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 毘沙門天に関する矛盾

これ、どう御説明していいやら、俺のつたない文章力では、読んでくださる方も面倒でしょうが、俺も書くのが面倒だなあと今、思ってます。
御存知の所は飛ばしつつお読みください。

まず、四天王という、四方を守る方位神がある。
四大天王ともいい、『西遊記』劇中では、こっちの言い方が使われてます。

東に持国天王、南に増長天王、西に広目天王、北に多聞天王。

この多聞天王だけは単体でも崇拝されることがあり、毘沙門天王ともいう。
インド名を、発音に合わせて漢字を当てれば毘沙門、意味で訳せば多聞なので、全く同じものです。

どちらかといえば、四天王のひとりとして扱う時は多聞天と言い、それ以外のときは毘沙門天と呼ばれてます。

奥さんと、子どもさんのうちのひとりを両脇に配して、三尊像になることもある。
日本では七福神の一員でもある。
密教ではあんまり四天王と言わず、八方位と上下日月に守護神がいて「十二天」を構成しているんですが、これも東西南北は四天王がそのままやっている。
前述の「十六善神(十八善神)」も、四天王だけは確実にメンバーに入ってることがわかっているんですが、多聞天はこの時は吠室羅摩拏善神という名前になる。
二十八部衆の一員でもある。

ソロでも3でも4でも7でも12でも16でも18でも28でもユニット活動という、ハロプロみたいに忙しいことになってるわけで、これをひとりでやってて体が持つのか?というのは冗談ではないので、後述します。

『西遊記』の劇中ではどうかというと、四天王は、武神としてかなり大物として位置付けられているようです。
実際の実力では悟空のほうがはるかに強いんですけど、四天王は、身分というか格式が高い。

悟空は、自分をつかまえに来た二郎真君に、こう言っている。
「おぬしはまだ小せがれだ。手合わせはしないから、とっとと帰って、四大天王を呼んでおいで」

悟空が護送される時も、四天王は、天軍の筆頭みたいな扱い。
ほどなく通明殿の前に到着すると、天師が奏上する。
「四大天王ら、妖猿斉天大聖を捕縛して参内、御意を拝しておりまする」

ところが!
仏教の教義では、
深沙神は、多聞天の化身ということになっているんです。

 

 沙悟浄は毘沙門天

神学のほうに「天使も神か?」という議論があります。
天使が、あらゆる時間と空間にあまねく満ちていて、なにもかもお見通しで、いつでもどこでも同時に存在しているのであれば、そういう存在はまるっきり神様ではないか、キリスト教の神様はひとりだけってことになってるのに、まずいなあ、と。

一神教といっても、たとえばイスラム教では偉大さをあらわすために神を複数形で言ったり、旧約聖書の神も一度だけ御自分のことを「われわれ」とおっしゃったことがあったりするんですけど。

俺みたいに宗教を手段のひとつとしか考えていない無神論者からすると、神仏ってのは、いるとすれば自分の内面にいるんで、居場所の設定なんてちゃんちゃらおかしくってやってられないんですが、一応、気功をやってみると、清浄で巨大な気が停滞していたり、上空とつながっていたり、通路のターミナルになってる場所というのは、だいたい古くからの寺社とか霊山なんで、これを神仏と呼ぶ人がいるんだったら、まあ、それはそれでいいか、というくらいです。

昔なにかのミュージカルで、口を開けば「神です、神がそうなさったのです、神がそう望んだのです」などというセリフばっかり言うのがあって、俺の仲間内でマネするのが大流行しましたが、神がやったと言えば、何でも説明がついてしまうし、それは同時に、なんら説明になっていない。
そういう全智全能の、宇宙そのものというような、絶対的な創造神みたいな存在は、そのままでは抽象的すぎて、宗教といえど扱いにくいんじゃないかと思うし、多神教にそんなのがいたら、他の神仏が存在してる意味が薄くなっちゃうでしょう。

仏教の世界観では、六道といって6つの世界があり、天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界、この6つのどれかに生まれては死ぬということを繰り返していることになってます。
天界に生まれて天使や天女みたいなことやっていても、寿命がめちゃくちゃ長くて超能力が使えるというだけで、いずれは老いて死ぬ。
どこの神話でも、しばしば神様が死ぬ話がありますよね。
如来(仏)にならないと、神様といえども輪廻していて、そこから解脱(超越)するのが仏教なんです、一応は。
仏教でなになに菩薩とかなになに天と呼ばれてるようなのは、人間なんぞから見ればほとんど仏に近い能力をお持ちではあるが、まだ絶対的な存在ではない。

『西遊記』の中では、特にそう。
後述しますが、沙悟浄たちは死ぬこともありうる。
劇中では、如来さえも出歩いたりするし、玉帝も部下からいちいち報告を受けないと全部をお見通しってわけでもない。
用がある時はどちらかが出向いていって、事情をかくかくしかじかと説明し、連れてきたりしなければならないし、2体以上必要であれば、分身の術を使わなければならない。

化身だろうが変装だろうが、四天王のひとりが三蔵法師につきっきりでお供をしたり、人間界に落っこちて妖怪やってるなんてのは…。
しかし、
「沙悟浄は毘沙門天と同体」ということは、ちゃんと説明がつくんです。
この御都合主義の理不尽さが、仏教の奥深いところなんで(笑) いや、冗談ではありませんよ。
これを御説明しておかないと、武器の話にならないんで、先にやります。

このへんは、宗教のほうでも設定があいまいになってるみたいです。
御魂を分けていただいて、分社や偶像を作りはしますが、それは端末であり、本体は浄土とか天界におられる。
でも日本の神様も、出雲へ行って留守になったりしますね。

 

実際のところ、毘沙門天はたくさんいるんです。

 続く→ 

 

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