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 毘沙門天の武器

沙悟浄が毘沙門天である以上、毘沙門天の持ち物もチェックしておかなければなりません。

まずは塔。
というか、中国甲冑を着た神仏はものすごくたくさんいて、誰が誰だかよくわからないことも多いが、片手に塔さえ乗っけていれば毘沙門天と見なしてよいというくらい、これが一番大きな特徴です。

出典不明の聞きかじった話ですが、もともとの神話では毘沙門天は三男に命を狙われていて、そいつが下手すると父よりも強いので、仏舎利塔を持っていれば、まさか御釈迦様の遺骨に刃を向けるわけにもいかないだろうっていうことらしいんですね。
こういう感覚であれば、沙悟浄の杖が沙羅双樹なわけはないと思うんです。

『西遊記』では、李天王の三男は生後3日めに大暴れをやったので、末恐ろしくなった李天王が殺そうとしたところ、この子は激怒して、刀でわが身をえぐり、肉を母に骨を父に返して、霊魂だけで極楽へ行って、如来に蓮の根と葉で体を再生してもらった、そして父への復讐をたくらむので、如来は、各層に如来像をはめこんだ如意黄金宝塔というのを李天王に与え、三男には、そんなに父がイヤならば代わりにこの塔を父と思って敬うようにと諭した、というような具合になってます。

毘沙門天の場合、塔は右手だったり左手だったりする。
これは寺や博物館や骨董屋やアジアンショップなんかで見てもまちまち、経典上でもまちまちです。

それで、もう一方の手で武器などを持つ。

たいてい三叉戟。
仏教美術でも戟と鉾は区別しますが、省略した表現だったりして、それ描いたり彫ったりした人が武器をわかってて区別してやってるかどうかはハッキリしないことが多い。
とにかく三つマタになってるホコで、正しくは、引いてひっかけても斬れるタイプで、トライデントフォークや叉じゃないやつです。

宝棒の場合もある。後述します。

珍しい例では、■(矛へんに肖。さく。馬上ホコ)、剣、金剛杵などを持つか、片手は手ぶらの場合もある。
中国では、宝塔を持たずに傘を持ってることも多いらしい。

なんにしても、沙悟浄の杖(月の木うんぬん)とも禅杖とも全然違う

 

 宝棒と宝杖は同じものか?

ここでもうひとつ、面倒な問題があります。
宝棒と宝杖は同じものかもしれないという疑惑です。

平凡社版『西遊記』の注にあった、李天王が持つ「宝棒」っていうのは、短い棍棒です。
李天王が宝棒を持っている、毘沙門天が宝棒を持っている、毘沙門天が宝杖を持っている、深沙神が宝杖を持っている、沙悟浄が宝杖を持っている、というふうにこじつけてしまえるので、いよいよ毘沙門天と沙悟浄が同一人物になってしまう。

前述の『ものと人間の文化史88 杖』に、こんなことが書いてあります。
『 さらに一例として、私が子供の頃から日々仰ぎ見てきた伊勢の朝熊山、岳さんとよばれる標高五五五メートルの山上にある金剛証寺の国の重要文化財、雨宝童子立像の持つ棒のような杖のようなもので考察してみよう。
 雨宝童子とは、両部神道で天照大神が日向に下生したお姿をいう。平安後期作の木造で寺伝では、伊勢の内宮の鬼門を守る寺として空海がこの山で修行中に、天照大神の十六歳のお姿を感得して刻んだとする檜の一木造。唐服で頭上に五輪塔をいただき、左手に宝珠、右手に杖とも剣とも棒ともいえるものを持つ。これは金剛棒とか金剛宝棒といわれる。金剛とは最も堅いもの、金剛石や武器の金剛杵のように一切の物に破られない迷わないものをいう。
 たしかに雨宝童子の手にされるものは棒状である。だがこれを杖と見られないだろうか。金剛杖というのもある。
 後ほど記しますが、日本の神は巡幸、つまり旅をされた。杖を持たれる神像があっても不思議ではない。しかしよく見ると、これは手に握るところが細く、石突きといわれる下部が丸形で太い。これが反対だと杖と見てよいのだが、どうも杖とするにはむつかしいと思っていた。ところが近年写された上の写真で拝すると、なんと上下が逆転している。持たせ方が反対だったのか。まあこのように棒と杖の区別、意外に困難です。』

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たまたま友人の実家が両部神道の神社なんで、確認とりました。
宗教の秘儀に関することなので根拠はここに書けませんが、宝棒はかなり杖に近い、同じものと考えてよいということでした。
マズイ。これはマズイですよ。

 

 宝杖と宝棒は同じものではない!

俺も密教を使う者のはしくれですから言いますが、密教の世界観でやってる神道と、大乗仏教の世界観でやってる道教は、決してごっちゃにしてはいけないと思いますね。

純粋な仏教で言うところの宝棒は、棍棒です。

        鍔
    柄                         □□
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 ここを片手で握る    毘沙門天が持つのはコレです

 

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 両端が玉になっている  このタイプは菩薩が握っていたりする

 ほかに、シノギを立てた細いダイヤ形もあり、両端とがっているか玉になっている
 このタイプは仁王がかかえていたり、龍が巻き付いていたりする

 

短い。せいぜい上半身くらいの長さしかない。
メイスや簡に近い。
よく王様や女王様が権力の象徴として持つ棍棒に近い。

結論は保留しておきますが、ひとまず叩き台として、宝棒は杖ではないという仮説で、毘沙門天の話を進めます。

 

 続く→ 

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