土地を取ったり取られたり 日本人には実感わかないけれども、国がくっついたり分かれたり、人種や民族や言語の異なるものが寄せ集まって一国を形成していたり、同じ民族が複数の国にまたがって住んでいたりなんてことは、世界中どこにでもあり、特に欧州では、類人猿の頃から、ず〜〜〜〜っとそれをやってきたから、珍しいことでもなかったということです。 自分の住んでるとこを管理してる政府が、ドイツだろうとオーストリアだろうとポーランドだろうとスイスだろうとイタリアだろうとトルコだろうと、ちゃんとした政治やってくれるんだったらどこでもいいわけで、どうせ自分の国の王様は外国人だったり、外国の王様と親戚だったりするんで。 ところがナポレオン1世あたりから、自分はなに人で、なに国民だということを、強く意識するようになってきていた。 ドイツ人によるドイツ国家 もともとドイッチュラントは東フランク王国のことで、これが御近所と連合して神聖ローマ帝国をやったので、ドイツっていうのは昔からたくさんの旗本領みたいなやつの寄せ集めで構成されていたわけです。 バラバラでは近代化工業化できないので、ヴィルヘルム1世とビスマルクが、ドイツを再統一したのが、ドイツ帝国、いわゆる第二帝国。 第一次世界大戦に負けて、ドイツは帝国やめて共和制になったんですが、そしたら、これがまた弱小政党の寄り合いみたいな政府やってて、あんまりパッとしなかった。 もうひとつのドイツが、ハプスブルグ家オーストリア。 ここ最近は、民族の自決っていうと、分離独立の方向なんだけれども、この時のドイツは合併志向なんですよね。 ヴェルサイユ条約の結果、ドイツの国境付近の土地を、住民ごと、周辺国にだいぶ取られていた。 しかもドイツは、植民地を持ってません。 取られたものは、取り返す 抜いたなら斬れ、斬らないなら抜くなっていうのは、剣の極意です。 ところが、英国は中途半端に紳士だから、ちょっとドイツかわいそうだなァ、やりすぎだったかなァ、オレたちだけ植民地いっぱい持っててなんか悪いなァ、と思っちゃったんでしょうね、このころ融和政策になっていた。
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ヨーロッパ人にとって、世界大戦というのは、いまだに第一次世界大戦のことであり、そのくらい、世界が滅亡すんじゃないかっていうくらい大戦争でショックだった。 民族自決と言われると正論だし、第一次世界大戦の処理の時ドイツだけ民族自決させてあげなかったのが後ろめたいので、他国は文句が言いにくい。 ヴェルサイユ条約以来、国際連盟の管理下にあったザール工業地帯(というより、フランスに取られていたザール炭田)が、ドイツに復帰。35年。 フランスはとっくに軍事的に三流になっており、政治的にも安定せず、ドイツにちょっかい出す余裕もなくなっていた。 オーストリアをドイツに併合する。38年3月。 チェコスロヴァキアの西側周辺部は、もともとオーストリアであり、ドイツ人が居住していたから、ドイツに併合する。38年9月。 残りの部分は、10月にチェコ=スロヴァキアになった。スロヴァキアにも自治が認められて連邦になったわけで。 チェコ人ばっかり金持ちで政治をやってて、どちらかといえば農民のスロヴァキア人は面白くなかったので、ヒトラーがさかんに民族運動をたきつけた。 さらに、独立スロヴァキアとカルパトウクライナが分離。39年3月14日。 独立スロヴァキアはドイツの傀儡、保護国。 リトアニアには、東プロイセンの港を取られていたから、これをドイツに返してもらう。39年3月22日。 ドイツはポーランドにもだいぶ土地を取られていて、そのせいで、東プロイセンは飛び地になっていた。 ヒトラーは、ここまでの流れからいくと、ポーランドに侵攻しても英仏は手を出してこないと確信していた。 ソ連の登場と、英仏の正義感 ドイツの歴史は、このコンテンツと本書には関係ないんだけれども。 39年8月23日、独ソ不可侵条約が締結。 39年8月24日、英仏はポーランドと相互援助条約を締結、これでポーランドに攻め込んだ国があれば英仏は戦わなければならなくなる。 このあと、第二次世界大戦です。
→つづき
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