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 デタラメとは限らない

新紀元社の本が、間違っていると言ってるんじゃありませんよ!

俺のような不勉強な者にとっては、間違っているのか正しいのか、わからないので困ると言っているんです。

歴史とか武術というのは、探せば必ず例外的なものが見つかるし、上には上がいます。
世間には知られていないだけで、
珍しい例もたくさん実在するし、ものごとはいろんな見方がある。

たとえば当世具足を着た時や、鉄砲をしゃがんで撃つ時は、刀を太刀のように身につけることはあるので、「打刀を佩く」という現象はたしかにあるし、江戸時代の甲冑だと、必要ないのに栴檀鳩尾を区別した復古調がある。
小烏丸も、反りがあって切刃造でないものを大宝年間に作ったわけがないんだし、御物のアレのほかに、継平押形のやつもあった。
忍者を職業にしてる人は現代にもいるのだから、忍者が掌剣を持っていないとは限らない。

名和先生所有のマロホシは、手溜蝶番3つのうち1つが欠損しているが、それを知らずに、名和先生の著書をちゃんと読まずに写真だけを見て描くと、金具が2つしかないマロホシの図になる。
しかし、想像で勝手に描くのはおこがましいことであるからと、知っててあえて2つしか描かなかったという「誠実さ」かもしれない。
さらに、もしも未発見のマロホシが今後たくさん見つかって、それがすべて、金具が2つしかないか、または、3つのうち1つが壊れた状態になっているか、あるいは、金具をわざと1つ取り払ったほうが使いやすいなどと当時の人が書いた文章でも見つかれば、じつは金具が2つしかないのが最も一般的な姿なのかもしれない。

 

 信じないわけにいかない

前述の新紀元社の武器の本は、著者がかなりたくさんの資料を読破して、そこから取捨したということを、あとがきで述べておられます。
巻末には、難しそうな本が、参考文献としてたくさん並んでいる。

広く本を読んでいる人が、事典と名のつく本を出して、金をとっているのだから、間違った記述やいいかげんな図を並べているわけがないだろう、なにか根拠があってやってることかもしれない、まずはそう考えて、謙虚に勉強させていただくという所から出発しなければならない。

慢心せずに、見聞きするすべてのものから学ぶべきところは学ぶというふうにやっていくのが武術であるし、これは綺麗事ではなくて、そういう態度でいないと、珍しい情報を取り逃がしたりして、こっちが損をするからです。

 

 間違いが、ないわけがない

どんな偉い人が書いても、完璧に思える本でも、よく探せば、あるいは時間がたてば、なにかひとつくらいは間違いがあるものです。
たとえば胴丸と腹巻、小柄と小がたな、十束剣と猿車、玄信と政名のように、世の中のほとんどの本が大間違いをやらかしてることは、よくあります。

もし、デタラメな記述や図があったとしても、もしかしたら、その部分だけが間違っているだけで、他のページは正しいのかもしれない。

著者が間違えていなくても、編集や印刷の段階で間違えることもある。

間違いが皆無でも、言葉足らずで誤解を生みやすい箇所はあるし、筆者は充分に説明してるつもりでも、読者が勝手に誤解することもある。
文章の一部分をなにかに引用されて、ぜんぜん違う意味に使われることもある。

上級者にとっては正しいことでも、初心者にとっては間違いとか、こっちの流派では正しくても、むこうの流派では間違いというようなこともある。

 

結局これらは、「情報」というものの根本的な問題です。
インターネットなんかよけいにそうですが、信じすぎても疑いすぎても、何もできなくなる。

 続く→ 

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