もどる ←もどる 水戸黄門は無礼者だった
黄門様が、兄をさしおいて水戸藩主になってしまったことを悩み、 無礼ってのは、その話じゃないです。テレビの中だけ。
その前に、こんなこと御存知でしょうが、黄門と隠居について、念のため。 黄門は中納言の中国表記で、 ほかにも中納言はゴロゴロいたわけで。 尾張藩主が大納言であるように、水戸藩主は中納言であり、 中納言とか越前守とか左衛門尉とか、こういうのは律令制時代の遺物だから、 徳川光圀は生類憐れみの令に断固反対して、将軍に犬の毛皮を送りつけた その翌年、西山荘に引っ越して、それから死ぬまでの約10年間が「御隠居」です。
隠居というのは家長の権利を譲るかして、引退しちゃうことで、 江戸文化の研究家、杉浦先生が、隠居を称しておられたほか、 次の人は君主だから、それがたとえ自分の子でも敬語を使うし、
史実では、光圀様のお忍びは自分の領地内の視察だけだというけれど、 けれど、まあ時代劇だし、隠居後に諸国漫遊するとしても、 というのは、亡くなったのが73歳くらいなんですよね。
ここまでが前置きです。スクロールしてください。
『礼記』の中に 50歳になったら → 自宅で杖を使っていい 60歳になったら → 自分の村の中でだけ杖を使っていい 70歳になったら → よその村へ行く時も杖を使っていい 80歳になったら → 王様の目の前でも杖を使っていい 90歳になったら → 王様だろうとそっちから訪ねて来い! というような意味のことが書いてあるんです(笑) 若い者が偉そうにステッキなんか使うな、
『礼記(らいき)』は古代中国の礼儀作法を集めた書です。 黄門様は歴史書のほか随筆から医学書まで、膨大な著書を出してます。 あれほどの碩学が、『礼記』なんていう基本的なものを読んでなかったわけがない。
明治期なら刀のかわりにステッキを持つ士族もいました。 竹を杖にするということは、さまざまな規定があります。 |
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