毘沙門天に関する矛盾 これ、どう御説明していいやら、俺のつたない文章力では、読んでくださる方も面倒でしょうが、俺も書くのが面倒だなあと今、思ってます。 まず、四天王という、四方を守る方位神がある。 東に持国天王、南に増長天王、西に広目天王、北に多聞天王。 この多聞天王だけは単体でも崇拝されることがあり、毘沙門天王ともいう。 どちらかといえば、四天王のひとりとして扱う時は多聞天と言い、それ以外のときは毘沙門天と呼ばれてます。 奥さんと、子どもさんのうちのひとりを両脇に配して、三尊像になることもある。 ソロでも3でも4でも7でも12でも16でも18でも28でもユニット活動という、ハロプロみたいに忙しいことになってるわけで、これをひとりでやってて体が持つのか?というのは冗談ではないので、後述します。 『西遊記』の劇中ではどうかというと、四天王は、武神としてかなり大物として位置付けられているようです。 悟空は、自分をつかまえに来た二郎真君に、こう言っている。 悟空が護送される時も、四天王は、天軍の筆頭みたいな扱い。 ところが!
沙悟浄は毘沙門天 神学のほうに「天使も神か?」という議論があります。 一神教といっても、たとえばイスラム教では偉大さをあらわすために神を複数形で言ったり、旧約聖書の神も一度だけ御自分のことを「われわれ」とおっしゃったことがあったりするんですけど。 俺みたいに宗教を手段のひとつとしか考えていない無神論者からすると、神仏ってのは、いるとすれば自分の内面にいるんで、居場所の設定なんてちゃんちゃらおかしくってやってられないんですが、一応、気功をやってみると、清浄で巨大な気が停滞していたり、上空とつながっていたり、通路のターミナルになってる場所というのは、だいたい古くからの寺社とか霊山なんで、これを神仏と呼ぶ人がいるんだったら、まあ、それはそれでいいか、というくらいです。 昔なにかのミュージカルで、口を開けば「神です、神がそうなさったのです、神がそう望んだのです」などというセリフばっかり言うのがあって、俺の仲間内でマネするのが大流行しましたが、神がやったと言えば、何でも説明がついてしまうし、それは同時に、なんら説明になっていない。 仏教の世界観では、六道といって6つの世界があり、天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界、この6つのどれかに生まれては死ぬということを繰り返していることになってます。 『西遊記』の中では、特にそう。 化身だろうが変装だろうが、四天王のひとりが三蔵法師につきっきりでお供をしたり、人間界に落っこちて妖怪やってるなんてのは…。 このへんは、宗教のほうでも設定があいまいになってるみたいです。
実際のところ、毘沙門天はたくさんいるんです。
|
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||