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風流でやってたわけじゃねえよ

 

 日本海海戦

ロシアが大軍で南下してきて邪魔でしょうがないんで、日本は東アジアを侵略する前に、まずロシアを片付けにかかったというのが日露戦争です。

ロシアは、バルチック艦隊つまりヨーロッパのバルト海で使ってた海軍を、わざわざ極東へ持ってきた。
スエズを通れない大型艦は、御苦労なことにアフリカ南端を回ってきた。
それを、東郷平八郎提督が迎え討って、艦隊を急ターンさせる戦術で大勝利した。

ここまでは軍事に興味ない方でも、歴史の授業で聞かされてますよね。

日露戦争では、陸軍も各地で大激戦をやって、特に旅順陥落や奉天会戦は戦争の勝敗を決定づけたんですが、日本海海戦は、これもまたロシアに大打撃をくらわした大手柄で、しかも、これ以降の世界中の軍艦の設計を根本的に改めさせたくらいに、海軍史の上で大事件でした。

 

 気取った文章?

日本海海戦が始まる直前、現場から連絡を送るときに、秋山真之という参謀が、本日天気晴朗ナレドモ波高シという有名な一文を付け加えました。

これを知った海軍大臣の山本権兵衛が、武人にあるまじき無用の美文であると、激怒したと言われてます。
国家の存亡がかかってる時に、俳句じゃあるまいし、なにを気取って風流なことをほざいておるのかと。

 

 秋山と山本

秋山真之。
日本の海軍は薩摩出身者で固まっていたんですが、この人は伊予松山出身です。実力で出世した。
頭脳明晰、東西の兵法に精通した知将で、だから東郷艦隊で参謀やっていた。
決して
文弱ってわけではないらしいけれども、たしかに文章はうまかったと伝えられています。
日本海海戦ではほかに『舷々相摩す』という名言も残している。

山本権兵衛。
虚飾を嫌い、実用本位の硬派な男でした。
兵学校では、理不尽なことや納得いかないことは、教官に対してでも反乱を起こした。
艦長を歴任したあと、軍務局長、海軍大臣、伯爵、首相まで登った。
海軍を大改革して、「海軍の父」と言われた人です。
経費節減のため人員削減、特に明治維新の恩賞だけで幹部になってる無能な連中を、同じ薩摩出身者といえど容赦なくクビにした。
評価が低かった東郷提督を大抜擢して連合艦隊をまかせたのもこの人。

 

 これから海戦だぞ?

帝国軍人は質素でなければならない、という決まりがありました。
石田三成公がものすごく嫌われてたように、戦争っていうのは男たちが体を張って殺しあう世界だから、外観ばかりで中身がないとか、言うのは簡単だが実行が伴わないとか、机上の空論とか、そういうのは嫌うんですよね。
飾りに熱心になると、本質がおろそかになるんで。

それはいいんだけど、この秋山参謀の電文は、ダメな軍人の典型みたいに言われてます。
礼儀作法の本に、ムダな飾りのせいで男らしくない例
として引き合いに出されていたりもします。

これはちょっと聞き捨てならん!

天気が良くて、波が高い。
海軍の軍人として、船乗りとして、これのどこがいけないんだ?

 海戦を知らんのか

このとき日本は、絶対にバルチック艦隊をウラジオストックへ行かせずに、通せんぼしなければいけなかった。
敵を合流させない、なるべく別々に片付けていくというのは、軍事の基本です。

しかしレーダーはおろか偵察機もない時代だから、バルチック艦隊が日本海をつっきるか、待ち伏せを避けて太平洋側を回るのか、よくわからなかった。

晴れているということは、霧で見失う心配がないということです。
行き違いにもならないし、討ちもらしはしない。

そして、バルト海ってのはスカンジナビア半島の内側で波が静かだから、軍艦もフチが低くて、対馬あたりの荒海には慣れていない。

旧日本軍の軍艦は舷を高くしてある。
こちとら海軍を創設して以来、毎日毎日、四方の海流にもみくちゃにされておる。
特に今回は、東郷艦隊は事前に厳しい訓練をみっちりやっておいた。

波が高いということは、照準が揺れる、つまり、砲撃の正確さなら断然こっちが有利、まさに今そういう状況になっている!ということを伝えてきてるわけです。

 

 なんでこうなったか

天城、高雄、高千穂の艦長もやってた山本権兵衛ほどの人が、こんな海戦の初歩を知らないとも思えないので、これは何か事情があったのかもしれない。

秋山参謀の兄っていうのが陸軍で出世していて、日露戦争では第一騎兵旅団長として大活躍の大手柄、そのあとも出世を続けて大将、陸軍省の参議官や教育総監にまでなってます。
陸海はライバルだから、陸軍の偉い人の弟が海軍にいるっていうのは、海軍の人たちからは悪く言われやすいでしょう。

日露戦争に勝った後、日本は調子に乗って、ますます軍国主義を暴走したわけです。
国力のかなわない相手に戦争しちゃダメだということは、ほかでもない東郷提督が当時から言っていた。
でも日本中がうかれていたから、東郷は謙虚だなァくらいにしか受け取られなかったし、また、そう思わせたほうが国策に都合よかった。

東郷提督は国民的英雄に祭り上げられ、しまいには神社になっちまう。
優秀な参謀がそばにいて作戦を補佐していたというより、ダメな参謀が道化役になってて
東郷だけが天才というほうが、わかりやすい図式だったのかもしれない。

それに、戦争中はさんざん士気を高めておいて、終わってみればロシアから賠償金を取れなかったものだから、日本各地で怒った民衆が集会したりデモしたり火をつけて回ったりした。

山本大臣は、このあと首相を2度やったんですが、2度ともすぐにやめている。
海軍の兵器導入にからむ収賄事件と、皇太子暗殺未遂事件の、責任を取らされて
引きずり降ろされたんですね。とばっちりで。

山本内閣は、前述のとおり改革路線だったから、海軍の軍人たちにとっても煙たかった

日本海海戦はマグレだからあんまり美談にするな、海軍はたいした連中じゃない、海軍は陸軍のオマケじゃない、秋山なんかいなくても東郷は強い、山本はけしからん奴だ、というような考えを広めたかった人が、いろいろいたのではないか、それぞれの思惑でいろんなことを言ったのではないか…と俺は想像してます。

原因は風流ではなくて、世論操作だったんじゃないかと。

 

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