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 武器になってからも、まだ農作業に使っていた?

『武器と防具 中国編』には、こんなことも書いてあります。

『僧侶は禅杖を武器としてだけでなく、農具として使ったり、道のない所を行く時に伐採に使ったり、荷物を担ぐために天秤棒として使ったりしました。』

これまた、根拠がわからない。
紙面が少ないせいか、この著者は、とても重要なことを次々に、じつにあっさり述べておられて、しかも根拠が示されていない。
くわしく研究してる人たちの間では、当たり前の事実で、当たり前すぎて、いちいち情報の出どころを言うまでもないくらいに、当たり前なのかもしれませんが。

これ、とても重要なところなんです。
歴史学や軍事学や民俗学において、武器がどのくらい神聖視されているかは、その時代と文化の、とても重要な部分を判断する手がかりになります。
たとえば佐原館長などは、その時代に戦争があったとみなす6つの判断基準のうちの2つに挙げておられるくらい。
武器が、副葬品になるか、宗教への奉納品になるか、取り扱いに作法があるか、貴金属で装飾されて機能と関係ない美観が追加されるか、名刀を使わずに宝物として温存する意識があるか、…そういうことはとても重要なんです。

ヴェトナムで、くだらない戦争だと思いながら戦っている米兵たちが、重い機関銃に嫌気がさして、その機関銃をピッグ(ブタ野郎)と呼んでいたり、やっと帰れる時に船が狭いっていうんでヘリコプターを甲板から押して片っ端から海に落として捨てちゃって、セイセイした顔していたり。
旧日本軍が特攻で起死回生しようとして作った人間爆弾が、桜花なんていうヤケクソに美しい名前だったり。
ほかにも、聖水撒布器、鉄の処女、仁慈の劍、国崩し、三八式歩兵銃殿、復讐者などなど、人殺しとその道具をどう認識しているかということが反影するものなんです。

‘金産’は、もともと農具だったとは思う(たっぷり後述します)。
一揆が起きたら、ありあわせのものを一時的に、武器に転用することはあるでしょう。
しかし、それが武器の一ジャンルになり、少林寺にも採用され、技法も発展して、禅杖とまで呼ばれるようになっても、
まだ、農具としても使っていたのか?
そういう証拠が、なにか見つかっているんでしょうか。

金剛杵などは、初めは武器でも、仏具になると、あんまり尖っていないものも作られ、人を殺傷する意識も機能も薄れ、象徴でしかなくなる。
ナイフや斧や弓矢は、狩猟採集生活ならば、日常の民具としても対人の兵器としても兼用されるということが世界中にあるんです。
琉球のように、社会的に武器を持ちにくいから、民具を転用ということもある。

あなたは、人を殺した凶器や、死体を埋めた道具を、野菜を栽培する時にも使いますか?
それで、その野菜を食べるんですか?
これは少林寺の僧侶がキチガ○かどうかという、大変な問題に発展してしまう。

宗教を職業にしている人たちにとって、神道のケガレでなくても、ある種のタブーというか、死をネガティヴなものとして忌み嫌う意識っていうのが、あるのかないのか。
ないのならば、戦乱ばっかりで死なんか珍しくもない世の中だったか。
そうでなくても仏教の無常観や、禅の達観から来ているのか。
修道院の清貧生活というのが、なるべく物を持たない主義だったか。
インドでは、聖なる川の水は聖なる水であり、ゴミだらけだろうが死体が浮いていようが、その水で平気で顔を洗っていたりするって言いますよね。

武器自体もですが、そういう背景が重要なところなんです。

‘金産’が、日常の農具としても使われ続けたのであれば、あんまり武器として洗練されておらず、特化していなかったのか。
あるいは、僧侶が殺生することは聞こえが悪いという、はばかってカモフラージュする意識なのか。
というより、道場武術になってしまって、ただ心身を鍛えていただけで、実際には‘金産’を使って人を殺傷する機会がほとんど皆無だったか。

 

荷物をくくりつけて天秤棒として使ったかどうかは、最近そんな絵を撮影したので、あとでお目にかけます。

ここで、また根本的なことに気がつきました。次回。

 続く→ 

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