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水戸黄門は無礼者だった

 

黄門様が、兄をさしおいて水戸藩主になってしまったことを悩み、
若い頃はグレていたというのは有名ですよね。
自分の子じゃなくて兄の子に水戸藩主の座を譲ってます。

無礼ってのは、その話じゃないです。テレビの中だけ。

 

その前に、こんなこと御存知でしょうが、黄門と隠居について、念のため。

黄門は中納言の中国表記で、
日本の中納言が唐の門下省次席「黄門侍郎」にあたる役職だからこう言います。

ほかにも中納言はゴロゴロいたわけで。
小早川秀秋公は10歳くらいで黄門になってるし、
平知盛公とか上杉景勝公とか、みんな黄門様です。

尾張藩主が大納言であるように、水戸藩主は中納言であり、
家の格式としてだいたい決まってたから、

ほかの歴代水戸藩主だって水戸黄門なんですね。

中納言とか越前守とか左衛門尉とか、こういうのは律令制時代の遺物だから、
江戸時代にはもう、ただの肩書です。

徳川光圀は生類憐れみの令に断固反対して、将軍に犬の毛皮を送りつけた
なんて話もあるくらいだから、煙たがられて昇進が遅れたらしくて。
藩主をやめてから
権中納言の位をもらってます。
権(ごんの)は、定員外という意味
です。

その翌年、西山荘に引っ越して、それから死ぬまでの約10年間が「御隠居」です。
テレビでやってるのは、毎年旅に出ても10年じゃ足りないですが。

 

隠居というのは家長の権利を譲るかして、引退しちゃうことで、
昔の人は結構早く隠居していて、余生は悠々自適にやっていたらしい。

江戸文化の研究家、杉浦先生が、隠居を称しておられたほか、
わかりやすい例でいうと大橋巨泉さん、ありゃあ間違いなく隠居です(笑)

次の人は君主だから、それがたとえ自分の子でも敬語を使うし、
政策にも口出ししないタテマエです。

 

史実では、光圀様のお忍びは自分の領地内の視察だけだというけれど、
そもそも
水戸藩主は参勤交代しないでずっと江戸にいる

けれど、まあ時代劇だし、隠居後に諸国漫遊するとしても、
徳川光圀公が御隠居と呼ばれている時期は60代がいいところ。

というのは、亡くなったのが73歳くらいなんですよね。
これ、あとで重要になります。

 

ここまでが前置きです。スクロールしてください。

 

 

 

 

 

 

 

『礼記』の中に

  50歳になったら → 自宅で杖を使っていい

  60歳になったら → 自分の村の中でだけ杖を使っていい

  70歳になったら → よその村へ行く時も杖を使っていい

  80歳になったら → 王様の目の前でも杖を使っていい

  90歳になったら → 王様だろうとそっちから訪ねて来い!

というような意味のことが書いてあるんです(笑)

若い者が偉そうにステッキなんか使うな、
王様の目の前で棒なんて武器になるじゃないか、ってことでしょうね。

 

礼記(らいき)』は古代中国の礼儀作法を集めた書です。
武家で必須となる儒学の経典「四書五経」のうち、
四書のうちの2つ『大学』『中庸』は、『礼記』の一部分です。

黄門様は歴史書のほか随筆から医学書まで、膨大な著書を出してます。
数えたことないけど80冊は超えてるはず。

あれほどの碩学が、『礼記』なんていう基本的なものを読んでなかったわけがない。

 

明治期なら刀のかわりにステッキを持つ士族もいました。

竹を杖にするということは、さまざまな規定があります。
節の数も7だか13だか、なにか有名な言葉の文字数になぞらえて決定していたりします
(これはどういう故事だったか忘れた…)。

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