深沙神の姿は、あまりにも異形 仏教では、どの神仏はどんな姿をしているか、どんな道具を手にしているか、一応の設定があります。 深沙神は、仏教のほうではどうなっているかというと、かなり不思議な格好をしている。 1 頭蓋骨をいくつもつないでネックレスにしている 2 異国人に見える 3 手足の爪が鋭く尖っており、口には牙もある 4 手には鉢、戟、青蛇などを持っているか、なにも持っていないこともある 5 腹に、子どもの顔がある 6 甲冑を着ていない
原作もだいたい同様 ここで原作に戻って、沙悟浄の見た目を引用しときます。 『一頭の紅■(焔の右側に炎)、髪は蓬鬆、両隻の円き睛は亮きこと燈に似、黒からず青からず藍■(青の月じゃなくて円のやつに定)の臉、雷のごとく皷のごとき老竜の声。身には一領の鵝黄の■(敞に毛)を披ぎ、腰には双■(攅の夫が先のやつ)の露白の藤を束ぬ。項の下の■(骨に古)髏は九個を懸け、手には宝杖を持ちはなはだ崢■(山に榮)し。』 変換できない難字ばっかりで、まどろっこしくてすみません。 こっちでは赤い肌ではないようですが、なんにしても、あんまり文明人っぽくないですね。
ドクロのネックレス 『西遊記』では、悟浄は人を食べては骨を川に捨てていた、この川は何でも沈んでしまう特殊な川だが、お経を取りに行く僧侶の骨だけは沈まないので、珍しいからとっておいた、という説明になっている。 もちろん悟浄はその川の中にいたんだし、悟空や八戒だったら水を分ける術があるから深海にだって入っていけるし、なんなら飛行したっていいんですが、そこは取経の旅だから、三蔵が生身の体で普通に人間の旅をしないと、お経の価値にも、物語にもならないわけで。 この、渡れない川というピンチは、ドクロのネックレスが船になることで、無事に渡るわけです。 結局は神がかった力に助けられるのかよ、なんだ、人間としての自力じゃないじゃん、だったら最初っからすんなり助けてやれよ神仏のくせに、という感じですが、劇中では、災難にあって苦労を重ねることが、ひとつひとつカルマ落としというか、ちゃんと意味があるという、「設定」なんで、娯楽小説ですから、しょうがありません。 この川は、弱水といって、比重の軽い水だという。 たとえば死海のような濃い塩水だと、浮力が大きいですよね。 純度の高い水ならば、軽いから、何でもかんでも沈む… オカルトのほうでは、こういう軽い水を飲んでいた地域では誰もが長生きだったという話があり、怪しい健康食品会社が純度の高い水を通販で売っては、あらゆる病気がなおる、細胞が活性化されて自然治癒力が増すなどと、よく言います。 日本には、税金を流用しても違法にならないという、魔法のように都合のいい水、「ナントカ還元水」というのが実在していて、適切であると内閣総理大臣も公式に認めてるくらいだから、まったく油断がならない。 後日談。
もしかして、『西遊記』でドクロを身に付けていたから、仏教のほうでもそういう姿にしたんじゃないか?と思うかもしれませんが、それはないと思いますね。
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