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武道に限っては、努力や挫折が重要です。負けないと強くならない。どれだけ苦労したか、死にそうになったか、修羅場をくぐって経験を積み、死なずに残った人が強いわけです。最初から強いということは絶対ありえない。 ところが弓道なんかでは、当たっても当たらなくても顔色を変えない。それが目的ではないからです。いや一応は目標として設定してるんだけど、それを目指す過程で得られる精神的なものが目的で、結果は神様次第。 そして、武道の本当の才能は、才能がないことです。まっさらで、からっぽだからこそ、自由に染めたり、たくさん積み込んだりできる。 「大強速軽」は、大きく動くことで動作の正確さやまっすぐな心や柔軟な体を得て、次に威力を増すための体力と気力を身につけ、さらに技に慣れてムダをなくして円熟し迷いのない判断力で動作を速くすることをおぼえ、最終的には技の冴えで重要なところだけヒョイと押さえて勝つから筋力や速さを必要としない状態に至るという、修行の順番を説く教えです。 この言葉は「才能がなくてどんくさい不器用な奴のほうが最終的には達人になる」という意味でも使われます。これはなぐさめでも御世辞でもなんでもなくて、まったくの事実です。武道は人間形成、人格を完成させる道だからです。 つまり、初心者のうちは緊張したり、がんばろうとしすぎて硬くなっていて、ムダな力を使って、ムダに疲れる。それでいい。そのほうがいいです。そうしろと言われなくても、自然にそうなるけど。 簡単にうまくいくコツなんか、最初から教わらないほうがいい。みんなそういうのを欲しがるけど、頃合をみて、段階ごとに、奥義として少しずつ教わるわけです。これはケチとは違う。 苦しくつらい練習を、イヤでイヤでしょうがないことを、バカにされ恥をかいて我慢してやってる人と、練習が楽しい人、つまり得意なジャンルをやってて、俺ってうまいなあと自信満々で実際うまい人とでは、同じ量の練習をやっていても精神が鍛えられた量が全然違う。 勘のいい器用な人はすぐコツをつかむから、あまりムダな努力をしないですむ。がんばらなくても上達してしまう。それはスマートで効率がいいように見えるけど、慢心を生み、まあこんなもんか、とすべてを知ったつもりになって、じつはまだ入口なのに、そこで努力をやめてしまう。というか、努力するのはダサイと考えがちで、いかにラクをするか、安易なことばかりやる。あるいは、早め早めに基礎を卒業して、どんどん応用を重ねていってしまう。土台の基礎が狭いから、上に重ねて建てられる応用も少なくて、結局はスランプになるわけです。そういう人は、そこそこの中堅にはなるけど、最高指導者とか名選手にはなれない。 |
下手な人は、どうせ下手なんだから、今さら守るプライドもなくて恥をかくことを恐れないし、挫折なんか痛くもかゆくもなくなってくる。 物事は順調にいかないことのほうが多いんだから、そういう貫禄というか腹を作っておかないと、打たれ弱い、温室育ちみたいな人になってしまう。このへんを鍛えるのが武術の本質です。 基礎がいいかげんなまま、年功序列で指導者になってしまった人もいっぱいいます。本人は気付いていないのだから始末が悪い。気付いても、今さら初心者と一緒に基礎練習をやりなおすなんて格好悪くて、人知れず影でやらなければならない。もはや誰にも指導してもらえない。 そういうのは初心者たちも、シロートなりにちゃーんと見抜いていて、自分が使えない技を俺たちにやれというのか、なーんて陰口をたたかれる。 じゃあ、花形満みたいに生まれつき力がある人が、ライバルに負けたりして発奮し、血のにじむような努力をしたら、両方のいいとこ取りか、天才が努力したら凡人の努力家には勝てないかというと、決してそんなことはないです。 松坂投手が一時期スランプのとき、焼肉を我慢して今後は鳥肉だけにするとか、科学的な筋トレを始めたとかいうのがニュースになったけれども、そんなのスポーツ選手ならアマチュアでさえみんなやってて当たり前。何を今さら、遅すぎるくらいだ、今までやってなかったのかよ、だから勝てないんだ、というくらいに批判されてますね。そんなことがニュースになるようじゃ。 ※後日談。松坂投手、日本を代表する名投手になりました。やはり陰で努力なさってるに違いない。 努力すれば上達するのは誰でもわかりきっている。「努力できる」ということこそ才能です。努力しようと思ってもできない人もいる。環境が許さないか、努力しないでできちゃうから。 これはたぶん、芸術も質のレベルでは関係してくるはずです。 |
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