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 辞典は、辞典でしかない

もちろん、真実は多数決で決まることではないです。
ほとんどの辞典にそう書いてあるからといって、間違えてる辞典ばっかりが世間に多いのかもしれない。

そんなバカな、辞典と名のつく本に間違いがあるわけがない、と思うでしょうが、実際あるからしょうがありません。
少なくとも武術のことに関する限り、まったく信用ならない。
逸話や、団体の歴史や、技の説明だったら、まあしょうがないこともあるし、専門家の間でも諸説あったりしますが、生没年・出身地・経歴・肩書、あろうことか人名さえも、
かなり権威ある辞典が軒並み間違えてることが多い

 

 いろいろ見聞きしてみる

たとえば、御年玉で漢字辞典を買う小学生って、見たことあります?
俺が、そうだったんです。
イヤな小学生ですねえしかし。

うちの実家は書道教室だから、辞典なんか売るほどあった。
親戚や親の友人に、平安文学や漢文の学者や教員がゴロゴロいたから、慶弔の引出物が名入り辞典なんてことがよくあり、納入業者が見本にくれたんだか、生徒に配って余ったんだかした辞典が、いくらでも新品でタダでもらえた。いらないって言ってもくれた。
そういう環境にあっても、当時、小遣いをもらってなかった俺が、貴重な御年玉をわざわざ漢字辞典に費やすっていうのは、すでに易や姓名判断や呪符や禅の師についていたからです。
『文部省推奨、教科書準拠、よい子のための小学校高学年で習う漢字、最新版』なんていう、子どもだましの簡易版(もし実在する題名だったらすみません)みたいなものでは、まるっきり使い物にならなかった。

たとえば、「雪」という漢字の下半分は、ヨではなく彗、彗星の彗であり、いわゆる天使の髪の毛現象ゴッサマー、「糸のような妖しいものが天から降ってくる(雪ではない。雪はそのあとに降る)」という意味であり、そういうことひとつひとつを知ってるかどうかで、ある種の奥義の名前にどうしてその文字が使われているかとか、いろいろ見えてくるものがあるんです。

 

 どうとでも読める

もっとややこしいのは、読む側の器量に丸投げされちゃってる場合です。

たとえば『広辞苑』で、「体術」と引いたら「柔術に同じ。」、「柔術」と引いたら「柔道に同じ。」、たった一言、これだけしか書いてない。
今はどうか知りませんが、俺が使ってる三版ではそうなってます。

それは、柔道の項目に一括して、柔道の説明のところで体術や柔術のことにもふれているから、柔術や体術を知りたかったら柔道の項目を参照しろということなんですが。
そうすると、「柔道」で引けば、柔術、体術、とも書いてある。
「柔術」で引いたのに武器を使用せずと書いてあり、「柔道」で引くと当身を行うと書いてあることになる。

 部外者
「ふーん、同じものなんだ」と、深く考えずに、うのみにする。
俺も2007年になってようやく、「ビーチバレー」と「ビーチボールバレー」の違いを知りましたからね。

 初心者
「同じじゃねえよバカヤロー! ウソを言うなウソを! けしからん!」と言う。
古流と講道館の違いを知ってるから、自分がやってるほうに誇りを持っているからです。

 初心者に毛が生えた程度の奴
「決して自分たちのほうだけが偉いとは思わないが、違いはあるのだから、こんなお手軽な説明で一緒にされては、自分たちの歴代先師にも、むこうの団体のみなさんにも失礼だ、紙面がなくて中途半端に書かれるくらいなら載せてくれなくて結構だ」というような、もう少しマシな理由で怒る。

 中級者
疲れて、少し悟りを開き始める(笑)
「興味ない人にこまかく説明しても、お互いに時間とエネルギーのムダ。世間ではその程度の認識だろうし、それでいいよ。本当は絶対に違うものなんだけど、わかってる人はわかってるんだから、ギャーギャー騒がなくても」というような立場を取る。
アゲアシをとって目くじら立てて波風立てるような小さい人物ではなく、和を大切にしていくのが武術であるということを、なんとなく理解しはじめている。

 上級者
「ある意味では同じだと言えなくもない…」などと、本気で言い出す。
嘉納先生がお若いころ柔術をまじめに学ばれたこと(特に起倒流の乱取)、じつは講道館にも形や武器術があること、直信流などが古くから柔道と名乗っていたこと、講道館と古流は対立するものではないし事実それほど悪い関係ではなかったことなどを、知っているからです。
東の講道館に西の武徳会という図式はたしかにあったんですが、しかし、卑怯で陰険で古くさい柔術家たちを、さわやか好青年の柔道家が次々と試合で撃破していくっていうんじゃ、安っぽい小説か、子ども向けのマンガですからねえ。

 大先生
「まったく同じだ、いや、同じでなければならん。なかなか含蓄ある意味深長な解説文だ、しかも鋭く一言で、頭が下がる辞典だ」、などとニヤニヤする。
講道館も現代人や国際社会の需要に適応した新しい柔術の一形態ではあり、古流も人間形成できる道であり、極めた人にとっては形式の違いなんて超越してるはずで、形式なんかよりもそこから何を学び取って自分の人生に生かしていくかである、なんなら、卓球だろうが阿波踊りだろうが同じだ、ソープランドに行くのもクソをするのも、みーんな柔道であり柔術だァ、などと、そこまで達観しちゃっている。
こうなっちゃうと、もはや凡人にはついていけませんからね。
こういう人に、「柔術とは何でしょう?」なんて聞こうものなら、「そういうこと聞かないのが柔術です」とか、「私も70年やってきたけど、まだわからないんです、本当です」とか、「愛!」とか、もう、まるっきり、とりつくシマがないんですから。

こうした深い深い話になっていくから、正解っていうのは、じつはいくつもあるわけで。
ひとりひとりが「柔術とは何か?」という自分の答えを出すために柔術やってるんだから、今の時点での自分の答えはこれです、という「感想」でしかない。
辞書が作れたとしても、それはとりあえず平均的な公約数にした
フリーサイズの正解にすぎないんですよねえ。

そこまで極端でなくても、たとえば『広辞苑』で新当流を引くと、「剣道の一派。」「鹿島新当流。卜伝流。」などと書いてある。
剣術が「剣道」と呼ばれた早い例はどれか、鹿島新当流は本当に藤原鎌足公以前からやっているのか、開祖が同じなのに新當流と卜伝流はどうしてあんなに内容が違うのか、ということを研究してる者から見れば、納得するわけがありません。

たとえば、料理の本で「餃子の作り方」という項目を引いたら、「まずスーパーで、チルド餃子12個入りパックを買ってくる」などと書いてあったとしたら、出来合いの餃子を認める人でも、この本は認めないでしょう。

 ※追記
この文章を書いた半年後くらいに、中国製の毒餃子事件が起きました。へんな比喩になっちまった。

 

次回は、もっと根本的な問題について。

 続く→ 

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