砂漠で「神」に出会う? 大自然の中にいると、神(と呼ばれているであろうもの。巨大な意志のようなもの)に出くわすことはあるんです。 凛とした清浄な杉林の中では、天狗(と呼ばれているであろう存在感)が、たしかにそこにいるのを感じる(ような気がする)。 高い山に登れば、なにやら自分は生まれる前から巨大な仕組の中にいて、今も自分は愛されて生かされていて、つまり自分は最初からそれと一体であるから、自分が望めば自分の意志でそれを動かすこともできるが、動かしたところで本質的には何も変わらないし、誰の利害ということもない(全体でひとかたまりなので、我という観測主体がないから)ということもわかる。 それでも俺が無神論者なのは、あんまりそういう方へ行くとキチガ○の分野になってしまって、普通の社会人としての生活ができなくなりそうだし、完全に融合してしまったら自分というものがなくなってしまうから、普段は世俗にいて人間くさい汚れの中で、俺が俺がと言ってるほうがいいと思ってるんです。 そもそも、われわれが普段イメージしてる神ってのとは、だいぶ違うような気もするんですよね、もっと抽象的だ。 人生を有意義に過ごしていく動機や基準になるんだったら、なにを神と呼んで敬愛してもかまわないし、人様が信仰することは人様の勝手だけれども。 とにかく、だだっ広い場所にいて、どこまで行っても一人で、頭上には満天の星なんていうと、少なくともロマンチックな気分ではあるだろうし、疲れていて飲まず食わずだったら幻覚も見るだろうし、もしかして自分はこのまま人知れず死んでしまうのかって弱気にもなるだろうし、なにしろほかにやることもないから考える時間だけはたっぷりあるんで、人生をいろいろ考えもするだろうし、もし神というものが実在するとすれば、旅人が死にかけていたら、そういう時こそ出番なんだからサボってないで出てくるに違いないんで、砂漠を旅してて神のようなものに出会うということは、よくあることだと思うんです。 それはいいんだけど、それがどうして沙悟浄(のような姿かたちのキャラクター)だったのか?ってことのほうが、よっぽど興味深いことです。
大流沙 水谷真成氏の訳注で、『大唐西域記』平凡社1971年があります。 『大唐西域記』は、三蔵法師が見聞きした外国の様子を、みずから書き記したもの。 インドの北と北東には、あのヒマラヤがあって、富士山の倍くらいに高い山が、それこそ山のように並んでますから、山脈を迂回したほうが、急がば回れではある。 ということは、タクラマカン(「生きて帰れない」の意。直訳すれば「無限の死」)と名付けられた大砂漠の近くを、行きも帰りも通ることになる。 『大唐西域記』巻第十二、帰り道ですが、こういう記述があります。 『二二・一四 大流沙 これ(尼攘城)より東行して大流沙に入る。砂は流れただよい、集まるも散るも風のままで、人は通っても足跡は残らずそのまま道に迷ってしまうものが多い。四方見渡す限り茫々として、目指す方を知るよしもない。かくて往来するには、遺骸を集めて目印とするのである。水草は乏しく熱風は頻繁に起こる。風が吹き始めると人畜共に目がくらみ迷い病気となり、時には歌声を聞いたり或いは泣き叫ぶ声を聞き、聴きとれている間に何所に来たのかも分からなくなる。このようにしてしばしば命をなくしてしまうものがあるのも、つまりは化物の仕業である。』 ここに訳者の注が付いてます。 『一 流沙を渡る困難な状況は近代に至るまで数多く伝えられているが、中にも『法顕伝』の「沙河中には多く悪鬼・熱風有り、遇えば則ち皆死し、一として全き者無し。上に飛鳥無く、下に走獣無し。遍く望み目を極め、度る処を求めんと欲するも、則ち擬する所を知る莫し。唯死人の枯骨を以て標識と為すのみ」の文は古来有名である。』 こういう状況であれば、神様だか悪魔だか知りませんが、幻覚やら幻聴やらは、あるでしょう、死にかけてるんだから。 そして、沙悟浄がドクロの首飾りをしているというのは、やっぱり、このへんに由来することなんでしょうね。
ちょっとそこまで 『大唐西域記』は、三蔵法師の旅が、簡単に行ってこれたように書いてあるんです。 序では、 祓では、 冒険とか探検とかいうものは、まあたいしたことなかった、みなさんのおかげでラクでした、と言うものなんです。 俺が植村直己さんの著書を最初に読んだのは小学生の時でしたが、そりゃあもう、簡単そうに書いてあるんです。 しかも、三蔵法師の場合、膨大な仏典を持ち帰ってからが大変で、プロジェクトチームを作って翻訳をやるので、これは国家事業として助成してほしい。 また、この時の唐の皇帝は、最高の名君と言われている太宗なもんだから、この時代の善政のことは誇張されまくっているので、あんまりうのみにできない。 実際は、西には遊牧民族の突厥がウジャウジャいて、これが、中国に服属してるようでいて、スキあらば、ちょくちょく攻めて来る。 中国が大嫌いで、中国に戦争をしかけたい人たちが、こーんなにたくさんいます! 警戒したほうがいいです! なんてことは、たとえ三蔵法師がそう報告したとしても、中国の国内で流通する本に載せたら、王朝の権威に傷がつくでしょう。
なぜ、砂漠ではなく川になったか 三蔵法師も、そんなに西へ遠回りしなくても、すぐ南下すれば近道だったものを、そうしなかった理由のひとつは、突厥の可汗(中国で言えば皇帝)に挨拶して話をつけておくことによって、身の安全を確保するためだったのだろうなあということを、水谷真成氏が注に書いておられる。 じつは新疆ウイグル自治区では、今でも独立運動はあります。 太宗は、軍事的な理由から、西域の情報が欲しいので、地誌を書くよう三蔵法師に命じ、帰国の翌年に提出されたのが『大唐西域記』。 東洋文庫版『大唐西域記』には、中野美代子氏の解説がついており、現存する『大唐西域記』は原本ではないという桑山正進氏の説を支持し、軍事機密だから国境付近の戦略的重要地点のことは削除しちゃったんじゃないかという意味のことを述べておられます。 そういう本なので、『大唐西域記』とは言ってもインドの話が多く、途中の行程のことは、結構ハショッてある。 中国は、兵法の研究には古くから熱心なので、地の利をうまく使えば勝てない戦争も勝てるということを熟知してる。 それこそ河童の妖怪の話になっちゃってるくらいのほうが、出版しやすかったのかも。
それで結局、武器は・・・ もし沙悟浄が、砂漠に住む妖怪みたいなものだったとすれば、スコップは重宝するはず。 三日月も砂漠に似合ってるかなとは思いますが、それってかなりイスラームのイメージっぽいですね。
ネタが尽きてまいりました(笑)
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