TOP←戻る 「松の廊下」の真相   

この事件で命を落としたすべての方々の御冥福を御祈りいたします。敬称略。

 

元禄14年(1701年)。
正月に幕府が新年の挨拶を御所へ送った。使者として遣わされたのが
吉良

その返礼で、3月に朝廷の使者が江戸に来ていました。
こういうことは毎年、慣例になってました。

12日(日付はもちろん旧暦)に、将軍と対面。13日には能楽など開催。
14日は、将軍と、将軍の母と、将軍の妻から、贈り物を渡すことになっていました。

最近の研究では、事件現場は松の廊下ではないかもしれない、という説もあります。
松の廊下は将軍と御三家と勅使くらいしか使わない特別な通路という説もあり、少なくとも映画みたいに大名たちがみんなでゾロゾロ歩くようなことは絶対ないともいう。
『赤穂義人纂書』の見取図とか、事件の瞬間を描いた豊国の浮世絵とかもあるけれども、長袴を穿いていたり、じつはかなりデタラメです。

この刃傷の場面に関してほとんど唯一まともな資料である、梶川の日記によって、松の廊下の曲がって6〜7間(1間は約1.8メートル)行ったあたりというのが定説になってますが、この日記も、なんだか鵜呑みにはできないようで。

斬られながら逃げますから、騒動になったのが松の廊下だったとしても、斬り付け始めた場所は白書院の近くかもしれない。

梶川は御台様(将軍の正妻)を担当する役人なので、口上や贈り物の準備をしていたところ、「さっき吉良殿から、今日の儀式の時間が予定よりも早まったとの連絡がありました」と言われた。
確認のため、吉良本人をあちこち探したが、いない。

勅使御馳走役の浅野と伊達と、高家たち大勢がいたので、吉良殿に来てもらってくれと茶坊主(接待係、お茶汲み、取り次ぎ役のボーイ)に命じたところ、茶坊主は行ってすぐ戻ってきて言うには、吉良殿はただいま御老中方からの用があるとのことでお行きになってますと。

じゃあ浅野殿を呼んでくれと命じると、浅野がすぐ来てくれたので、拙者は今日は勅使に対し将軍夫人の使者を務めますので、いろいろよろしくお願いしますと言うと、心得てますと浅野は言って席へ戻っていった。この時は、浅野はまったく普通だったらしい。

白書院のほうから吉良が来たので、また茶坊主を呼びに行かせたところ、吉良が承知して近付いてきて、こっちからも近付いていって、そこで立ち話になった。

すると突然、奇声がして、吉良の後頭部に何かが当たった(かなり大きな音を立てた)。
吉良は振り返ったら眉間を斬られ、逃げようとしたら背中を2回ほど斬られた。

…というようなことを梶川が日記に書いてるわけです。

このとき浅野が「上野介、先日の遺恨、おぼえたか」とかなんとか叫んだというセリフはウソらしいです。
奇声は上げたようだが、何を言ったか、よくわからなかったらしい。

いじめられていたという話がもし本当だったとしても、家臣と領民をかかえる君主として、軽率すぎる。

理由がなんであれ、自分で原因を作ったとしか思えません。

赤穂浅野家は大変なケチで、幕府から命ぜられた仕事の経費を、通例の半分だか3分の2だかですませようとしたことがあったのは事実らしいです。
それじゃあまりにもダメだ、と吉良に忠告されたことはあったんでしょう、忠告するのが仕事だから。
今回のこのイベントも、同僚の伊達家に比べて、かなり少額でやろうとしたのだという。

あるいは、ただ単に、若者と老人という図式か。子どもの頃からチヤホヤされて育ち、批判されるとすぐカチンと来る、まだ世間を知らない、血気さかんな若者と、それを心配して、ついつい注意してしまう、説教好きで煙たい老人か。
…と思ったら、それは違うようです。
浅野は享年35歳。20代前半くらいならともかく、30代なかばにもなって、感情を押さえきれなくて殺人未遂なんて、ましてや藩主としては軽薄ですねえ。
そして、吉良も享年61歳なんです。森繁久彌さんあたりが白髪のカツラで演じるものだから、もっとめちゃくちゃジジイかと思ってたけれども。

事情は結局、わからない。でも、直接的な原因は浅野の気性にあるというのが定説です。
浅野は早くに両親を失っており、なにか心に傷があったのかもしれない。
事件後、吉良の応急手当をした江戸城の医者の日記に、
浅野は日頃から情緒不安定なところがあった、という意味のことが書いてあります。

殺すつもりなら後ろから黙っていきなり刺せばいいものを、身構えてない年寄りに何度も斬り付けてカスリ傷だけしかつけられなかったことは、やっぱり精神的におかしかったか、少なくとも感情的に抜刀しているということだけは間違いないわけで、武士として甘いと言われてもしかたないです。
殿中でやらずに、朝廷が来てる日にやらずに、城外で後日暗殺することだってできた。

じつは大名同士や江戸城内での刃傷沙汰は、ほかにもいくつか例があるんですが、たいていは相手を仕留めてます。

それでも、俺は浅野側が好きなんです。
個人的な意見だけど、四十七人の暗殺者が、主君の意思を継いで
うらみをはらした、それだけでいいんです。
現代だったら、どんな理由があろうとも許されることではないが、この時代は、人の命よりも名誉が重かった。

吉良は浅野を殺したわけではないから、カタキ討ちではない。
吉良は喧嘩を買っていない、というか、そもそも喧嘩じゃないから
喧嘩両成敗というのも違う。
カタキと言うなら、将軍や幕府を倒さねばならない。後日のはずの切腹をその日のうちにさせたのは
将軍綱吉です。まったく罪人扱い。

この仇討ちに加わらずに逃げ出したり、加わったが途中で脱落した人がたくさんいて、これまた悪者にされちゃってるみたいですが、ただでさえ泰平の時代に、そんなにたいした藩主でもなかったから、仇討ちに参加しないほうが当たり前だったみたいです。
赤穂浅野家の家臣は、308人。

佐藤直方とか、『葉隠』などは、赤穂浪士に批判的です。
亡き主君のためであれば、すぐに討ち入るべきであって、成功しようと失敗しようと結果は問題ではなく、忠義を行動で示すことが本質なのであって、それを1年も機会をうかがっていたのは、成功させて生き延びたい、見事にやりとげて賞賛されて、あわよくば再仕官が叶う、という打算が働いていると見ている。
討入成功後に泉岳寺の墓前でただちに切腹しなかったことも同様。

上手にやろうとして何がいけないの?死ななくてすむほうがいいじゃん、と思っちゃうのが現代人の感覚なのだけれども。
ほかの主君に再就職しようなんてのは、武士道の倫理観では、それこそ泰平時代の堕落した官僚的な武士の発想であって、赤穂浪士を絶賛する人たちが一番嫌うことです。
切腹したから美談になってるようなところがある。
これで生き延びてしまったら、主君のためという綺麗事を口実にして利益を得た、就職のためにやった、ということになっちまうからです、結果的に。

もっとも、このへんの行動は浄瑠璃坂の仇討を手本にしているようだけれども。

オチがないから書くけど、女優の浅野ゆう子さんは、浅野長矩から芸名をとったそうです。なんだかな〜(笑) 普通、大石とか堀部とかってつけない? マニアでも原とか不破とかさあ。

 

 吉良上野介義央
じつは旗本なんですが、仕事柄、身分は従四位上。並の大名よりも位が高い。
江戸時代には、高家という名門の旗本たちが高家職というのに任じられて、式典や礼儀作法を司ってました。公家出身者や、戦国時代の大物武将の子孫、足利一族など、約26家。
吉良は足利一族です。武家作法は室町時代に完成したので、足利家を手本にするんです。
高家の中でも特にベテランの3人が高家肝煎で、吉良はそのひとりでした。
名君として領地では下々からも慕われ、開発した新田に奥さんの名前をつけるなど、大名には珍しい愛妻家としても有名でした。

 朝廷の使者
東山天皇の勅使、前大納言柳原資簾、前中納言高野保春。
霊元法皇の院使、前大納言清閑寺熙定。

 松の廊下
幅2間の大廊下で、本丸大広間を出て右手に中庭を見ながら右に曲がって幅が半間増え、白書院へと向かう通路です。
松の大廊下。松に千鳥波の、狩野派の襖絵があることから、こう呼ばれている。
廊下といってもタタミじきで、縁側は別。

 唯一まともな資料
ほかに、事情聴取にあたった目付の多門伝八郎の手記なんていうのもあるんですが、これは後世の偽書らしいです。

 梶川與惣兵衛頼照
大奥御台所付留守居番。
時代劇では浅野が「止めてくれるな梶川殿〜武士の情けでござる、いまひと太刀〜」とか叫んでますよね、あの時、浅野を背後から、はがいじめにしてる裃姿の人です。怪力だったという。
この制止の手柄で500石を加増されてます。

 鵜呑みにはできない
この日記は、刃傷事件直後にも書いたのだろうけれども、その後、梶川自身が、だいぶ書き足しや修正をやってるらしい。
周囲にいたみんなが駆け付けてきて取り押さえた、自分だけじゃなかった、今になって思えば心中お察しする、無念だったろう、予想外の急なことだったし事情も知らないので止めるしかなかったのだ、というような言い訳が書いてあったりします。
浅野の邪魔をして収入が増えてラッキーなんて奴は、赤穂浪士の人気が高まって以降は、余計なことしたバカ野郎ということで、肩身が狭い状況もあったであろうことは想像がつく。

 白書院
江戸城の客間は白書院と黒書院があって、白書院は典礼を行う神聖な部屋です。
書院ってべつに図書室じゃなくて、武家屋敷は書院造りで、書斎が客間なので。

 勅使御馳走役
朝廷の使者をもてなす役目。費用はその藩が負担。
この時は、伊予吉田藩の伊達左京亮宗春と共に、浅野が任命されていました。
浅野はこの役目を以前に一度やったことがある。
しかも、その時の指南役も吉良義央だった。その時から恨みがあったのかもしれないが…。
少なくとも、作法が全然わからないなんてことはないです。
逆に言えば、前回つとめた時に比べて物価も上がって賄賂もはなはだしくなってるので、前回のやり方でやろうとする浅野と、時価でやろうとする吉良が、衝突ということはあるのかもしれないけど。

 何かが当たった
この日の大名は裃よりも正式な、大紋という礼服で、高家の場合は狩衣でした。いずれも、烏帽子をかぶっており、烏帽子には金属の輪が入ってます。

 セリフはウソらしい
梶川の日記は、原本が現存しない。
写本によって、このセリフが書かれているものとないものがあり、後世、書き加えた可能性が高いわけです。後から書いた本に、こんな重要なセリフが抜け落ちるわけはないもの。

 自分で原因を作った
赤穂の塩田の秘法を教えなかったからとも、付け届けをしなかったからとも言われてますが。家や領民のためなら信念を曲げるのも支配者の仕事のうちだと俺は思うんだけど。
武士は、日常でケチケチして、ここぞという所、義理の交際費とか晴れの祝いとかには、豪快に金を使うべきです。
ましてや赤穂は金持ち藩なんだから。

 結局、わからない
『浅野内匠家来口上』、時代劇で討入のとき竹挟で玄関先に立てている文書(この行為は史実)、なぜ討ち入ったかという声明文ですが、これの冒頭に事件の発端をこう書いてある。
「当座のがれ難き儀 御座候か 刃傷に及び…(原文は漢文)」
(その場をとりあえずおさめることができないようなことでもあったのだろうか、抜刀傷害事件に至ったわけだが…)
この言い方では、
刃傷の理由は家臣たちにもわかっていない、または、わかっていても言いたくないのでトボケておきたいような、後ろめたい原因らしい。
もし吉良が本当に悪いんだったら、こういう文書には、ここぞとばかりにそれを書くでしょう普通。

浅野は側用人への遺言(口頭の伝言)の中で、「此の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむことを得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」と述べており、結局、家臣たちは事情がよくわかってなかったらしい。

 うらみをはらした、それだけ
大石は討入前に、子どもも皆殺しにせよと指示してます。

 喧嘩両成敗
鎌倉幕府以来の武家の大原則で、ケンカをしたら理由や状況を問わず両方処罰というものです。
ケンカを予防するのが目的なので、実際には、応戦しなかったほうは殊勝だからといって許されることもよくありました。
柔術が武器を持つ相手を素手で制するのも、ひとつにはこれが関係してます。

 将軍綱吉
御存知、殺生禁止の、宗教的道徳的に敬虔な将軍です。
皇室を敬うことにも熱心で、皇室の収入を増やしたりした。
生母が、身分の卑しい町人の娘なので、綱吉としてはコンプレックスがあり、親孝行な人でもあるから、従一位(今で言えば首相かそれ以上、菊花大綬クラス)という地位を朝廷から母にもらってやって、立派な肩書を付けてやろうということを、まさに、この時にやっていたので、朝廷の機嫌をそこねたくなかったんですね。
しかも刃傷の時は、神聖な儀式にそなえて身を清めようと、ちょうど入浴中だったので、式典を血でけがされたなんてのは、頭に来たらしい。

 罪人扱い
浅野は駕篭に錠をかけられ、網をかぶせられて、江戸城の不浄門である平川門から出てます。切腹は室内ではなく庭先での切腹。
とうてい、大名の死に対する待遇ではない。
これはやっぱり、朝廷との関係を心配した将軍家の都合という感じがします。

 仇討ちに参加しないほうが当たり前
『赤穂浅野家は、当時の列藩中でも有数の内政腐敗藩で、後の田沼政治のように、美女を上役に進献しなければ家格の維持がむつかしく、万事が官僚主義と女色饗応で明け暮れる状態であったから、故主の仇をうつなどという倫理観にしばられるのは、心ある人たちには、馬鹿臭かったかも知れないから、出奔しても、あながち過大に叱責するに当たらないかも知れない(綿谷雪『新・日本剣豪100選』)』

 浄瑠璃坂の仇討
ひとつ前の将軍、家綱公の時に起きた事件。
宇都宮藩士同士が喧嘩、抜刀した側だけが切腹して、両成敗されなかったばかりか、相手側は優遇されたもんだから、遺児とその協力者たち(同情して脱藩した元藩士ら)42人が討ち入って、本懐を遂げた。
この時も、火事装束に仮装して、明け方に襲撃だったそうです。
幕府に自首したところ、おカミに対し殊勝であるからと同情を買うことに成功し、大島への流罪ですんだばかりか、のちに恩赦で解放され、彦根藩などに再仕官できている。

 

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