかし、一打ち二打ち三流れではないようで。

 押太鼓うちやうの事
一、
(オカルト部分は略す。引用者注)
 序二 破三 急四 打留ればとゞまる、打はじむれば又行
一、備をおり敷、おり立、むすぶとく、敵城へ取寄、又はまきほぐし、かゝる時、もりかへす時、皆太鼓を用ひて徳多し。
尤夜軍のとき猶太鼓あるべし。

「打留ればとゞまる、打はじむれば又行」というのは、当たり前じゃん、と思うかもしれませんが、これはとても重要なことを遠回しに説いてます。こういう言い回しは古流によくあります。言っちゃうとオシマイなので解説は略します。

軍隊の進退あらゆる状況で太鼓を使え、夜戦なら、なおさら使えと説いている。
ますます、おかしいではないか。
なんで赤穂浪士は使わなかったんでしょうね。

 

 どこからどこまでが、山鹿流か

山鹿流というのは、いろんな極意の寄せ集めです。

この時代には西洋軍制がないから、軍学というのは結局、孫子など中国の古代兵法にほとんど言い尽くされていて、あとはせいぜい信玄公と謙信公の戦例研究ということになる。
『武教全書』序文には、『殆竊取先哲之意…』、ほとんどは先人たちの理論ですということが書いてある。

山鹿先生があんまり博覧強記(というか雑学コレクション的)なので、師の北条氏長先生が戒めたという。
有馬成甫先生監修、石岡久夫先生編集、『日本兵法全集5 山鹿流兵法』人物往来社1967の中で、有馬先生はこう述べてらっしゃる。
『しかしその説は、いたずらに多読多聞を願って、その信拠するところがなかったので、氏長は彼を評していたずらに多学多聞を求めて、中心思想を欠くを戒めて、『士鑑用法』にただ神心を求めよと警告している。』

山鹿先生は、21歳の時にはもう、兵法の指導者です(指導してよいという資格を師匠からもらっている)。
今これをお読みになってらっしゃる方はきっと軍事に精通した方でいらっしゃると思いますけど、あなた21歳の時に軍事に対する認識って完成してました?
山鹿先生は64歳で亡くなるまでに、山鹿流兵法の内容も、少しは変化している。
漢学に傾倒していたのが、どんどん国学寄りになったり。

一時期は取り入れたが、のちに、やっぱりやめた、というものもあったかもしれない。

山鹿先生は両部神道と忌部神道の秘伝も習ってらっしゃるし、和歌にも造詣が深かった。
儀式や祭の音楽とか、酒席の余興としての、和太鼓をおやりになっていたかもしれないじゃないか。

もしかしたら一部の伝系には、珍しい太鼓の打法が、参考程度には付属していたかもしれない。

とにかく、絶対になかったとは、なにごとも断言できません。

 

 山鹿流は、フリーサイズ

山鹿先生の教えに一打ち二打ち三流れがなくても、お弟子さんが内容を追加して、おやりになったかもしれない。

『『武教全書』には、たんに綱目を掲げただけで、細目の説明は書いていない。これはすべて口伝によって伝えることとなっているので、師範個人の考えや時勢の進歩に応じて、その解釈も伸縮自在にできるようになっている。それでも師範の器量に応じてよくその意味を味わい、くふうと発明とによって内容を生かすべきであるというのが山鹿流の特質であった。このことは幕末における毛利藩の山鹿流師範吉田松陰によって、よくその特質が発揮せられた。』(前掲、『山鹿流兵法』)

西洋軍制に応用することさえ可能だった。海舟先生も山鹿流。

これは骨格であり、枝葉の部分は臨機応変ということです。
流派っていうのは、だいたいそう。
修行段階ではフラフラしてちゃ困るが、マスターした後はもう、流派の規格なんて超越する。
逆に言うと、些細な杓子定規にこだわってるようでは、実用に生かせない。

山鹿流は、この自由自在の傾向が特に強くて、このことが山鹿流の「特質」だったという。

一打ち二打ち三流れでなくても、道具がどうでも、山鹿流の理論の原理原則に従って使うものは、その時その時、それが山鹿流の陣太鼓。

山鹿流の定義の範囲が伸び縮みだというのに、誰がどうして、「山鹿流陣太鼓は実在しなかった」なんて決めつけることができるんだ?
継承者全員の生涯を調べたとでも?
山鹿先生のお弟子さんは俗に4000人、判明している直弟子だけでも141名。

 

 山鹿流ではない太鼓は?

大石先生は、遊びもなさったと伝えられている。
吉良側を油断させるためでもあっただろうし、生身の男性だから迷いや未練が全くないわけでもなく、酒色におぼれるのも楽しかったかもしれない。

そういう施設では、お座敷ゲームとかの、お囃子に使う小さい太鼓くらいあったはず。
討ち入りに使っていただければ幸甚と、なじみの売春婦から太鼓をプレゼントされていたらどうする?

大石先生は帳簿つけの達人だったので、討ち入り前月までの会計は、詳細に記録してあった。
しかし、赤穂藩の公費で購入していないものは、買い揃えた道具のリストにはないよ。
非公式に持参した私物は、討ち入りの装備品リストにはないよ。

そういうことは歴史に残らないのですよ。
「なかった」を証明するのは、ほとんど無理。

 

 大石先生は、たぶん甲州流

大石先生が山鹿流を習ったというのも、じつは俗説です。

赤穂浅野家では、もともと甲州流を採用していた。
小幡先生の高弟四天王「小幡門四哲同学」のひとり近藤正純先生が、真壁藩の軍学師範で、長直侯に千石で召し抱えられていた。

のちに浅野家は、山鹿先生から山鹿流を習うようになった。

ところが。
大石先生の祖父・従祖父・従兄弟だったら山鹿流に入門しているのだが、
大石内蔵助先生が山鹿流を習ったという証拠が何もない
石岡先生の御研究でも確認とれないという(前掲、『山鹿流兵法』)。

あくまでも状況証拠。
年代的に、場所的に、立場的に、山鹿先生と接触はしているはずだよなあ、という程度。

小幡先生が甲州流、その高弟の氏長先生が北条流で、山鹿先生はこの両先生に師事したから、山鹿流は甲州流の一派と言えなくもないのですが。

もし、山鹿流陣太鼓なるものが実在したとしても、もしかして大石先生が討ち入りの際に本当は太鼓を打っていたとしても、それでもそれは山鹿流陣太鼓ではないという可能性が、もう一次元あるというわけです。

しかし、さらにもう1階層、話が二重底になっているのですよ。

 

 「山鹿流陣太鼓」は、実在した!

『武芸流派大事典』に、ちゃんと掲載されている。

『山鹿流(陣太鼓)
 現師範、横浜に大原政蔵あり。念流樋口定督の門人。』

どうせ後世の仮託だろうって?
失礼を言うな! 無礼者めが!

古流に関する限り、御本人がそうおっしゃるものはもう、しょうがないのです。
たいていの流派はみんな少なからずそうです。
義家公や正成公や義経公や、下手すると聖徳太子や孔明先生や、神功皇后様、建内宿禰様、日本武尊様、とてつもない人から始まっている(ということになっている)流派が、いくらでもある。
特に、軍学では珍しいことではないです。
これは歴史ではなく宗教なんです、信仰。

この大原先生の陣太鼓が、赤穂浪士のものとは別モノだったとしてもですよ、とにかく、実在したか・しなかったかと言えば、実在したのですよ。
「山鹿流陣太鼓」という名称の太鼓技術が、この世に存在したことがあるのです。

そしてそれはおそらく、赤穂浪士のものと同じものであるという公称になっていたか、あるいは積極的にはそうおっしゃらないとしても、武術家がそんなのおやりになっているからには、世間からは同じものと思われるであろうことは想定なさっていたんでしょうよ。
どうにもなりませんよ。

園遊会で陛下から御言葉を頂く時に、「草薙剣、今のやつはレプリカですよねェ?(笑)」って、面と向かって言うガッツありますか、俺には無理。

 

 ※ 追記
特定流派を名指しして、伝書の内容に触れる話題なので、二之丸の隠しページにしていましたが、この話は「厩舎」に付属させます。
もし山鹿流の継承者や御子孫が御健在でしたら、シロートのたわごとと御寛容ください。

 

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