もどる← 

ソ連のパラサイトプレーン

 

 ズヴェノー計画

プロパガンダに都合よかったのかもしれませんが、ソ連は、この分野にものすごく力を入れていた。

ソ連ではズヴェノーと言いました(ツベノと書いている本もある)。連結、接続の意。
一説には飛行小隊の意。ソ連では3〜4機の編隊のこともZvenoというらしい。

ウラヂーミル・スィルギェーイェヴィチ・ヴァフミストローフさんが中心になっておこなれた。
ヴァクミストロフなどと表記されることもある。

この運用のことはバンバルヂローフシチク・アヴィアノースィェツ(爆撃機航空母艦)などと呼ばれていて、爆撃機が護衛戦闘機を持ち歩くというより、「小型爆撃機と、空中空母」という性格だったようです。

ヴァフミストローフのサーカス、とも言われていたというんですが、これはもしかするとソ連側が自分でそう呼んだのではないかと思います。
戦闘機が速度よりも小回りで戦っていた第一次世界大戦時に、優秀な撃墜王たちのグループを、「だれだれサーカス」と呼ぶということが、英仏などではよくあったらしいので。

 

 ズヴェノー1
トゥーパリェフTB-1の主翼左右に1機ずつI-4を載せたもの。
TB-1は「M-17」2発、巡航で時速150キロくらいの爆撃機。コクピット吹きさらし。
その主翼後縁へ地上から櫓で坂道を作って、I-4を手で押し上げて固定、離陸の時はI-4もプロペラを回す。31年12月、高度3000メートルで分離に成功。
再接続はできない。とにかく飛行機は離陸の時が最も力が必要で燃料も食うので、みんなで力を出せば節約できる、たくさん爆弾を積んで遠くまで行ける、ということが、まずは目的だったらしい。
親子3機まとめて全体をZ-1と呼ぶ、という説もあるが、そしたらズヴェノー2はZ-2?、ズヴェノー3はZ-3?、以下同様?
ズヴェノー7の親子3機セットを、Z-7と書いている本はある。

 ズヴェノー1A
33年9月、子機をI-5にする。
I-4やI-5は、とても軽かったのと、このころI-15が完成したので、主力戦闘機の座を譲って実験に回されたわけで。

 ズヴェノー2
34年8月、母機をもっと大型で4発のTB-3に変更、I-5を3機に増やす。
1機は胴体上に積んだが、写真で見ると、中央の1機だけタウネンドリングがないようで、なんか仕様が違うのかも。

 ズヴェノー3
34年ごろ? I-Zを主翼下に2機。
空中接触で子機のパイロットが死亡。
この時は、母機はTB-2だったともいう。
TB-1の後継機はTB-3だが、トゥーパリェフさんはTB-2という飛行機も作っているとか、TB-2はパリカールパフ設計局の作で、双発、時代遅れの複葉なので開発中止になった試作機だともいう。

 (ズヴェノー4?)
不明。あるいは4はなかったのかも。

 ズヴェノー5
35年4月、折り畳み回収アームを胴体下に設置。回収実験。
母機は、写真で見る限りでは4発だからTB-3らしい。
アームは出し入れできても、主脚は出しっぱなしだから、その下にドッキングするのはなかなか大変そう。

 ズヴェノー6
35年8月、母機はエンジンを「M-34」に強化したTB-3、子機は主翼下にI-16を2機。
このI-16はType5、一説にはType4もあったという。
支柱でガッチリ吊るしているのだが、駐機中には子機も引込脚を出している写真もあり、これで再接続できたとしても親子くっついたまま著陸できるのかどうか、支柱にサスペンションでもあるのか。
母機は4発でも、接続してる時は、子機が母機から燃料をもらってエンジンを回し、なんちゃって6発として飛んでいたとする資料もある。TB-1の時すでに空中給油を実験していたから、接続してるんなら簡単にできそうではあるが(空中給油できるなら、そもそも寄生は必要ないのだが)。

ズヴェノー計画というと、この第6期のことをさしていることがあり、ズヴェノー1〜SPB全部や、SPBだけを、「ズヴェノー6」と呼んでいる資料もあるが、根拠不明。
この時すでにI-16SPBだったという説もあるが、I-16SPBの初飛行は2年後の夏。

 

 ズヴェノー7
TB-3の主翼の左右上下と、胴体下に各1機、合計5機つけて飛ばすもの。
外人さんの書いた本には、子機が全部I-16SPBだと述べているものもあるが、信じがたい。
写真で見る限り、翼上の2機が複葉固定脚、翼下の2機が単葉引込脚、胴体下が単葉固定脚であり、それぞれI-5、I-16、I-Zのようです。
I-Zは空中合体もするという。
ズヴェノー7を、「アヴィアマートカPVO」と呼ぶ人もいる。
アヴィアマートカは、飛ぶ子宮、航空母艦みたいな意味。UGMのスペースマミーだなあ、古くてすみません。
PVOは防空軍の意。

 ズヴェノーSPB
子機は主翼下に2機。I-16Type5を改修した急降下爆撃仕様I-16SPB。自力では離陸できないほど過積載(両翼に250キロ爆弾を各1、胴体内に燃料タンクを92リットル増設)。
これでようやく実用になったらしい。
TB-3を6機ほど、コレ専用の母機として配備したが、この母機自体も、ズヴェノー計画全体も、ズヴェノー計画による実戦配備も、アヴィアマートカと呼ばれているようで、どうも定義がハッキリしない。
急降下爆撃仕様のI-16を2機、TB-3に積んだ状態の、全体の名前が、SPBだと書いている本もある。

一説には、このあとも続きが予定されていて、別の飛行機でやることも検討されてたようですが、実行されませんでした。

 

 使い物になったのか

TB-3×6機、I-16SPB×12機からなる実戦部隊が組織され、黒海北岸クリミア半島の西、イェウバトーリア基地に置かれた。
イェフバトリア、イェフパトリヤと
いう表記になってることもある。

41年7月26日、黒海沿岸の北ドブロジャ地方コンスタンツァ県に、ルーマニア最大の港コンスタンツァがあり、石油の備蓄と精製の施設があって、これを2組(母機2、子機4)で爆撃、石油タンクを破壊したという。
1か月ほど前に独ソ戦が始まってました。
ルーマニアは枢軸国側で、ドイツはルーマニア産の石油に依存していた。
戦争末期にドイツの旗色が悪くなって、ルーマニアは連合国側に寝返る。
寝返ったって、スターリンとチャーチルは儲けの取り分をとっくに打ち合わせてあり、ルーマニアは戦後またソ連に土地を持っていかれたのだが。

41年8月13日?25日?、コンスタンツァへ物流をおこなう鉄道が、ダニューブ川いわゆるドナウ川の所で長〜い鉄橋になっており、これを破壊することに成功。
対空砲があって、Il-2でさえ歯が立たなかったのを、なぜか、見事に成功したのだという。いかにもプロパガンダっぽい話ですが。
これが
最初または唯一の、ズヴェノーの実戦投入例だと言う人もいる。

この鉄道橋の所在地の地名は、チェルナボダ(Cernavoda、最後のaはブレーヴェ付きだが、今これを打ってるパソコンでは出ない)、橋も同名。ダニューブも大きな川だけれども、この橋も当時最大級の巨大な橋だったという。
ツェルナボダ、セルナボダ、チェルノボド、チェルノドヴォスキイなどと表記されていることがある。ネグラ・ヴォダだとする資料もある。

この時、母機6機が出撃したという説と、母機なのか子機なのか両方なのか「3機全部が生還した」という説がある。
パイプラインも破壊したという説もある。チェルナボダは海運の街だから、積み出し港だったんでしょうか。

41年10月、イェウバトーリア基地はドイツに占領された。
この日までに
29回出撃して、損害は子機3機のみだという説もある。

そのほか、艦船への攻撃もおこなわれたとか、消耗して任務達成が望めなくなるまで作戦活動を続けたとか、スターリングラード攻防の頃まで使われていたとかいう。 

もどる← 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送