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 Truth In Fantasy 編集部編 『武器屋』
 (市川定春氏『武器事典』が、参考文献にした本のひとつ、1991年)

「日本の兜(15世紀頃)」として載っている図が…。
錣が中央でまっぷたつに分かれて、後頭部がガラ空きになっている。菱縫がない。かすかに阿古陀になっているが、15世紀にしては早乙女風の小鉢。天辺座が金具でふさがっている。筋が不規則。眉庇は不思議な角度で、通常の3倍くらいの厚みがある。鍬形は猪目ではなく切り欠き。

この本の巻末に、参考文献として、笹間良彦氏の『図録日本の甲冑武具事典』があげてあるから、もし「重文赤絲威肩白鎧(出雲大社所蔵)」の写真を手本にして、兜を知らない人または注意力散漫な人が描いたとすれば、こういう絵になることもあるかなと思うが、しかし赤絲威肩白鎧の兜は江戸時代の作であり、15世紀ではない。

「日本の長柄足軽」として載っている図が、揺糸が短く、草摺がスキマだらけ、肩上がなく、篭手に手覆があり、脛巾らしきものに「すねあて」と説明がついているからウブの包金が入ってるらしい。
これまた、『図録日本の甲冑武具事典』252〜253ページを転載しようとして失敗したような図だが、内容が全然違うので、なにか他の参考文献からの情報と折衷して描いているのかもしれない。

弓兵の図も、草摺、肩上、手覆が同様。

日本において、鉄砲の普及によって長柄槍は第一線から退き、鉄砲や弓の援護武器になったとある。
西洋ではそうかもしれないが、日本の場合、3間半や4間が鉄砲の普及と同時期に爆発的に流行していることや、緒戦で鉄砲や弓で崩してから槍足軽が団体で力押しする「長柄の槍の場」「一の手の稼合」に矛盾する。

火砲を主力にする合伝流兵法では、『天正以前の戦法は、鎗を入るゝきをひのために鉄砲を用るなり。故に鉄砲は鎗の介けに用るなり』として、秀吉公の天下統一ごろまでは鉄砲が槍の援護武器だったとしており、鉄砲の効果的な運用が詳しく行き届いたのは戦国時代も終わりのほう、『朝鮮陣よりこのかたにて、大坂・嶋原の役盛んに用たるに近しと云ふべし』と述べている(『合伝武学先伝巻聞書』)。

馬具はどれも大幅な省略で描かれ、西周の戦車には軛や腹帯がない。

鎖鎌が、鎬の剣鎌で、大工道具のような柄がついており、鎖は柄尻につけて掟環がなく、スルジン分銅しかも通常の3倍くらい肉厚。
これまた、『図録日本の甲冑武具事典』410ページにある鎖鎌の写真を、勝手に変更したように見えるが、ここまで違うということは、何か別の資料に拠っているのかもしれない。

忍者刀の、栗形と下緒と結び方が、たいへん珍しい形になっている。

忍者が太い剛刀を右に背負っている。

「すばやい攻撃ができる」短剣の握り方として載っている図が、なぜかサーベルグリップにおいて最もいけないベタ握りになっている。

忍者が暗殺者の項目に分類されているが、忍者が暗殺をおこなった歴史的証拠の提示がない。
証拠を残さないから忍者なのかもしれないが…。

津川流や圓明流や根岸流などの手裏剣が、忍者の項目の中にあり、「毒を塗って相手を殺すこともあります」とある。

手裏剣の持ち方として説明されている図が、最悪の持ち方(目標より下に外れてしまう持ち方や、飛距離が延びない持ち方、特に和田派でタブーになっている人差指や親指)になっている。
「流派によってさまざま」と書いてあるが、こういう握り方をするのがどこの流派なのかは明記されていない。
名和先生の『図解隠し武器百科』を見て描いたのだとすれば、この持ち方では自分の手を切ってしまうということを名和先生も警告なさっているということを書き添えたほうがよいのではないか。

現代になってから染谷先生が発明なさった掌剣(しかも完成前の試作品、木製グリップのやつ)が、忍者の項目の中にあり、「本当に忍者はいろいろな武器を持っています」とある。

 

 続く→ 

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